はじめに メール交換を通して知り合った大山さんは、クリシュナムルティに傾倒されて、ご自分をその弟子と考えておられるようです。ところが、私は残念ながらクリシュナムルティについては全く知りません。それで、そのことを大山さんに告げたら、氏は自身がクリシュナムルティに出会うまでの遍歴について具体的に語ってくれました。これに共感される方、また反発される方もおられるかと思いますが、クリシュナムルティに関して少しでも多くの方が興味を持っていただきたいという氏の要請を受けて、ここに採録することにしました。
1 私が「K」の本を読むようになったのは25年も前になります。
当時、私は高校に入った頃から始まった対人恐怖症に悩んでおり、それを克服したいと思い、さまざまな本を読みあさり、救いを求めていました。もちろん、精神科にも通院し診察も何度か受けました。しかし、いっこうに改善されず自分で克服する道を探すことにしました。
自分なりに多くの書物を読み漁り読書づけの毎日をおくっていました。しかし、いっこうに心から納得できる書物に出会うことはありませんでした。たまたま、気晴らしに読む漫画雑誌の中にジョージ秋山という漫画家が書いていた「浮浪雲」という漫画があり、その本の中で「バグワン・ラジニーシ(和尚)」の言葉(詩)が掲載されていました。その言葉に感銘を受けた私はラジニーシの本を読むようになりました。(もしかして、これが探していた教えなのでは?と期待しつつ)
ラジニーシの本は過去の賢人の言葉を頻繁に引用しながら、詩文のように自分の教えを記述する形式で、読む人の心の中に聖なるここちよさを提供する方法にたけていました。(ヒーリング系の癒し音楽とほぼ同じ感覚で読んでいました)そして、私もいつしかラジニーシの言葉に浸酔し、より多くラジニーシを知ろうとしました。
しかし、しばらくするとラジニーシの著書には過去の聖人からの引用文が多く、彼のオリジナルな言葉で語られている部分が少ないように私には感じられてきました。ラジニーシの言葉もまた私の心には深くしみこみませんでした。(もちろん人それぞれの解釈の違いがありますが、私の場合はそうでした)
しかし、ラジニーシの本は私にあるキーワードを与えてくれました。(その意味では大変感謝しています)
それは彼が自分の本の中にクリシュナムルティ(以下「K」)の言葉を引用した事です。その「K」の引用文を読んだ私はそれまで読んだ事のない独創的な思考の解釈を発見し、感銘を受けました。いままでモヤモヤとハッキリしない生の問題に初めてストレートな答えを見つけた気がしました。
さらに、彼の訳書のあとがきで彼が神智学の世界的な教団「星の教団」の教祖だった事、そしてその正直さ故に教団を解散し教祖を辞退した事を知りました。(真理は教団や教祖によらず、各自が自ら発見するものとの解散宣言をし、その後はどこにも所属せずただ一人自己の体験を語るため世界中を旅し、対話を希望する人々との対話を続け、1980年代に亡くなったとの事。その言葉と行動は仏陀によく似ています)
ちょうどその頃ラジニーシの教祖としての私生活に関するゴシップ記事が週刊誌に出回り(ことの真偽は分かりませんが?)、私はその記事を読んで彼に少なからず失望を感じていたので、よりいっそうの感激がありました。「本物を発見した!」と一人で歓呼した自分を思い出します。
2 そらから、もう一人、私が探求している著者にグルジェフ(以下「G」)というスーフィの神秘家がいます。彼に関しては高校生の頃に愛読書だったコリン・ウイルソンの著書『アウトサイダー』に出てくる紹介文で知りました。
高校生の私は今で言う自分探しの旅に出始めていた時期で、その方面で互いの考えを話し合える唯一の友がおりました。そして、その彼の話の中でよく引用されたていたのが「アウトサイダー」の本でした。
友の話は私にはチンプンカンプンで、ただうなずきながら友人に対して自分がその方面で無知であることにコンプレックスを感じていたのを憶えています。友へのライバル心もあり、私もさっそく「アウトサイダー」の本を読み始めましたが、当時の私にはほとんど理解できませんでした。
しかし、友へのコンプレックスが私の探求心に火を付け、それからはその本を理解する事が高校時代の私の主要テーマになっていました。もともと本を読むのが好きでしたので、高校を卒業するまでに「アウトサイダー」の中で引用された蔵書の多くを読破しましたが、まだ著者ウイルソンの考えを理解するにはいたりませんでした。
しかし、「アウトサイダー」の中に出てくる「G」の言葉が私には妙に印想深く、なにか謎めいた物を感じ、そこに秘密の教えが隠されているような思いが心のどこかにありました。特に初めて耳にする「自己起想」の言葉は当時の私を強く惹きつけました
それから数年、私は精神世界や宗教・心理学の本を読みあさる日々が続き、あいかわらず道を探しあぐねていました。そしてほどなくして、「K」に出会ったのです。しかし、「K」の本はその平明な文章のため、反対に難解なつかみどころのなさがあります。(そこに真理がたしかに記述されているように強く感じるのですが、本能でそう感じます---。)
「K」の本を読みあぐね、いきづまっていた頃、「G」の教えに関するウスペンスキーの備忘録『奇跡を求めて』の和訳本が出版されました。書店で手にとって読みすすむと、そこには「G」の教えの具体的な説明がありました。すぐにその本を購入して読み終えると、またも私は「本物を見つけた!」と歓呼していました。
(ある人が「K」に「G」が本物であるかどうか尋ねると、「ほんの少し」と答えたとあります。私もなんとなくそんな気がします。「G」は導師であり、「K」は仏陀キリストと同じ超人?と思っています。仏陀キリストは遠い過去の人であり語られた言葉もその意味も時間と共に変色し、その真意を汲み取るのは至難の技。しかし、「K」はつい最近までわれわれと同じ時代に生き、「K」直筆の著書やビデオテープが残っています。もっと早く出会っていれば会いに行き、一目その姿を直接見て、言葉を聞きたかったのがそれができず大変残念です。でも、われわれは「K」と同じ時代に生れた大変幸運な人間なのだと深く感じています。)
3 それから私は、「K」と「G」に関する本が出版されるたびに購入し、現在までその教えを少しでも自分で理解し、自分の人生を「真」に生きれないかと日々精進しています。(同じ本を20年以上に渡って読み返す私を姪は不思議に感じているようです。また、ある人から見ると、私は理屈っぽいエッチな中年オヤジとの意見もありますが?)
昔、理解不能だった「アウトサイダー」も今は作者と問題を共有しているような気がしています。著者ウイルソンはその後の作品で何度もその問題の解決を図ろうとトライを繰り返していますが、結局は評論家としての限界を越えることができず、現在のところ聖者になったとのニュースはないようです。
しかし、「アウトサイダー」の主要テーマである「回路からの自由」(自己の思考回路からの自由と読み変える事ができると思います)については「G」と「K」をよく理解し実生活でそれを生きることにより、脱出の可能性はあるのでは?と希望を持ちながら探究を続けています。
(「K」は我々が2千年来にわたり仏陀やキリストの再来を待ちわびた聖人だと思っています。とても不確かな理由なのですが、私は本能でそう感じています。「K」の記述を読むと、そこには真の体験者ではなければ語れない、清楚な言葉が書かれているように思います。私自身が体験もしていないので、その意味では断言できないのかもしれませんが?私には現在その道しかないように思っています)
しかし、実生活の上でそれを生きる事は非常に困難です。
私にとって「回路からの自由」の解決の道は「G」と「K」の思想を読み解き、自分の実人生で実践する事でしか見つけられないと思っております。しかし、そうは思いつつも、つい他所に目が行きいろいろ回り道してしまうのが現在の私です。もしかしたら、これが私達にとって最大の問題なのでは?これが無ければもっと先に
行っているのでは?なぜそうしてしまうか理解する事の中に真理が隠されているのか
も?自分の外ばかりを探し、自分の中に本当の意味で目を向けない。徹底して自己を見つめた事が無い?私の青年の頃の対人恐怖は社会に出て仕事する事でいつしかほとんど感じないまでに軽減しましたが、根本的には未解決かもしれません。恐怖に関する「K」の言葉はその対処法を端的に示していました。「恐れないこと、それがまず学ばねばならない第一のことです。」
自由の中にしか本当の自分を発見する事はできないのかも?それ意外はどのように精進し真剣であっても自分の条件付けから抜け出せない(回路からの脱出)では?本を読む事で学ぶるような気がしますが、本当に身につく部分はほんの僅かなもののようです。読むだけではなにもなりません。実生活の中で世界とともにそれを生きる必要があります。実際に体験し、自分の心の中に深く刻み込む事でしか本当の知恵は身に付かないようです。
4 ながながと書いてきました。
しかし、何故かはわかりませんが、我が身を誰かに語ることは私にとって大変必要な事に思え、その衝動にかられてしまうのです。
「K」が一般的な意味で世界的にあまり有名で無いのが前々から不思議に思っていましたが、偉大な人ほど現世では有名にならず、死去した後から名声は高まるのが世の常のようです。現世で欲望を謳歌している特権階級の人々にとって、「聖人」はいろんな意味でうとましく思われる存在であり、自然と敬遠されるのでは?そして普通の平凡な人々(我々)からも。
キリストが何故、迫害されたのかが良く解ります。
真に真面目な人の側にいる事は私達凡人にはとても辛く、居所が悪いのですね。あらゆる議論、方法論、哲学、はナンセンスかもしれません。
真の人生を生きず、ただその論議の廻りをウロウロしているのが、私達凡人の状況のような気がします。それは確かだと頭では理解していますが、私もこの自我を最重要な事柄としてこれまで生きて来たし、それを守り、生きて行く支えともしているので、それを捨て去る事は最も恐ろしい事だと感じています。自分が痴呆になり、自己を見失うような状況を想像すると、途方も無い心細さに襲われます。「一番大事にしている自我を捨て去る?」それは、辛く、そしていざ実行したら取り返しが付かない暗闇の向こうに入って行くという底冷えする不安感に押しつぶされます。向こう岸に行くためには目の前の深淵を飛び越えるしか方法がないのかもしれません。少なくとも、こちらに居れば安全に思えます。
「K」に言わせれば、こちらに居る人々は生きながらに死んでいると言うのでしょうが。日本仏教の浄土真宗の本に俗世間の無名の庶民の信心の人々が出てきます。
彼らは、それほど頭が良くも無く、学問的には無知な人々ですが、いざ信心の事になると、僧侶など足元にも及ばない世界で生きているのが紹介されています。哲学者は頭で世界を理解しようと試みますが、彼らは自ら恐怖の中で深淵を飛び越えた真に勇気ある人々なのでは?と思います。哲学者はこちらで相変わらず議論を戦わせていますが、彼らは向こう岸で口から泡を飛ばし議論している哲学者を気の毒に思いながら眺めているのかもしれません。
「K」の本を読むと、彼の思想が自然描写と共に淡々と語られている印象がありますが、VTRでは想像以上に激しい情熱で語られているのが解ります。やはり、そこには生身の「K」がいます、「K」も人間なのですね、親近感が湧いてきます。
三蔵法師は経典を読むために生涯を艱難辛苦の旅に費やしました。
ところが、我々はこの情報化社会に生まれ、僅かな金と時間を費やす事であらゆる文
献、聖典を読むことが可能です。そんな恵まれた環境にいながら、それを利用し生かすそうとする人はほんの一握りです。そして、「G」の言葉のようにそれを得るためにはそれに見合う代価を支払う必要が
あるようです。「支払いの法則」は確かに存在します。どれだけ、その事に自己の人生を捧げ尽くすか事ができるか?それが重要な事です。そして、「私の自我が終わること、自我が死ぬこと」は最も大きな支払いですね、でもそれをはるかに超えたもの(とほうもない大儲け)が返ってくるのでしょうが?
私は現在、この恵まれた環境に感謝する一方、怠惰な心に勝てない自分に無力感を感じています。しかし、感傷からはなにも生まれせんね、捧げ、捧げ、捧げ尽くす事しか道は無いみたいです。
「K」の言葉にあります「恐れない事、それが学ばねばならない第一のことです。」
そして、実行が伴わない思想はただの言葉の遊びかもしれません。「K」はいつも我々に言います、「何故、それを実行してみないのですか?」 我々が踏み切れないでいる場所で、「K」は親が子供に声をかけるように辛抱強く
我々に声をかけてくれます。仏陀が臨終の折に自分と同じように悟りに達したのは「1か2人だった」と言い、同じく「K」の最後の言葉では「誰も達せなかった」と語ったと言います。(恐ろしい現実です)我々、凡人にもはや不可能なのでしょうか?ただ、達したいと思うその思いそのものが本来間違いなのだと「K」は繰り返し言います。
ただ、自分に気づくことそこに自身の意図はなく、新たな発見のみがある。
高校生の頃、一人で思索にふけりイロイロな問題を考えていた時、ふと気づいた事がありました。自分の思考はすでにその問題の結果を予想しその結論に行き着くように自ら考えを組み立てているのではないのか?と結局、論理も自作自演であり、自ら知っている事の頭の中で自らの思考を組み立て、
結論に達し発見したかのような満足を覚えているのでは?真の科学のように予想した結論を持たず、自分の「生」がまさに新たな発見の連続であれば?そこにもはや意義や目的を持ったり、それを探す衝動にかられる必要もなくなるのでは?最も古い思想「汝自信を知れ」がやはり人間の根源にある究極の教えなのでは?そして我々は自らその言葉の真の意味を自身で本当に発見するように運命づけられているのでは?(私は時々詩人的になってしまいます。)
5 私は以前より、本をOCRにてテキスト変換し、テキストデータをパソコンで読上げさせ録音したmp3ファイルを車や散歩中に聞いたりしています。
(本をスキャナーで取り込み→OCRでテキスト変換→パソコンソフトでテキスト読上げ→mp3録音→CDRにて焼き込み→車の中で再生。「K」や「G」の本を日々耳で聞く事でお経のように暗唱できないか?と思ってOCR化・読上げ化に取り組んだ頃の成果です。今でもOCR化は少しずつ続けていますが)「K」の自然描写と思想を交互に記述する日記形式の著書は独特の文学としてのよさもあります。(ただし、文学との違いは「K」は幻を見ないということです、そこには想像や空想は無く、現実の美と悲しみの描写のみが存在しています。)
また、「K」は聖典類を読んだ事がなく、唯一読むのが「ミステリー小説」というのも独特です。「K」の言葉は無尽蔵の神秘の泉です、なぜならば「K」は人ではなく神秘が通り抜ける一本の筒、そこに「K」はもはやおらず替わりに神秘が顕在化する「場」を与えたのでは?