廃校を探しに

10日ほど寒い日が続いていたが、今日は穏やかな晴天になった。で、予定通り廃校探しに出かけることにする。私が探そうとしている廃校は、今から20年ほど前、初めて長谷村を探訪した時に見つけたもので、これが不思議に強い印象を残しているのだ。下図はそのときに撮った写真である。

私の記憶に残ったのは、廃校の規模が頃合だったこと、周囲の風景が気に入ったからだった

この写真と同時期に撮った写真に「孝行猿の家」がある。だから、問題の廃校は多分その近所にあるに違いないと考えて、「孝行猿の家」を再訪したときに探してみたが、見あたらなかった。以来、長谷村に出かけるたびに、この分校を見つけようと心にかけているけれども、今にいたるも発見できないでいるのである。

ちゃんと写真に撮り、それを自分のホームページに載せておきながら、いざ、もう一度その場所を訪れようとしても、どうしても探し当てることができないという経験はこれが始めてではない。数年前、未知の人からメールを貰ったことがある。私のホームページを見て、下図の写真に興味を感じ、直接自分の目で見てみたいから場所を教えてくれというメールだった。

相手はバイクが趣味で方々旅をしている人らしかった。だが、遠い他県の人である。それで、私は目的地までの順路をメールでお知らせすると返事をして、確認のため改めてその場所に出かけることにしたのだった。しかし、何処をどう探しても目的の場所にたどり着くことができなかった。

私はあちこちを見て歩くときに、脇道から脇道へとバイクを走らせ、集落をジグザグに縫うようにして移動するのが常だから、写真を撮った場所が何処にあるか自分でも正確に思い出せないのだ。私は、心にかけながら、未だにタワー型の家を発見できずにいる。従って、メールをくれた人との約束を今にいたるも果たせないでいる。


午前中に家を出て、まず、「孝行猿の家」の柏木部落に出かけた。分校を探すには、この辺から始めなければならない。それから柏木の北方にある中尾、黒川、泉原などにバイクを走らせる。おぼろげな記憶で、分教場は三峰川の東岸にあったような気がしていたからだ。だが、現地について2時間探し、正午を過ぎても、まだ分校は見つからない。こういうときには、深追いせずに、再起を期したほうがよい。だが、今日は違った。

(芝平にも廃校があったな)と思ったのである。

秋葉街道は裏街道だが、その裏側にもう一つ細い街道があって、そこを上っていくと標高1000メートルの高みに芝平部落がある。以前にここを訪ねたときに、廃校を横目で見て通り過ぎたのだ。

芝平への道は途中まで立派な舗装道路になっている。
その幅広な舗装路が尽きるところに大きな廃校があった。教室が10近くもありそうな二階建ての校舎が、風雨にさらされて放置されている。広い校庭には草が茂り、ススキの群落もある。白いカーテンが残っている窓もある。が、教室の窓ガラスの大半は壊れてなくなり、空洞のようになっている。

荒れた校庭に入り込んで、何枚か写真を撮った後に、芝平めざして細い道を進む。道幅は狭くなっているが、道路は舗装されているからおんぼろバイクでも問題なく坂を上ることができる。左手の山裾に前回来たときに写真に撮った無人の民家が見えてきた。何処にも痛んだところがないしっかりした家で土蔵まで備えているが、二階の雨戸は閉め切られ、階下の縁側もカーテンが閉ざされている。

さらに進むと、今度は右手の山裾に茅葺きの家が見えてくる。いかにも山家という感じの家である。バイクを止めてこの家の周りをしばらく散策する。

川を挟んだ対岸を見やると、5,6軒の家がある。人影は見あたらない。ふと、川に接して建てられた土蔵が斜めに傾いていることに気がついた。地震が来たらいっぺんに倒れそうである。しかし、業者を頼んで取り壊して貰うより、自然に倒壊するのを待つていた方が経済的に違いない。二階建の大きな校舎が、風雨にさらされたまま放置されているのも、同じ理由からだろう。

いよいよ目指す芝平の廃校に着いた。雨天体操場のついた大きな校舎である。窓ガラスのない教室が目に付く。だが、カーテンのついている教室もある。ピカピカ光る煙突が一本空高くのびてもいる。してみると、この廃校は完全に無人化したというわけではなく、教室の一つを整備して集会所に使っているのかもしれない。

雑草に覆われた校庭の一角に碑が建っている。この学校の沿革を記した石碑で、当校の創建は明治6年とある。戸数わずか数十戸の、麓から遠く離れた高地の集落が、明治6年に早くも学校を建てて、子弟の教育に取り組んでいるのである。地域の大人たちは「文化」の恩恵に浴さない僻地だからこそ、子供たちにはちゃんとした教育を施さなければならないと考えたのだろう。

時刻は午後3時になっている。長谷村に来たもうひとつの目的は、柿の木の写真を撮ることだった。去年の同じ頃、長谷村を訪れた折りに、赤く実った柿の木がたくさんあるのに注意を引かれて(芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」という句があるそうだ)何枚かの写真を撮り、そのうちの一枚を年賀状に使ったことがある。いい素材があったらもう一度柿の木の写真を撮ろうと思ったのである。

 年賀状に使った写真。この柿の木の古さから、持ち主の家が旧家だと分かる

帰途、注意して探したけれども、思わしい柿の木はなかった。ちょっと珍しいと思ったのは、屋根から突き出ている柿の木で、これだけをカメラに納めて家に戻ってきた。

家に戻ったら、わが家の柿が重たそうな実をつけている。しかし、こちらは旧家ではないから、柿の木に老木の風情はなく、その「容姿」もいかにも貧弱だ。

 甘柿だと聞かされて苗木を買ったが、あまりうまい柿ではない

(そろそろ、柿もぎをしないといけないな)と思った。

(追記)その後、20数年前の写真をつくずく眺めたら、これは学校ではなくて保育園ではないかという気がしてきた。建物の規模からいって、もし学校だとしたら低学年用に作られた最小規模の分校に違いないが、いくら低学年用といってもブランコや滑り台がついているのはおかしい。それに建物の土台がいかにもお粗末で、学校建築だとしたらもう少ししっかりしたものを作るはずである。

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