旧友と再会したら 小学校4年の1学期、家の都合で転校した。まだ、私もよく分からないままに事は決まり、母が学校までやってきて、転校のことを告げた。
母が学校側と相談を終えて帰ろうとしたら、校庭で遊んでいた男の子たちが
「せっちゃん、行っちゃいやだ」と母のところへ駆け寄ってきたそうだ。いよいよ最後の日、昼食を終えたころ、一年生だった弟が教室まで私を迎えに来た。担任の先生が、
「お別れの言葉に何がいいかな?」
とクラスを見回した。一人の女の子が「校歌を歌ってあげる」と言った。みんなが「うん、うん」と賛成し、私は先生と並んで前に立ち、級友たちと校歌を歌った。しかし、歌にはならなかった。私の目から涙がボロボロこぼれ、女の子たちは声を出して泣き出してしまった。
家に帰って、図書館の本を返すのを忘れていたことに気づき、また、学校に戻った。特に仲のよかった数人の友だちが、目を真っ赤にして私のところへやってきた。今までずっと泣いていたという。
その日、学校が終わってから、ほとんど全部の級友が私の家に押し掛けてきて、それぞれちょっとしたものを紙に包んで贈ってくれた。その時、私はなんと言ってお礼をしたか、どんな言葉で別れを告げたか、覚えていない。
後で荷物を整理するときに、母がそれら頂いたものを箱におさめ、ふたに「節子の貴重品」と書いてくれた。
6年がすぎた。中三になったとき、同級会があったので前に住んでいたN市に出かけた。私は友人たちが自分をなつかしく迎えてくれるだろうと思っていた。しかし会が始まると、みんなはそれぞれ二三人の友人と固まり、私を相手にしてくれる者など一人もいなかった。
不思議なのは、以前に一番仲のよかった友だちが、今は一番よそよそしくしていることだった。私は寂しくなって、すぐ帰ってしまいたかった。県庁所在地で暮らす友人たちの垢抜けした服装に引き替え、自分の田舎じみた制服が恨めしかった。
私は口をきく相手もなく、一人でみなを見回していた。
「いっちゃ、いやだ!」と叫んだ友とも一言も口を聞かなかった。友人たちは昔のことを振り返ろうともしないで、やがて始まる高校生活に思いをはせていた。一人で列車に乗って帰途についたとき、やっと、ほっとした。夕焼けがきれいだった。車窓から夕焼けを眺めていたら、涙が溢れてきた。久しぶりに再会しても言葉も交わさなかった旧友たち、そして、もう会うこともないだろう旧友たち。
グループ分け 私の心に残っている忘れられない体験を書いてみようと思う。
小三の頃、社会科の時間に五六人のグループを作って、お店やさんごっこをしたことがある。グループは好きな者が集まって作ってもよかった。私が加入したグループは倍の人数になってしまったので、二つに分割することになった。この分割はスムースに行った。傾向の違う人たちが自然に分かれたからだ。
その一つは、成績のあまりよくないルーズな人たちの集まり、もう一つは活発で成績もいい生との集まりだった。私は後の方のグループにいた。その人たちが好きだったし、彼らと一緒にやれば学習もうまくいくと思ったのだ。それに、当時、私はあまり勉強の出来ない人たちを軽蔑していた。
そこへ先生がやってきて、私たちのグループからルーズなグループへ、もう一人移るように言った。イヤだった。どうしようもない沈黙が私たちを包んだ。誰かが立って「私が行きます」と言わなければならなかった。
私は頭をたれて、誰かがそう言い出すのをじっと待っていた。でも、誰も立ち上がらなかった。私はその沈黙に耐えられなくなった。
「私が行きます」
と言ったら、涙が出てきた。くやしかった。どうも私は、この頃からイヤなことを進んでするという立場を選ぶようになったようだ。中学の前半まではそうした態度が続き、お陰で私はクラスの模範生みたいになった。
だが、中学の後半から、自分のそう言うところが、たまらなくイヤになってきた。人のいやがることを自己満足だけで引き受けているように思われ出したからだ。
すると、再び、「誰かが引き受けなければならない」というあの重苦しい空気を感じるようになった。すると、私の頭に小学生の時の例の場面が浮かんでくるのである。
無実の罪 私は幼い頃から自他共に認めるイタズラ娘でした。
何か出来事が起きると、まず疑われるのは私でした。そんな時の母の声、顔は「お前をおいて、そんなイタズラをする者がいますか」という絶対的かつ断定的なものでした。その頃の私は、活発でわがままだったけれど、自分のしたイタズラはイタズラとして正直に認める子でした。
私が小学校に二年生の時だったと思いますが、私は先生にひどく叱られました。何が原因だったか覚えていませんが、ただひどく怒られたこと、そして自分が「私じゃない、私は何もしていない」と叫んでいたことを覚えています。
その頃は一日の終わりに反省会というものがあり、私たちはその時間が来るのを恐れおののいて待っていました。でも、私はその日は自分が何もしていないという自信があったので平気でした。だから、反省会が始まり、皆の前で立たされ、先生に叱られても、恥ずかしいとも思いませんでした。
先生はいくら注意しても、自分の非を認めようとはしない私に手を焼いて、「放課後、残りなさい」と命じました。私はそれでも、身に覚えのないことで、誰が謝ってやるもんかと、がんばり続けました。
放課後、先生と二人だけになって5分もした頃、
「早く帰らないと、夜になっちゃうよ」
とやさしく言ったのです。今考えても不思議ですが、その一言で私はしくしく泣き出して、
「ごめんなさい」
とあやまってしまったのです。先生に帰ることを許され、家路をたどる私の心は自分に対する情けなさで一杯でした。私は、何もしていないのに、あやまってしまった。それは、私がはじめて自分自身に抱いた深い怒りでした。自身への怒り、これを通して私は自我に目覚めたのだと思います。あれは、私にとって 大切な経験だったと、今は、思っています。