不服従のすすめ
前回の記事で引用した信濃毎日新聞の「斜面」欄に、ミャンマーのスー・チーさんの話が載っていた。その記事の末尾は、次のような言葉で終わっていた。
「スー・チーさんも来月で65歳。非暴力・不服従を貫いてきた不屈の心に、国際社会がどう応えるか」
スー・チーさんが、ミャンマーの軍事政権に実力行使で戦いを挑んだら、彼女は殺されるか、投獄されるかで65歳の現在まで生きていることが出来なかったかも知れない。だが、彼女は決起を促す支持者をなだめて、「非暴力・不服従」の戦術を取ったために、今も生き延びているのである。
「非暴力・不服従」運動の始祖ガンジーも78歳まで生きたが、身内のヒンズー教徒に暗殺されている。彼がこの戦術を採用しなかったなら、もっと早くに死んでいたに違いない。
しかしガンジーも、スー・チーさんも、弾圧を避けて長生きするためにこの戦術を採用したわけではない。彼らには、確固とした信念があり、その信念を支える不抜の哲学があったから、その帰結として、非暴力と不服従という政治的方針を打ち出したのだ。
ガンジーは「宗教家」「宗教的指導者」ということになっているけれど、正しくは「無神論的信仰者」というべき人物だった。
彼は、この宇宙とそこに生きる生命体は神のふところに抱かれているという。だが、その神は人格性を具え、神意を持つような神ではない。つまり我々が「神」という言葉を聞いて思い浮かべるようなものを一切含んでいない。ガンジーの言う神とは、「真理」そのものを意味している。
無神論者は、その真理を愛する合理的思考に基づいて、神や仏を否定する。彼らは真理を愛し、真理を信仰しているという面では、ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒と同じ宗教者なのである。既成宗教の信者たちも真理を愛していることに変わりないから、無神論者も、既成宗教の信者も、真理を信仰する点で共通していることになる
「真理を信仰する、真理を神とする」という一点で、すべての人間は共通しているという観点から、ガンジーは次のように説くのだ。
<無神論者までが真理の力の必要性に異議を唱えないばかりか、無神論者たちは真理を発見せんとの情熱にかられて――まさしく彼ら自身の観点から――神の存在をためらうことなく否定している。このような論拠に立って、わたしは神は「真理なり」と言うよりも、「真理は神なり」と言うべきであると知ったのである>
では、真理を神とし、神の目で現実の世界を眺めたら、どういうことになるか。
まず、目に映るのは、生き物の多くが他の生命を貪り食らうことなしに存在し得ないという冷厳な事実だ。他の生命を貪るために、いきものたちは、暴力を行使する。これについて、ガンジーはこう語る。
<生きることそれ自体に、ある種の暴力が含まれています。ですからわれわれは、最小限の暴力の道を選ばなければなりません。菜食主義にだって、厳密に言えば暴力が含まれているわけですから>
ガンジーの研究者は、ガンジーがよく口にする「アヒンサ」という言葉について、次のように解説している。
<「アヒンサ」というのは、字義的には「ヒンサー(殺生・傷害)」という語に、否定の「ア」を冠せたものである。普通「無殺生・無傷害」を意味する。しかしガンディーは、怒りや憎悪、悪意や自尊心などをもって、直接・間接に人間と動物を苦しめることも「ヒンサー」であると考える。さらにまた、個人や集団が自己の欲望から、弱者を搾取し、屈辱を与え、飢餓に追いこむことも「ヒンサー」である。したがって、これらの「ヒンサー」の反意語である「アヒンサー」は、たんに人間や動物を「殺さない、傷つけない」にとどまらず、「魂の力をもって悪に立ち向かい」「不正に対するもっと積極的で、実際的な闘い」を展開することでなければならない(「ガンジー」森本達雄)>
ガンジーはインド独立のために、英国の官憲と血を流して戦う同胞に向かって、こう言って、「非暴力」の姿勢を守るように訴える。
「もし血を流さなければならないとしたら、われわれの血を流そう。敵に暴力をふるうことなく死んで行く静かな勇気を養おう」
彼は、非暴力を強調したが、だからといって、権力の不正を黙認することを勧めたのではない。ガンジーは、人道に反するすべての法や慣習に対して不服従の態度を貫き、敢然と戦い続け、人々にもそうすることを求めた。彼は、そのために投獄され迫害されても意に介さなかった。彼とその支持者の行動原理は、次のようなものだった。
「真理の法にもとる世俗の法律は、すべて拒否する」
現代人は、自国が大量生産・大量消費の態勢にあれば、それを繁栄の証として満足する。だが、それは地球の資源を浪費することであり、動植物に暴力を加えてその生命を奪うことを意味する。ガンジーは、「インドは村の国だ」といって、自ら糸車を回して衣料を自給していた。われわれも、衣食住すべてについて少量消費をこころがけ、虚栄を捨てて静かに生きるべきではないか。ガンジーは、また、何度かノーベル賞に推挙されたが、その都度、断って、肩書きなしの個人として生きた。それ故に、インド人は彼を「父さん」と呼び習わしている。彼は生きるのに必要な最小限のものを残し、他をすべて捨離したのだった。