古山高麗雄の面目 1 文藝春秋の特集記事「ドキュメント・見事な死」を読んでいて、印象に残ったのは古山高麗雄の項だった。この項目を執筆した古山の長女は、淡々とした筆致でこの作家のプロフィールを描き出している。
古山は、妻とは別れて暮らしていた。妻は神奈川県にある古い自宅に住み、古山本人は東京青山のマンションを借り、ここを根城に執筆活動やら競馬場通いをしていたという。古山は洗濯物が溜まるとダンボールに詰めて妻宛に送り、妻はそれを洗濯して、また、ダンボールに入れて送り返すという生活を20年以上続けていたそうである。
別居状態にあった妻が亡くなったとき、古山は激しく動揺した。長女はこのときの父について次のように書いている。
「母の遺体が搬送された病院では、父はただうろたえてオロオロしているだけのおじいさんのようで、あんな姿を見るのは、生まれて初めてのことでした」
妻が死んでから、古山は抜け殻のようになった。彼は青山のマンションを引き払って神奈川県の自宅に戻り、一人暮らしの生活をはじめたのだが、いつの間にか、彼は自分の部屋ではなく、妻の部屋で寝起きするようになった。寝るとき使用する布団も、妻が亡くなるときに使っていたものだった。
長女は実家近くの主婦から、玄関に新聞が溜まっていると知らされたとき、父が死んだと直感した。彼女が実家に駆けつけると、父は風呂から出てパジャマに着替えるところだったらしく、半裸の格好のまま母の布団の上で死んでいた。
医者の見立てによれば、死因は心筋梗塞で、あっという間に亡くなったろうということだった。医者は、「おそらく苦しんでいる時間もなかったでしょうから、うらやましいような最後ですよ」と語っていたという。
古山高麗雄の友人には、妻に死なれて後追い自殺をした江藤淳をはじめ、自殺した友人が多い。彼は、「みんな意志が強いなあ」といって、娘にこんな打ち明け話をしていた。
「自分も戦争中、何度も自殺を考えたけれども、おめおめと帰ってきた。弱虫だから、自殺もできない。そのかわり、もう延命は望まないし、タバコもやめない」
こうして彼は81歳で死ぬまで、タバコを日に4,5箱吸い続け、その挙げ句、医者もうらやむような大往生を遂げたのである──。
この記事を読んで何やら心にうずくものを感じたので、古山高麗雄の作品集を探しに出かけた。私はいつもこうした機縁から、好奇心の網を拡げて行くタイプなのだ。好奇心は相手に関する些細なエピソードを知ることから発し、地下を這う菌糸のように思いもよらなかった方向に拡がって行くのである。
私は古山の名前だけは知っていたけれども、これまで彼の作品を読んだことはなかった。それで、古山の本を探しに家を出たのだが、市内には彼の本を売っている書店は一つもなかった。仕方がないので、インターネット古書店から、とりあえず二冊を注文した。
文藝春秋の紹介記事によると、古山は自らの戦犯収容所時代を描いた「プレオー8の夜明け」で1970年の芥川賞を受賞したとある。彼は、太平洋戦争中、日本軍が優勢だった時期に捕虜収容所に配属されていた。そこで彼は捕虜だったフランス軍軍医を殴ったことがあった。それで彼は敗戦後にその罪を問われ、戦犯にされてしまったのである。
私が注文した本は二冊とも短編小説を集めたものだった。短編の一つ「蟻の自由」は奇妙な味わいを持った作品で、このなかで彼は自分を一匹の蟻にたとえている。
「少年のころ僕は、家の庭を這っていた蟻を一匹つかまえて、目薬の瓶に入れて、学校に持って行って放したことがあるのです。そして僕は、蟻の、おそらく蟻にとっては気が遠くなるほどの長い旅を空想しました。今の僕は、あの蟻に似ているような気がするのです」
古山は、愛するものたちから引き離され、遠くビルマまで運ばれて、兵士として戦っている自分を蟻のように微少な存在だと感じたのだ。その蟻である彼は、毎日、妙なことをしている。暇を盗んで愛する佑子にあてて手紙を書いているのである。敵軍に包囲されている彼には、手帳に書いたその手紙を故国に送るすべはない。そこで彼は手帳からその手紙を引きむしっては、地面に埋めるのである。
「蟻の自由」という作品は、この埋葬された手紙を復元するという形式で書かれ、最後にこの手紙を受け取るべき佑子は、結核で死んだ妹であることが明らかにされる。
この作品だけでなく、彼の作品に出てくる古山高麗雄は典型的な「弱兵」で、行軍が始まれば列から遅れてすぐ落伍する情けない兵隊として描かれている。分隊長にとって、古山ほど手のかかるお荷物のような部下はいなかった。
そして、彼は少し無理をするとたちまち病気になり野戦病院に送られる。それで彼は、軍医からは「お得意さん」と呼ばれていた。そんな彼は、同じような兵隊経験のある作家たちが絶対に書こうとしないことまであからさまに告白するのである。
彼は銃の手入れが悪いという理由で、貴重品を入れる箱の下で、「捧げ筒」の姿勢をとらされる。直立すると頭が箱につかえるので、制裁を受ける兵隊は膝を曲げた姿勢で、銃を捧げ持っていなければならない。彼はこのときのことを、「女の子のようにぽろぽろ泣いて」死にたいと思ったと書いている。
「兵隊小説」を書く作家たちは、軍隊の内務班で自分がいかに惨めな目にあったか委曲を尽くして描く。だが、女の子のようにぽろぽろ泣いたことまで書いた作家はいないのである。
ほかにも、古山は戦場で自殺を考えたことを繰り返し書き、軍隊からの脱走を夢見たことや、敵の迫撃砲で戦死することを願ったと書いている。これらを読むと、作家志望の青白きインテリが、ビルマの戦場で、子供のように途方に暮れているさまが想像されて来るのだ。
そう思って読んで行って、巻末の解説記事まで来たとき、私は思わずわが目を疑った。解説者の柄谷行人は、こう書いているのだ。
「私は安岡氏の『悪い仲間』
に出てくる藤井高麗彦という男が古山氏をモデルにして
いたことを知って驚いたおぼえがある。この小説は、戦
争前の暗い雰囲気のなかで、学校を放擲していわばヒッ
ピーのようにドロップアウトして生きようとしていた
「悪い仲間」の生活と、そのリーダー格の藤井高麗彦を
題材にした作品である」安岡の「悪い仲間」を読んだことのある読者は、柄山行人と同じような感想を持つに違いない。これに続けて柄山は次のように書いている。
「・・・・・これが私小説だとすれば、高麗彦という奇
妙な名をもった男、揶揄的に描かれているが不思議な魅
力をそなえたこの男の行末はどうなったのだろうかと考
えたことがあったのである。それが古山高麗雄だった!」古兵にいじめられて女の子のように泣いた古山高麗雄と、「悪い仲間」のリーダーだった古山高麗雄とはすぐには結びつかない。しかし、少し注意をこらして彼の作品を読めば、「弱兵」古山の不敵な面魂が紙背から徐々に浮かび上がってくるのである。
2 「悪い仲間」(安岡章太郎)に登場する古山高麗雄は、なかなか魅力的な小悪党なのだ。太平洋戦争を数年後に控えた、まだ生活に幾分ゆとりのあったあの時代に、個性的な学生たちは皆自分の居場所を探し求めていた。そんな時に、古山はワルとして生きる方法もあるぞと仲間を啓発し、表世界のうしろに居心地のいい隠微な場所をこしらえたのである。
あの頃の学生は、従順な羊のような生き方を強いられ、心ならずも真面目に生きていた。だからこそ、ワルとして生きることには、わくわくするような刺激と喜びがあったのだ。
左翼運動は完全に圧殺され、自由主義の学者や評論家も追放され、思想の自由が一掃されただけではなかった。若者たちが、ほんの僅かな息抜きを求めることも許されていなかった。スターの実演を見ようと映画館の前に集まった「ダラク学生」には、消防車が出動してホースの水を浴びせかけた。講義をさぼって昼間から喫茶店やビリヤード場に顔を出している学生は、警察に連行され、警官からしたたか油を絞られた。
私は当時中学生だったが、新聞によく「学生狩り」という記事が出ていたことを覚えている。昼日中、登校しないでぶらぶらしているというだけで学生は警察に連行され、説諭を受ける時代だったのである。
慶応大学の予科に入学した安岡章太郎は、夏休みになると神田のフランス語講習会に通い始めた。そこで彼は京都の第三高等学校に在籍していた古山高麗雄を知ることになったのだ。
古山は小柄で目のぱっちりした学生だったが、一種ふてぶてしい印象を安岡章太郎に与えた。そして実際に古山は安岡の見ている目の前で、食い逃げ、盗み、のぞき見などを実行して安岡の度肝を抜いたのである。
ある日、古山は安岡を一流のレストランに連れて行った。
<……店の中はかなり立て混んでいた。ボーイたちは急ぎ足に、しかし歩調正しく白い蝶の飛ぶように動きまわっていた。毛のふさふさと生えた大きなシュロの樹の植木鉢のかげになったテーブルをえらんで、われわれは二皿ばかり注文して食べた。
食べおわったとき藤井は笑いながら、「いいか?」と言った。ぼんやりしたまま僕はただ「ああ。」と答えた。すると彼はシュロの毛を一本引っばってマッチの火を点した(「悪い仲間」)>
シュロはたちまち燃え上がって、店内の客は総立ちになった。その間に、古山は安岡に合図してまんまと店を逃げ出したのである。
万事、こうした調子だった。古山は、ぞっとするほど不潔な一膳めし屋に出かけて蠅の何匹もたかった魚を平気でうまそうに食べたり、垢で真っ黒になった下着好んで着ていた。安岡には、こういう古山が未知の国からやってきた異人のように見えた。安岡は、いつしかカリスマ古山高麗雄の忠実な弟子になっていたのだった。
安岡は夏休みが終わり、北海道に行っていた仲間の倉田に再会すると、倉田の心胆を寒くしてやろうと思った。彼は半ば無意識で、半ば意識して、古山がやったと同じことをやってみせて、倉田をワルの世界に引っ張り込んだ。やがて倉田も古山を知るに及んで、古山を師と仰ぐ忠実な弟子になった。
こうして安岡と倉田という二人の崇拝者を持つことになった古山高麗雄は、京都に戻ってから手紙で弟子たちを指導することになる。二人の弟子が競争で、自分がいかに掟破りのことをしたか報告してくると、古山はそれに論評を加えながら二人を上回る自身の破滅的行動を告げてくるのである。
ついに古山高麗雄は、その悪行がたたって学校を退学させられてしまう──これが「悪い仲間」のあらすじだが、彼が退学になったのには、別の理由もあったらしい。
古山の「言葉への自戒」というエッセーに、次のような一節がある。
<過日、大岡昇平さんと対談したとき、私は学校をや
めたいきさつを話しました。「遠因は反戦ですが、近
因は放蕩ですね」
・・・・・・・・・・・
修身の時
間に、校長が大東亜共栄圏の説明をした、私がそれに
反論すると校長がうつむいてしまったので、私は教育
に絶望した。それから学校に行かずに放蕩を始めた>古山の「悪行」は、ワルのためにワルを実行するという以外に、時代に対する反発や怒りがあった。すると、軍隊における彼の「弱兵」ぶりにも屈折した思いがあったはずである。
ここで「蟻の自由」をもう一度振り返ってみよう。古山は自身を微小な蟻のような存在と観じながら、その蟻に自由があるとしたら、どんなかたちをとり得るかと問うている。
古山は、防毒マスクを捨てたことで班長から、軍法会議にかけてやるぞと脅されていた。そんな状況下で、彼は死んだ妹にこう語りかけるのである。
<ここでは、僕はほんとにひとりぼっちなんだよね。なんにもないんだ。だから、どんな生き方だってできるんだよね。外側だけ、みんなに似せておきさえすれば、かなり自分流にやっていけるんだ。
(軍法会議にかけられても)もう、僕はこわくない。僕は死ぬ気でいるのだもの。 軍隊監獄にほうり込まれたって、僕は自分流に生きてやろうと思っている>
彼は金箔付きの弱兵だった。しかし、それは外側をみんなに似せて、その仮面の下での「自分流の弱兵」だった。古山の作品「白い田圃」には、貴重品を入れる箱の下で、女の子のように泣いた彼とは別人のような古山像が描かれている。
この作品は、ゲリラの巣窟と見られているカレン族の部落を古山らが包囲した時の出来事を取り上げている。日本軍はこの部落の殲滅を意図して大砲を撃ち込み、逃げ出す部落民を重機関銃で片っ端から射殺することにしていた。いかにも日本軍らしい残忍な戦法であった。
作戦は順調に進行するかに見えた。部落から飛び出して森に逃げこもうとする村民を古山の戦友が重機で次々に倒したのである。やがて村民は日本軍に包囲されていると知って、外に出てこなくなった。
< そのうちに、
緑色のロンジーの女が、背丈から判断して、十ぐらいの女
の子の手をひいて飛び出した。女の子は、ピンクのロンジ
ーをつけていた。
「あれも撃ちますか」
一瞬、小原が逡巡した。「撃て、射撃練習じゃ」尾形は言った。
「今度は、自分に撃たせてください」
とっさに私は、重機にしがみついた。小原は私に、おめ
え撃つか、と言ってゆずってくれた。私は、目標の三メー
トルはど後方を狙って撃った。緑とピンクのロンジーは、
ときどき転びながら、右手の林に向かって駆けて行った。大沢が、私の尻を蹴った。
「なんじゃ、おまえ、当たらねえでねえか、この、でこす
け」
大沢は、私の腹の下に靴を入れて、私を重機から引き離
した。>古山は、カレン族の母子が射殺されそうになるのを見て、仮面で生きる生き方を瞬間に止めたのである。だが、彼はこうした行動について照れくさそうに、こう注釈を加えるのだ。
「私は、虚無的になれる体質ではなさそうだ。どちらかといえば私は、甘ったるく、めそめそした質ではないかと思っている」
古山の「人道的行為」は、これで終わったのではなかった。
3
例の村落の方向から一発の弾丸が飛んできただけで、あとはひっそりしている。それで村落を包囲していた古山らは部落の中に入って、家々から住民を追い出しにかかった。日本軍の憲兵も駆けつけて来る。憲兵らは、一カ所に集めた20人ほどの住民の中から3人の女と5人の男を引っ張り出して縛り上げた。彼らがゲリラのメンバーらしかった。住民の処分が一段落したため昼食をとることになり、その間、古山は3人の女の監視を命じられた。班長の言いぐさは、「おめえは、女が好きだべ。みんなの飯がすむまで見張っとれ」であった。
班長は古山が女を縛り上げた縄をいじっているのを見て、「なにやっとる」と怒鳴った。古山は、「縄がゆるんでいないか、確かめているのであります」と答える。たが、実は女たちの手に食い込んだ縄を緩めてやっていたのだった。
やがて、班長は兵隊たちに、「この村は焼いてしまうから、ほしいものがあったら、今のうちに盗ってこい」と言い、その後で「行きたくねえやつ、いっかあ」と尋ねた。その場に何人かの監視要員を残しておかなければならないからだった。古山は、「自分は残ります」と残留することを申し出た。
だが、これが藪蛇になったのである。その場に残ることを申し出たために、彼は憲兵を手伝って女を拷問しなければならなくなったのだ。憲兵が言うには、縛った3人の女のうちの一人はゲリラの首魁の情婦だから、是が非でも彼女の口から首魁の行方を白状させなければならぬというのである。
古山は憲兵の指示に従って、女を縛っている縄を近くの木の枝に引っかけた。そして、憲兵の手伝いをして、女を1メートルほどの高さに宙吊りにし、それから憲兵に言われるままに、吊り上げた女を空中でブランコのように突き動かしはじめた──
古山高麗雄が「白い田圃」の作中にこうした場面をわざわざと書き加えたのは、同書のなかで自分をあまりかっこよく書きすぎたと感じた為だろう。彼の兵隊小説は、総じてこうした書き方になっている。彼は、作品に仲間の兵士を登場させる。そして、仲間との比較において自分がいかにドジな兵隊であったかを誇張して書き込むのだが、実際のところは、彼が仲間の上に立ち彼らをリードしていたらしいのである、学生時代に安岡や倉田をリードしていたように。
中島敦も、作品の中で自身を腺病質の弱者として描いていた。だが、女学校教師をしていた頃の同僚によると、彼は職員室では教員仲間のリーダーであり、みんなの活力の源泉だったという。作家は誠実であろうとして、自身を実質以上に卑小に描く傾向があり、古山高麗雄もそうした一人だったのである。
古山高麗雄が現実に軍隊においてどのような存在であったかは、「プレオー8の夜明け」を読めば明らかである。
前述のように、彼はまだ日本軍が優勢であった頃、捕虜収容所の看守の役割を命じられた。その時、フランス軍の軍医を殴って戦後に戦犯収容所へ送られるのだが、そこには、彼のような兵卒から、陸軍中将や大佐などにいたるまで、あらゆる階級の軍人が収容されていた。この収容所の名称が「プレオー8」だったのである。
戦犯の容疑者70名が狭い獄舎の中に押し込められていると、今まで高圧的な態度で部下にのぞんでいた中尉の性格が急変して女性化し、女言葉を使うようになったりする。「プレオー8の夜明け」は、そうした収容所内の光景を冷徹に描いている点で、大岡昇平の「俘虜収容所」を思わせるのだ。
軍隊の階級制度が半ば崩壊した異常な環境のなかで、古山はこう考えるようになる。
<監獄には何もない。ぺたっと打ちしお
れているだけではしょうがない。だから、何かできること
があったら、育てよう。少しでも楽しいことを考えだし
て、やっていこう(「プレオー8の夜明け」)>皆を喜ばすために破天荒なことをやってみせるのは、習い性となった彼の特徴だった。彼は、安岡や倉田の前で食い逃げをして見せたのと同じサービス精神から、所内の男たちのために一肌脱ぐことになる。
<パンの白いところを、みんなか
ら少しずつ供出してもらって、ちょっぴり水を加えてこね
て、麻雀牌を作ったのもそうだ。将棋の駒も碁石もパン
で作った。トランプや花札も作った。バナナと黒砂糖で酒
も作った(「プレオー8の夜明け」)>そして彼は自分で台本を書いて、芝居を上演するまでになるのだ。役者は上官たちを含む収容所の戦犯容疑者たちであった。これは収容所内の全員から熱烈な歓迎を受け、毎週土曜の夜に定期公演されるようになった。古山はそのために毎週新しい台本を書き、蚊帳の中で役者たちに稽古をつけた。このほかに、彼は自分で作詞した歌を、仲間に作曲させて、歌謡曲発表会を開いている。
毎週上演される芝居のスターは、トヨちゃんという補助憲兵で、トヨちゃんがまるめたタオルで胸をふくらませ、顔を歯磨き粉で白く塗り立て、赤チンで唇を染めて舞台に現れると、所内の空気は一変した。たちまち熱っぽいホモの気配が立ちこめ、「ペニスを勃起させる奴」が続出することになる。トヨちゃんの人気は爆発的になり、皆に追い回されるようになった。
そのトヨちゃんが古山のところにやってきて、「俺、隣に寝てもいい?」と尋ねたのである。「ああ、いいよ」と古山は答えて、二人は抱き合って寝るようになった。古山はここで男同士の性生活を体験している。
ホモ社会で一番人気のある女役は、けっして自分を安売りしない。グループのボスを選んで、その情婦になるのだ。古山高麗雄は並み居る将校らを差し置いて、トヨちゃんに選ばれたのである。
古山は自筆の年譜にこう書いている。
< 昭和22年27歳四月、裁判を
受けたが禁錮八カ月の判決であった。未決通算によって裁
判の翌日釈放され、以後半年、カンホイの収容所で復員船
を待つ。十一月、復員>刑が軽くて済んだのは、彼が殴ったフランス軍軍医の側に非があったからだろう。その軍医はフランス兵の間にアメーバー赤痢などが流行しても、治療を部下のフランス衛生兵に任せきりで、自分では何もしようとしなかったのだ。
復員後の古山は雑誌の編集者を経て、作家になった。
作家としての古山について、柄山行人は「彼が仮借ないのは自分自身に対してだけであって、他者に対しては母性的な態度で接している」という意味のことを書いている。事実、戦場での彼の行動には、人をハッとさせるような優しさがあったのである。
「白い田圃」には、班長が部下に略奪を許可する場面があった。それを断って居残ることになった古山に仲間の兵隊が、「欲しい物があったら、盗ってきてやるぞ」と声をかける。すると、彼は写真を取って来てくれと頼むのだ。たいていの民家には、家族写真が額縁に入れて大事そうに飾ってあったのである。
戦争が終われば、村民たちは新たに家を建て、家財道具をまた買い入れることができる。しかし、燃えてしまった家族写真を取り戻すことはできない。それで彼は、仲間が集めてきた写真を、村民に返してやろうと考えたのだ。
作家活動に入った古山は、執筆の便、道楽の便を考慮して、妻を神奈川の自宅に残し自分だけ東京都内のマンションで暮らすようになった。彼は、育児を始め、家事一切を妻に押しつけ、妻をまるで家政婦のように扱ったのである。汚れた下着も自宅に送りつけて妻に洗濯させていた。
その彼が妻に死なれると、ただうろたえておろおろし、それ以後抜け殻のようになってしまう。亭主関白に見えた彼は、実は妻に子供のように頼り切っていたのである。だから、妻の死なれて、彼は生きる力をなくしてしまったのだ。
自分に厳しく、他者に対して優しかった古山にも、赤ん坊のように弱いところがあった・・・・ここに、古山高麗雄作品を読み解く鍵がありそうなのだ。