「黒山ノ鬼窟」
20の年から始まった結核は、病巣部を摘出するという当時にあってはかなり危険な手術をすることで完全に治癒した。そして術後、暫く静養して社会復帰したときには、私はもう30才になっていた。
地元の高校で非常勤の時間講師をすることになった私は、毎日、学校で1時間か2時間、社会科の授業をやって帰宅する生活を始めた。アルバイトと言うより、半失業という状態に近い生活だったが、これが4年間続いたのだ。4年も続いたのは、体力が回復しなかったからではなく、本採用になるまでに、健康診断を初めとしていろいろとハードルが多かったからだ。
この4年間は、過去にも経験のない憂鬱な期間だった。問題は、 私が人の好意を乞う立場に立ったことだった。それまでの私は、「世間」なるものに対して公然たる侮蔑の表情を示し、もろもろの世俗的権威に対して非妥協的な態度を取ってきた。
非妥協的な態度を持続できたのは、自分の内部に現実を大観する遠視点を構築できたからだった。私は仲間から「人間嫌いの独身主義者」と見られ、「超然としているんじゃなくて、浮き上がっているんだ」と酷評されたりしていたが、そんな世評も全然気にならなかった。
ところが、教諭職に任用されるには、自分の印象をポケットをひっくり返すように変えなければならないと思った瞬間から、私は崩れだしたのである。
無欲で暮らしていたころ、(新しい背広を作ろう)と思い立った瞬間に、それまでの幸福な生活が音を立てて崩れ去った。今度は、人の好意を得たいと思った途端に、広大な「世界」を観望していた遠視点が崩れ去って、私は狭い「世間」に転げ落ち、絵に描いたような卑小な人間になってしまったのだ。その頃、私は「黒山ノ鬼窟」という言葉ほど、自分をよく表しているものはないと思っていた。「正法眼蔵」は、欲望にとりつかれた人間を、暗黒山の岩窟に身を潜めた鬼と表現しているのである。自分に対する幻想が消えるやいなや私の自己像は急落して、自分をエゴの塊、洞窟のなかの鬼だと思うようになったのだ。
私は現世に対して強い厭悪の念を抱きながら、その現世に媚びへつらってその愛を得ようとしたのだった。嫌悪している相手の愛を求めて行けば、その人間はおかしくなるに決まっている。世間から受け入れられたかったら、こちらも世間を受け入れなければならない。私のしたことは、身勝手も甚だしい行動だったのである。
「霊光」に遭遇する昭和三十三年九月四日の夜のことである。
その夜、私は実家の二階に蚊帳を釣り、その中で仰臥して本を読んでいた。当時、私が使っていたのは、広い二階の東北隅の八畳間であった。この部屋の周囲は空室になっていて誰もいなかったから、二階へ上ってしまえば、私は完全に一人になれるのである。
部屋の障子戸は庭に向って開けはなたれている。戸外の柿の梢が、部屋のすぐ近くまでのぴて来て、室内からもれるあかりに葉群を浮びあがらせていた。風のない夜で、重なり合った柿の葉は微動だにしない。ほとんど、物音というものがない静かな夜だった。
午后十時を過ぎた頃である。読書に疲れて来て、私は書見器から目を離した。書見器で本を読むのは、病気療養中に身につけた習慣で、以来私はあらゆる種類の本を皆これで読んで来たのだ。
私は暫く、ぼんやり天井に目をやっていた。蚊帳をへだてて見上げる天井は薄暗かった。蚊帳の中の明るさと、その外側の明度には段落があるのである。
何もすることがないと、気持が自然に暗い方向に流れて行くのがその頃の癖だった。私は、ハイミスが室内で猫を飼うように、心の中に自己嫌悪を飼って暮していた。自己嫌悪は私が独りになり、放心状態におちいると、猫が足音を忍ばせて帰ってくるように私の心の中に戻ってくるのであった。
この夜は、さすがに自分でもそうした心の動きがやり切れなくなったらしく、嫌悪感を振り切ってしまうための無意識の内面操作がはたらいた。私は、暗いところから明るいところへ急いで浮びあがろうとして、東京の療養所で知りあったTの顔を思い浮べた。私は、Tのイメージにすがって、別の世界に浮揚しようと試みたのである。
五年前、Tと私は結核療養所の外科病棟で起居を共にしていた。Tは東京の私立高校に勤務する現職の教師であり、私も数年前退職するまで、都内の私立高校の教師であった。経歴に共通点のあったことから私達は親しくなったが、私がこの時Tの顔を思い浮べたのは、単なる懐旧の情からではなかった。
彼が当時一種の「安心」の雰囲気を漂わせており、私がその時、痛切にその種の「安心」を必要としていたからだった。
Tは、おとなしい、目立たない男だった。だから、大部屋で私達と一緒に暮している二十名余の患者の多くは、彼の存在を気にもとめずに黙殺していた。彼は、ひまがあると、黙ってベットに寝て本を読むか、耳にレシーバーをあててラジオの音楽を聞いている。さもない時は、窓の外をじっと何時までも眺めているのである。
Tは大きな寺院の跡取りで、円顔の頭を刈り上げて丸坊主にしている。顔色も少し青く、このため生徒達は、彼にグリーンピースというアダ名をつけているそうであった。
結核療養所の内部で、健康な頃の生活を律していた節度を保つのは難しかった。この中では、誰でも自堕落になって行くことが避け難いのだ。だが、Tは静かにおのれを保持して、節度ある日常を送っていた。患者の中には、Tの持つ「安心」の雰囲気にひかれ、彼に近づいてあれこれ相談を持ちかける者もいた。すると、Tは問いかけられた範囲で意見を述べ、あとは口をつぐんでしまうのだ。彼の教えている生徒の中には、こういうTを歯痒ゆがって見舞いに来る時サルトルの戯曲集を持参し、この次に読後の感想を聞かせてくれと言い残して行く者もあった。すると、Tは苦笑しながら、言われた通りその本を読んでみるのである。
「あの生徒は、僕を教育しようとしているんですよ」
とTは笑いながらうち明けた。
まわりの人間が、自分をどう遇しようと、彼はそれらをすべて穏やかに受け入れ、人が牛と言えば牛、馬と言えば馬になって生きて行くのだ。
私は目を天井に向けて、そんなTの行動を次々に思い浮かべた。
(しかし、あれは一体どういう男だったのだろう)
私は、目の前のTのイメージに向って問いかけた。ベットに静かに寝て、何時迄も窓の外を眺めているTの頭には、一体何があったのだろうか。
Tは、自分が心から愛し得るのはモーツァルトだと語ったことがある。私は、(彼の頭の中に何かがあった訳ではない。Tの内面は空虚なのだ。虚なる内面に、モーツァルトが鳴り響いていただけなのだ)と考えた。実際、私は、風来れば動くという風なTの所作の背後に、特定の信条や、哲学のようなものを想定することができなかった。強いて仮定すれば「虚」とか「空」とかいう言葉しか思い当らない。私が目前に作り上げたTの映像は、表皮だけを残して中味を失った鋳型のようなものになった。
私は暫く自分の作り上げたTの塑像を眺めていた。なにか釈然としないものがあった。説明のできない衝動にかられて、私は思わずこの鋳型の中にもぐり込み、内側からピッタリと彼と一体化しようとした。
この直後に、驚くようなこと起ったのである。
私は、いきなり炸烈する至福感情の真只中にほうり込まれたのだ。「一大光明」と呼んだらいいような内的な輝きの奔出が突発したのである。一挙に何かが爆発し、私自身がその爆心部の透明な静寂の中にあるような感じに襲われた。
天文学によれば、宇宙のはじまりに超高密度の「宇宙卵」,が爆発し、次の瞬間、数分間にわたって宇宙は光で充たされたという。天文学者はこの爆発を「ビック・バン」と呼んでいる。私の内部にも、このビック・バンが突発したのである。
奔出する光の海のただなかで、私は茫然となっていた。「絶頂感覚」、それであった。私の四辺のいたるところに溶岩流のような歓喜の光があった。
自分というものを完全に忘失していた時間は、それほど長くはなかった。やがて私は自分を取り戻した。最初に現前した歓喜は言語的表現を超えていた。いくら言葉を尽して説明しようとしても不可能なのである。それが拡がり展開して、時間の過程の中に入ると、ようやく頭が働きだしたのだ。時間の感覚とともに、自己感もそれに伴って生じて来たのだ。
気がついたときには、私は「大朗」というような気分の中にいた。広々とした海洋のような喜び。法悦といってもいいかもしれない。それは、これまでに私が知っていたよろこびや幸福感とは別種の、それとは比較を絶して巨大な歓喜だった。
私は光り輝くものの只中にあって、それがさかんに湧出するさまを声もなく見守っていた。浄光は、早朝の温泉場の湯が広い浴槽のへりからこほれ落ちるように、私のまわりに豊かに溢れ出ていた。それは八帖間を充たし、四辺の隅々まで行きわたった。
光の湧き口は、明らかに私の内部にあったが、体内という意味ではない。私達が普段よろこんだり悲しんだりする時、それらの情動は確かに私達の体内にあるのだ。しかし、私はこの時完全な「身心脱落」の状態にあって、自我をいれる容器としての心も身体も持っていなかった。
だから、この時、私が自己の内部と感じたものは、これまで知っている内面とはまるで違ったものだった。私は虚体であり、がらんどうだった。光はそのがらんどうの中枢から湧いてくるのだ。
私は八畳間の襖や本棚、その他のあれこれをちゃんと肉眼で見ており、しかも同時に、もう一つの目で、この部屋を充して隅々まで行きわたった浄光を眺めている。九月初旬の夜十時という日常的な時間の上に、この未聞の現象が進行しているのだ。
三十分ほどして光の湧出は終った。だが、光の残照のようなものはあたりに立ちこめ、四通八達したよろこびの感情はそのまま続いていた。その頃から、私の思考力は動きはじめ、なおも続く至福感に包まれたまま、「光」に向けて感謝の言葉を捧げはじめた。
私が思い出したのは、「朝に道を聴けば、夕に死すとも可なり」という論語の一節だった。私が三十二年間生きて来たのは、この絶頂に達するためだった。これが、私の人生のゴールなのだ。私はもう自分の存在の目的を達したのだから、今ここで死んでしもいい。
光の湧出が終る少し前に、私は光の泉が、その上に降り積った落葉やワラ屑を軽々と押し流して行くイメージをはっきりと見た。落葉・ワラ屑は、古い私の残骸、死せる自我の断片であった。
「光の泉」の語る意味が、この時の私には実によくわかり、まるで解説つきの科学読物のイラストを見るようであった。私の本体は、無限に湧出する光なのだ。何者もこれをさまたげることはできない。何者もこれに危害を加えることはできない。私は、これ迄必死になって自分を守ろうとして来たが、そんな必要はどこにもないのだ。
誰が光を奪い取ることができるか。人間には、本来、守るべき、ものなどないのである。私は既に与えられ、充されている。これ以上、一体何を求める必要があるか。
泉が押流した落葉は、これまで私が守ろうとして来たエゴにほかならなかった。今迄、自分だと思ったものは、棄て去るべき形骸であり、かさかさに乾いたカサブタなのだ。古きものを脱ぎ棄てよ。死者をして死者を葬らしめよ。私はただ、絶体肯定の光体となり、この世界を無条件で包容して行けばよいのだ。
更に時間がたって、私はようやく自分の身体感覚が戻って来たことに気づいた。恍惚感の下から、あぶり出しの文字のように身体感覚が浮び出て来たのである。
その夜、私は出産をおえだ妊婦のように安らかな気分で自然に眠ってしまっていた。世界と、そこに生きるすべての人々に対する愛と肯定の気持の中で、知らぬ間に眠ってしまっていた。
二回目の経験
その後いろいろ調べてみると、「霊光」に包まれるという体験は、かなり普遍性のある現象なのだった。禅僧たちは悟りの瞬間に、現実を突き抜けた彼方に、光明に輝く別天地を見るようだし、イスラム教徒は修行中に体験するこの種の光をイルミネーションと呼んでいるという。
修行中の宗教者が、この体験を得たら何の迷いもなく、回答が与えられたと信じるだろう。だが、私は特定の宗教を信じていたわけではなかった。禅書や福音書を読んではいたが、それは知的関心からであって、私は求道者ですらなかった。だから、私は霊光に包まれながら、唐突に現れた摩訶不思議な現象に「遭遇した」と思ったのだ。
私がこれを自分の人生に起こった最大の事件だと思ったのは確かである。この体験から、それほどに深い印象を与えられたのだ。しかし、私には訳が分からなかった。半信半疑だった。
私の身の上に、その後も神の恩寵と思われるようなことが続いて起こった。どうしてもパス出来なかった健康診断にパスしたのがこの三ヶ月後、更にその三ヶ月後には結婚し、翌年の四月には、県職員として木曽の高校に赴任することになったのである。
私は結婚したくて結婚したのではなかった。私が衷心から望んでいるのは、屋根裏時代の生活であり、独居の自由であった。結婚して係累を増やし、子を生んで負担を加え、一家を構えることで近隣と永続的な関係に入る。それは何時でも自由にできる女の身体を持つのと引き換えに(当時は、結婚とはそういうものだと思っていたのだ)、独身者の天衣無縫の自由を売り渡すことであった。
私は次々に結婚して行く友人達を眺め、彼らは自分の入る檻を探しているのだと思った。私は結婚したあとで複数の友人から、お前は一生独身で通す人間だと思っていたという感想を聞かされた。確かに、私が病気になることもなく、あのまま東京で教師をしていたら、間違いなく生涯独身を通していただろうと思う。
だが、帰郷してからずっと実家の世話になり、地元の高校の非常勤講師になっても経済的に自立することがかなわず、三十を過ぎて尚も実家に扶養されている人間にとっては、結婚することによって自立を証明するしかなかったのだ。結婚して所帯を別にすることが、実家を安心させる唯一の方法だったのである。
だが、独立して世帯を構えるようになっても、精神状態はほとんど改善されなかった。「安心」は得られず、むしろ懐疑的な気分が濃くなった。あの夜の経験は、神経症の寛解期に起る一過性の現象に過ぎなかったのではないか。あの折の内なる光輝はいかにも強烈であって、宇宙の始源につらなるような絶対的な深さを持ち、まるで暗夜に輝くアーク燈を思わせた。
だが、あれは、あの時の私が当面していた心の闇の深さが生み出した「光の幻覚」だったのだ。私が二度目の至福経験に遭遇したのは、そうした疑いがきざしはじめた頃であった。
その夜、私は妊娠している妻を借家に残して、一人で町の映画館に出かけた。私の住んでいる町は、V字型に切れ込んだ谷の中にあった。Vの字の底面の部分に木曽川が流れ、国道が通り、商店街があり、映画館もあるのだ。一般の民家は、谷の両側の、斜面を這いのほるようにして建てられ、私の借家はその片方の斜面の一番高いところにあった。だから、映画館に出かけるには、谷の底まで斜面を下りて行かなければならない。
「寝覚ノ床」で・・・・ここは木曽谷の名所で、何度か訪れた
七月のはじめであった。土曜の夜なのに、館内には数える程しか観客がいない。何時もの癖で、私は最後尾の席に腰をおろした。映画の題名は、確か「フランケンシュタインの復讐」だった。私が観に出かけるのは、こうした愚にもつかないゲテモノ映画か、冷酷無残なギャング映画に限られていた。
映画は、おきまりの筋立てで「神を恐れぬ科学者」が古城の奥にしつらえた実験室でフランケンシュタインに生命を吹き込むところからはじまった。このあとの筋書きは、私には最初から見当がついている。色々のことがあって、最後には科学者は神から罰せられて横死し、フランケンシュタインは次回作品を作る日まで、崩壊する城壁の下か何かで、死んだと思われながら一時休憩することになるのだ。
とにかく映画は、はじまった。博士は助手も使わずに一人で苦労していた。実験台の上に林立する試験管がネオンサインのように輝やき、フラスコから白煙があがり、遂に手荷台上に横たえられた巨人が、おもむろにそのグロテスクな半身を起しはじめた。
不意に、私の胸の中に、この不自然で醜悪な生命創造の場面に対する強い嫌悪感がこみあげて来た。生命は母胎の温かな子宮底で、ツボミがほぐれるように自然に成長して行くものだ。
私は前回、Tの鋳型の内部に潜り込もうとした。今度は、私は生命の生成過程を一望の下に捕えようとして、手の中で転がすようにイメージをこねまわした。と、思考が生命の全貌をうまく掴み取れたように思った。その瞬間に、何かが私の内部で動き、あっと言う間に見覚えのある閃光が炸烈したのである。
再び、光の奔出がはじまったのだ。
それ以後の展開は前と同じであった。映画は続いており、私は座席に坐ってそれを見ていた。目は、前方の観客の黒い影やその向こうのスクリーンを見ている。しかし、それらは遠い非現実的な背景として網膜に映っているだけだった。
私は氾濫する光の中で、自分を忘失していた。
世界が「存在」という衣裳をまとい、時空の形式の中に入ってくる以前の始源のかたち。氾濫する光の奥にあるのは、そういうものだった。やがて眩惑が去ると、時間感覚が生まれ、強い歓喜を伴った自意識が戻ってくる。次に身体感覚が戻り、座席に坐っている自身に気づく・・・。
私は映画が終るまで、その場から動かなかった。目はスクリーンに向けている。だが、何も見ていなかった。私は、ただ、高揚する幸福感の只中にいた。
映画が終って私は館外へ出た。小さな町は、もう寝静まりている。これから、谷の斜面をのぼって借家に帰らねばならない。谷あいの狭い夜空は、風もなく晴れわたっていた。まるい月が、私の昇って行く坂道の上にかかっている。私は月をめざして歩いて行った。
時折、振り返って眼下の民家を眺めた。
どの屋根も月光を浴びて、へりの部分を水飴のように光らせていた。世界全体が静かな眠りの中にあった。平和であった。私の胸に、存在するすべてのものへの静かな愛がひろがった。氾濫して映画館の内部を充たしていた浄光は、取りおさめられて自分の体内に移されたという感じがした。
私は自分が、この世界の全体を上から蔽っているような気がした。世界は私の内部にあった。
私は後に「明らかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」という正法眼蔵の一節を再読した時に、この折のことを思い出した。人間には、天地自然を、わが心そのものと感じる瞬間があるものだ。自我の枠が取りはずされると、世界がそっくり自己になるのである。
回心とは、それまで知らなかった全く別の世界を見ることである。私は二度にわたる至福経験によって、時間以前の時間の相、存在以前の存在のかたちを見たと思った。だが、回心をもたらした背景や、それが隠し持っている意味については、何もわからなかった。一切が謎に包まれていた。私は、「霊光」によって回答を与えられたのではなく、逆に一つの「問い」を投げかけられたのだった。
Nさんの体験
兵庫県にお住まいのNさんから、氏の「光体験」について教えて頂いた。大変貴重な体験だと思われるので、ここに再録させてもらうことにした。氏は、心境において私などよりずっと高いところにおられる。
38歳頃、夜に車を運転しているときに体験しました。
田舎の夜道であったためにもちろん物理的には暗かったのですが(月や星は輝いていましたが)、心に受け切れない光が射し込んできて、周囲の一切が心模様の
上で光輝いて見えました。山川草木、自分の体のすべても光を放っていました。
一切がいとおしい。暗かったのにまばゆく見えたと同時に感謝の念と申し訳ない
気持ちがあふれて思わず涙ぐんでしまいました。光でどこにも隠れる場所がない、
ありのままの自分がさらされて、逃亡者の心境と同じだった私が、やっと光に捕
らえられてホッとしたという安堵の思いもあります。一切に対する感謝、申し訳
なさ、いとおしさ、そして安堵、そういうものが一体となったようなことでした。
科学教育を受けてきた私としては、このときの現象を、脳内麻薬が分泌されて私
に光を見せたのだ、と理解しています。病的なことだったのかも知れません。
その後はこのような体験は起きていませんが、いつでもそのときの心に帰ること
はできます。心が磐石の大地にしっかりと根付いたというか、生命の海に帰って
いくというか。
日常生活ががらっと変わったということはありませんが、具体的な大きな変化と
いえば、それまで夢で底なしの地獄へ高速に頭から落ちていく恐怖を味わってい
ましたが、あの体験以来、そういう夢が不思議とピタリと止んだことです。
地獄への落下の夢は、おそらくは底なしの罪悪の果から逃れようとした逃亡者の
ような底知れない不安と恐怖が作り出したものでしょうが、その不安と恐怖が跡
形もなくなくなって、それについては不安や恐怖に無理やり思おうとしても出よ
うがないというか。
青木新門著『納棺夫日記』に
蛆を何とかしなければと
蛆を箒で掃き始めているうちに
蛆が必死に逃げているのに気づいた
やがて一匹一匹の蛆が鮮明に見えた時
ああ、蛆も生命なのだと思った
するとぽろぽろ涙が出てきて
蛆たちが光って見えた
とありますが、ああ、この人も私と同じ体験をした人なんだなぁと思います。
状況は全く違ってはいますが、私なりに「蛆たちが光って見えた」ということが
よくわかるんです。たぶんこのときこの著者は蛆を見れば蛆が光り、草を見れば
草が光り、木を見れば木が光り、小鳥のさえずりを聞けばそれが光としてまばゆ
く見え、実にいとおしく感じ取れたと思います。病的な体験だったのかも知れま
せんが、同じような人もいるもんだと。
志賀直哉作『ナイルの一滴』の
人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差しつかえないのだ。
という心境にも深く共鳴するものです。
次に転載するのは、大阪府にお住まいのMさんの体験である。Mさんは、二回にわたって質的に異なる内的な体験をされたが、両方ともそれ以後同じような体験をすることがなく終わっている。これも「光」体験の特徴ではないかと思う。「光」は、われわれにこれまで知らなかった世界のあることを告知して永遠に消えてしまうのだ。
Mさんのメールを読んでいて注意を引かれたのは、「内に向かへば外へ拡がるクラインの壺」という言葉だった。私には「クラインの壺」という意味が分からないけれども、「うちへ向かへば外に拡がる」という現象は、体験的な事実として受容できるように思う。
我々は内面を遡及してゆけば、自分だけに固有な秘密の部屋にたどり着くのではないかと錯覚している。しかし、そうではないのだ。自己の一番奥にあるのは「世界そのもの」にほかならない。意識の下底にあるドアを開ければ、明るい光に照らされた外部世界に出るのである。
私もあなたと同じような体験をしたことがあります。あなたのHPには、「ある程度の年齢を重ねることが必要になる」と書かれているので違うかもしれませんが、私も「光」を感じたことがあるのです。
それは高校生の頃で、ある夜、数人の友人と公園にいた時のことでした。私は一番仲のよかった友人と二人で、 石で出来たすべり台の上に座って話をしていました。話の細部はもう記憶にないけれど、戦争とか人が人を殺すこととか、それに関連した仏教の教えのことなどがテーマだったと思います。
話が一段落ついた時、非常に強い安心のような感じと、何か上の方に引き上げられる感覚が生まれ、目から涙があふれて来ました。あたり一面が光り輝くといった感じではなかったけれど、夜だったのに昼のように明るく感じました。話の内容や、その時の状況についての記憶はおぼろになっているのに、この不思議な感覚だけは今でもはっきりと思い出すことが出来ます。
大きなものを心の中に受け入れたといった感じでした。この大きなものを現すには「愛」という言葉が一番近いように思われます。個人に対する愛ではなくて、あなたが「宮沢賢治の青春」で書かれている「全体愛」です。
その間も友人と話をしておりましたので、何か言葉を交わし続けていましたが至高の光体験のあとも、恍惚とした感覚は10分ほどつづいていました。それから二度とこの光の体験はしていません。
ですが、もう一つ記憶に残る体験があります。
それは私が二十四歳の時でした。当時私は管楽器を手に入れ、これを使う必要上 呼吸というものに興味を持つようになりました。ヨーガや太極拳の呼吸法を本で調べ自分なりの解釈でやって見たわけです。あおむけになって、ゆっくり吸う息・吐く息の呼吸法をくり返しているうちに、世界と一体になるような感覚に襲われました。これを行っていたのが昼間だったためか、光は感じられませんでした。が、大きな海がずっと拡がっているようなイメージが浮かび、その南の大きな海から鳳が飛び立たとうとしているような気持ちになりました。
私はこの感覚を体験したことで、ヨーガや太極拳をやっている人々は、自然と一体化することを求めているのだなと思うようになりました。この後何度もこの呼吸法を実践していますが、やはりこの時と同じ感じになることは二度とありませんでした。
私も宗教というものを信仰していませんし、神秘的という表現もあまり好きではありません。しかし、気というものは間違いなくあると思っています。老子を読むと、いつも四次元というものを感じます。内に向かへば外へ拡がるクラインの壺。老子の神秘性といわれているものは、四次元の世界ではないかと思うのです。
四次元がもしあるなら、それは気・空気や水の世界だと思っています。人間は時間や空間という概念を作り、その中から出られないで生活しています。でも、気体や水を見ていると、時間も空間もなくただ揺れているだけです。
中江兆民の師弟の関係を読んで、彼も時間を超越していると感じました。以上が私の至高体験ですが、谷敬氏やしま・ようこ氏を知ってとても嬉しく思っています。