軍隊-男性社会の縮図
昭和二十年五月に徴兵された私は、敗戦までの4ヵ月を最下級の兵卒として内地で過した。
軍隊は、日本の男性の俗悪と卑小をパッケージしたようなところである。内務班の低俗な空気を作り出しているのは、十四・五名の分隊員のうらの二・三名であって、その他の兵隊はそれを放任し、適当にそれを利用しているに過ぎなかった。私が所属していた内務班の古兵の中で、本当に悪質な兵隊はFというラッパ兵だけだった。どんな集団にも、良い人間もいれば悪い人間もいる。この上限と下限のうち、下限によって集団の雰囲気、動向の決定されるところが日本陸軍の内務班なのである。そして、これが又、日本の男性社会の特徴なのであった。
Fというラッパ兵は、たえずまわりから気にかけられ、心にとめられていないと気の済まない男だった。演習から彼が戻って来たら、新兵達は一斉に「ご苦労さまでした」と声をかけなければならないし、彼が不機嫌にしている時には、新兵達は脅えて戦々兢々と言った表情を装わなければならない。彼は周囲の人間、特に自分より年次の新しい兵隊が、自分にどういう態度をとるべきかという点について、非常にはっきりしたイメージを持っており、このイメージ通りに動かない兵隊がいると、これを目の仇にしていじめるのだ。
彼は新兵に対してばかりではな<、同年兵や上官に対しても底意地が悪かった。他の古兵達がFの行動を放任している理由は、彼に逆らえぱ事が面倒になるからだったし、彼が苛酷なやり方で新兵をしごいてくれるお蔭で、内務班の生活が至極快適になるためだった。
Fは古兵達の低い欲求の代弁者であり、彼らの自己本位でイージーな感情的要求を押し拡げて<れるブルドーザーだった。
内務班で私は大いに殴られたが、そうされても別に気にならなかった。そのうちに夏になり、八月十五日がやって来た。入隊以来、新聞を一度も読まず、演習と雑務に明け暮れていた私達新兵にとって、八月十五日は突然にやって来たのである。
当時、私は長野市内に新設された部隊に配属されていたが、この日は山麓の安茂里村に使役に出された。この村の小学校に集積された武器資材を更に奥地へ運ぶ作業をするためだった。本土決戦にそなえて弾薬資材を各地に分散疎開させる業務が昼夜兼行で続けられており、この安茂里村にも分隊から毎日誰かが使役に派遣されていたのだ。
昼休みに十数名の兵隊達は小学校へ戻って来た。正午の「重大放送」を聞く為であった。小学校の二階には、ここに駐在している下士官の事務所があり、そこで働いている二十名ほどの人間もラジオを聞きに集っていた。私にはこの時の放送の内容が全<理解できなかった。
放送が終ると、二十三・四の若い下士官が歪んだような弱い微笑を浮べて
「これで終りだ。お前達は下に行って食事をしていい」
と言って、ラジオを切った。
私達は黙って階段をおり、階段に向い合った空教室に入った。そして、壁に背中をくっつけて坐り、部隊から持参した弁当を開いた。少したってから、一緒に放送を聞いていた炊事婦が二階から降りて来て、「戦争が終ったんだって」と呟いて私達の前を通り過ぎて行った。成る程、そういうことだったのかと思った。壁際に一列になって坐り、黙って弁当を食べている兵隊達も、誰も表情を動かすものはなかった。私達の内面は、深い疲労が沈んで空洞のようになっており、そこにはいかなる人間的な感動も発生してくる余地はなかったのだ。
続いて、女学校を出たばかりらしい女子事務員が階段をかけ降りて来た。彼女は手で顔を蔽い、激しく鳴咽していた。私は目で彼女を見送りながら、自分の感情がその時になってようやく動いたのを知った。
奇妙なことにそれは若い娘への憎しみに近い感情であった。私は彼女が何に対して泣いたのかを問題にしたのではない。彼女が泣くことによって表明した情感のゆとり、彼女がなおも残している人間的な部分に対して嫉妬したのだ。人間的な感情を枯渇させてしまった者は、それを保有している人間を憎むものなのである。
昼食後、下士官に帰隊するように言い渡された私達は、午後一時過ぎに隊伍を組んで帰途についた。長野市の市街地に入った時に、私は意想外の情景を見ることになった。道路の両側の家々から人が出て来て、自分の家の戸口の前で、虚脱したようにぼんやり立っているのだ。どこまで行っても同じ光景が続いていた。人々は私達の隊列がやって来るのに気づくと、はじめて顔に好奇の色を浮べてこちらを眺めた。それは通過する兵隊達が、先程の放送で何を感じたのか知りたがっている顔つきであった。
私の胸を襲ったのは、一杯食わされたというにがい感情であった。私は同胞達が、最後の一人になる迄戦う心算だと思っていた。彼らがそうした愚かしい決意を固執するなら、自分もそれに殉じて犬死をする心算だったのだ。だが、日本の民衆は最後の瞬間まで本気になっていなかった。戦争に敗けても悲嘆の感情はない。むしろ、ほっとしている。自分の中には感じられない悲しみの感情を、通り過ぎる兵隊の表情の中に探そうとして、ああやってこちらを見るのだ。日本人は皆、他人をあてにして戦争をして来たのである。自分は信じないが、ほかの同胞はみんな信じているはずだと誤解して、不惜身命とか殉国の精神とかのスローガンを唱和して来たのだ。
この戦争はそうした誤解の上に立って続けられて来たのだった。そして、なかでも最も目の見えなかった人間が私自身にほかならなかったのだ。
戦争が終った次の日に、隣りの分隊の兵隊の一人が、
「お前さん、利口だったよ」
と、わざわざ言いに来た。使役で一緒になったこともある学徒兵で、私がよく古兵に殴られるのを見ていた男である。彼は私が敗戦を見越して意識的に軍務をサボタージュしていたと誤解したのだ。
望んでいた通り戦争は終った。しかし、私の胸に残ったのは、にがいとしかいいようのない感情であった。三島由紀夫の「私の遍歴時代」には「そして不幸は、終戦と共に、突然私を襲ってきた」という一節がある。三島と立場は違うけれども、私の心境もこれと同じであった。敗戦によって「国家」は崩壊し、長い問続いた暗黒の夜は明けた。夜明けのあとには、真理が実現される筈だった。「国家」のあとに、「世界」が山現する筈であった。だが、夜が明けてみると、私は「世界」の中にいるのではな<、「世間」の中にいた。
「皇国日本」という仮面がはげ落ちると、その下から世俗社会というもっと気味の悪い代物があらわれて来たのだ。
私はこれから、八月十五日の沿道に並んだ同胞達の、表皮だけあって実態のない空蝉のような顔と向かい合って生きて行かな<てはならない。そして、やがて、この空白の顔に表情が戻ってくるのである。要領がよくて、徹頭徹尾自己本位で、ひたすら「家内安全」「商売繁盛」だけを心がける日本的表情が戻ってくるのだ。私は、こうした同胞達の形成する、本質的に軍隊と同じ精神構造を持った日本社会の内部で、これからずっと生きて行かねばならないのである。