信仰を持つこと

信仰は、新しい精神世界へのキッカケを与えてくれた。
特別な儀式や祈祷は必要ない。泣かなくてもよい。ただ、黙っていればそれでよい。静寂の中で沈黙していれば、それだけで子供が母の腕の中で感じるような安らぎと同じものが得られる。

今までの私には、自分自身の時間、静かに思考する時間があまりにも少なすぎた。私の心は学校のこと、家のことで飽和状態になっていた。気持は世俗的なことばかりに浮遊していた。

その心が次第に静止する。落ち着く。その上、何より大事なことは、理性的になれることだ。自分のことを起点にして、他人のことを考えられるような変化が、ゆっくりではあるが起こってくるのだ。

思考を発展させる場合にも、ある一つのパターンが成立してゆく。その中で、心は純粋なものを生み出している。

その時、私が孤独であるとは言い得ない。大きなものが私を包んでいるような、あるいは私がその中に進んで入って行くような・・・・・そのくせ、自己というものがしっかり確立していくような気がするのだ。

中二の夏、中央アルプスの西駒ヶ岳に登った。
私のまわりにある風と霧と這え松が、平地での私をすべて消してしまい、何でも受け入れることの出来る寛容な気持を生み出してくれた。


一度だけ神様にお願いした

私は神というものを信じないし、宗教的なことは一切嫌いだ。しかし、一度だけ神を信じたことがある。

幼稚園の頃だと思う。
父が夜、知り合いの家から、懐中電灯を借りてきた。そして、翌日、私にそれを返してこいという。

私は懐中電灯を手に道を急いでいるうちに、石につまずいて転んでしまった。私は、起きあがって慌てて、懐中電灯をつけてみた。そしたら、つかないのだ。もう困ってしまって、どうしようかと思った。

でも、仕方がないからトボトボ歩き始めた。そして、急に神様にお願いしてみようと思いついた。

「おじいちゃん、どうかあかりがつきますように。お願いします」

祖父が出てきたのはおかしいけれど、その少し前になくなった祖父が、死んであの世で神様になっていると、私は思ったのだ。私はもう夢中で、おじいちゃん、おじいちゃんと言いながら、目指す家に着いた。

「オバチャン、これありがとうって」
「あれ、H子ちゃん、明かりをつけたまま出来たの?」

何のことはなかった。転んで慌てていたのと、外が明るかったことで、懐中電灯がついていることに気づかなかったのだ。でも、当時はその後でも、神様にお願いしたからついたのだと本気で信じ込んでいた。


狐にだまされて

まだ小学校に上がる前だったと思う。母に連れられて、親類の家に行って帰り道のこと。もう、あたりは薄暗くなっていた。近道をして林の中を歩いていると、むこうから近所の人が来て、母と立ち話を始めた。

私は早く家に帰りたくて仕方がなかった。そこで、こっそり先に歩き出した。母は気づかずにまだ話し込んでいた。

私は家への道と信じ込んで、目の前の道を一生懸命に歩き続けた。だが、行けども行けども、人家の灯火すら見えない。

やがて、日はとっぷり暮れて、ようやくまわりが見えるくらいになった。私は見たこともない場所に立ちすくんで、動けなくなった。怖くてたまらなかったが、不思議に涙は出てこなかった。

林の少し高いところに御堂があった。すと、祖母から聞いた昔話を思い出した。狐の話である。絵本に出ていた狐の姿が、ありありと目に浮かんできた。

私が覚えているのはそこまでで、後どうしたか記憶にない。母に教えられたところによると、私は狐に騙されたのだそうだ。

私がいなくなったのに気づいて、母が必死になって探し歩いたら、私はまるで変な方向の道をすすんで、御堂の前にぼんやり座っていたそうである。今考えると愉快な話だが、これまでにあんな恐ろしいような不思議なような思いをしたことは一度もない。


神は存在する

私は、この宇宙には神と呼ばれるような、すべてを作ったものが存在すると思う。自然界のあり方をきめ、いきものに生命を吹き込んだものはいると思う。
神、それは自分自身の力で存在し、私たちの運命や、宇宙全体の将来をきめるものだ。私たちの運命は、神の定めたプログラムのなかの出し物の一つにすぎない。神のプログラムは永遠に続く。

私は、よく今経験していることが、前にもあったような気がする。
何についても、存在するものをあらしめたのは「神」であり、ものが存在したとき、すでにそのものの運命は決まっているのだ。

「神」・・・・・それは「物」か「やつ」か、空間みたいなものか。あるいは、とほうもなく大きいか、それとも、ただ意志だけあるものか。

私たちがそれを尊敬するかしないかに関係なく、この宇宙を形作ったもの、生命を作ったものはあると思う。そう感じる。

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