社会的不適応を持続させる方法
昭和二十一年の五月、私は復学するために上京した。復学が遅れたのは、復員した翌日から病気になり、半年あまり寝込んでいたからであった。病名は結核の初期症状「肋膜炎」で、これが以後十年間、私を悩まし続ける肺結核のはじまりであった。
久し振りに学校へ行ってみると、空襲にあった学校は本館と図書館を残し、ことごとく焼け失せていた。教室の数が足りないから、グランドや焼け跡の瓦礫の上に教室に入れない学生の姿があふれている。昔の仲間は三年に進級していたが、復学した私はその下の二年に止まらなければならなかった。
「随順の倫理」の著者であり、前のクラスの担任だったI助教授をはじめ、私の知っている多くの教授達は追放になって姿を消していた。ロイド眼鏡のM講師の顔も見えなかった。中国人留学生の朱定裕は、帰国すれば対日協力者ということで民衆裁判にかけられるので、末だ東京に残っているという話だった。朱の行動は、故国にとどまって抗日戦争を続けた学友達の目から見れば、許すべからざる裏切行為に映るであろう。彼がどんな心情で日本にやって来たか、いくら弁明しても理解されないに違いない。
私は戦後になって一度だけ、朱定裕を見かけたことがある。五月の末頃であった。私はグランドをへだてて本館を見通す草地に坐り、次の講義のはじまるのを待っていた。グランドの真中あたりは割りと人影がまばらだったが、本館の周囲も、私のいる草地の上も、雑多な服装をした学生で一杯であった。
それらの人混みを通して、私はふと、朱定裕が本館前の鉄棒にぶら下ってその長大な身体をぶらぶらさせているのを発見したのだ。
彼は身体をのんびり前後にゆすっていた。屈託のない、気楽そうな表情だった。彼のどこからも、追いつめられて窮地に立っている切迫感は感じられなかった。が、だからこそ私はそこに彼の悔恨とあきらめを感じ取ったのだ。朱定裕の全身は間違いなく深い悲しみをあらわしていた。
戦争が終って、私が逢着した新たな困難とは次のようなものであった。
言論統制がしかれていた戦争中は、人々の視聴は公式報道に集中していた。国民の目は、フットライトで照らし出された正面の舞台上に釘づけになっていたのだ。そこで進行するのは、悲惨な結末で終ることがあらかじめ予定されているドラマであった。観客席は暗く、まわりは何も見えなかったから、私は舞台上の劇を否認して観想の中にある「世界」に住み、ベルクソンやエピクテートスが切り開いてくれる展望を愉しんでいればよかった。戦争が終ると、暗い観客席にも照明ついた。国民は今度は、お互いを視聴の対象とし、その生きる姿勢を確かめあうようになるのだ。私はなんとなく居心地の悪さを感じた。
これまで、私の前には「国家」の提出する明白な誤答が一つあるだけだったから、私は不同意の態度を示すだけで足りたが、今や私達は相互に正しい解を示し合わなければならないのだ。
照明は場内を照し出すばかりでなく、私達の内面にも及んでその暗部を浮びあがらせる。
戦後の世界は、急速にアメリカとソ連の対決という方向に動きつつあった。日本はこの冷戦構造の中で、アメリカ側に組み込まれ、この中でしか動けないようになっていた。これに対する私の基本的な態度は、またしても「NO」であった。となると、私は日本を取りかこむ政治的現実に対する不同意を、以前よりずっと精密な形で自他に表明して行かなければならないのである。私は又、自分の政治的な姿勢と、その他の日常的諸行動とを整合させる必要があった。
こうした政治的な案件にもまして緊急に解決しなければならない懸案は、「世間」との関係をどうしたらよいかという問題であった。ここで、あらかじめこれから先のことも通観しておけば、学生時代の全期間を通して私が考え続けたのは、どうすれば「社会的不適応」の姿勢を持続して行くことができるかという問題だったのである。私は、どう努力しても現実の世間を受容できなかった。世間に出て行って、本気になって何かの役割を分担する気には到底なれなかった。ならうことなら、世間とは没交渉で生きていきたい。
が、それが不可能だとしたら、私は世間への不適応を守りながら、破綻なく生きる方法を発見しなければならないのである。「不適応的適応」の生活を継続できるような視座・哲学・生活システムを、何とか探し当てなければならない。
私が最初に考えたのは、世間の圏外に出て「伴走者」として生きて行く人生であった。地上の住人とならず、サテライトに乗り移って、そこから地球を見物する「純粋観客」になって生きて行く人生である。
次に試みたのは、現世の内部に積極的に自己の不適応を投げ入れる生き方であり、これは後に中江兆民や中野重治から学んだ方法であった。戦後三年間の東京での学生生活は、前半が「純粋観客」、後半が「学生運動家」をめざすことによって成立した。両者とも、社会的不適応に固執し続けるという点で共通しているように思う。「純粋観客」:街あるき
上京後の私は、ひまをぬすんで、さかんに「街あるき」を試みた。病気休学をおえて上京して来た私の目には、戦後の東京が巨大な見世物小屋に見えたのである。
文京区大塚にある学校から、松戸市の下宿に戻るのには、山手線で日暮里まで行って、そこから常盤線に乗り換えなければならないが、乗り換えてから松戸駅に着くまでの途中にある任意の駅(三河島・北千住・亀有など)の駅で下車するのだ。そして、駅前の通りを五百米ほど真っ直ぐに進み、そこから方向を転じて駅を中心とする円周上を一周するようなつもりで歩いてみるのである。そこはどこも皆下町であり、坂口安吾の「白痴」の世界であった。
表通りから横丁・路地裏の中に入りこんで最初に気づくことは、とにか<そこが画一的でないということであった。たえず通行人の波に洗われている表通りの凡庸な商店配置に<らべると、裏通りにはくすんだ民家の居並ぶ一角にポツンと古本屋があったり、そこだけひどく繁昌している賑やかな食料品店があったりして意外性に富んでいるのである。そういう食料品店の前は、道路にまで果物や魚の干物がはみ出ていて、店内には昼間でも煌々とと裸電球がともり、林檎・蜜柑の肌も、店主・内儀の顔も光り輝やいて見えた。
私は古本屋を見つけると、必ず店内に入って行った。そして、これが以後の私の「街あるき」の中継点になるのだった。
街を歩きながら、私はいろいろな光景を見た。何しろ戦後の混乱期であった。チンピラが数人で喧嘩をしているところ、コソ泥がその辺の若者に両手を前で縛られて交番に引っ立てられて行くところ等の通俗的な場面も目撃したし、それより更に人生というものを感じさせる情景として、暴力団の幹部が街頭の靴磨きや組の関係者の挨拶を受けながら街を通り過ぎる場面を見た。暴力団幹部というのは、頭を丸坊主にした漫画のように滑稽な男なのである。彼に寄りそうようにして一緒に歩いている若い女は、整った顔をした「人形型」美女であった。おかめのような顔の男が、非個性的な美女をつれて、くにゃくにゃタコ踊りのような恰好で歩いて行くのへ、道の両側の男女が畏れを含んだ敬虔な態度で一斉に低頭するという光景。
北千住の裏通りを歩いているうちに、ふと、トラックの疾走する産業道路に出てしまったことがある。道路の片側に長屋風の平屋が四・五軒並んでいた。私はその一軒から丈高い主婦が四・五才位の男の子をかかえて出て来て、トラックの走り過ぎる合間をねらって道路の中央部まで進んで行くところに出くわした。彼女は子供の足をひろげさせ、マンホールの穴の中に排便させた後、又その子供をかかえて悠々とこちらに戻って来る。間近で見ると、三十二・三の女であった。女は浴衣の袖を両肩にからげるという不逞な恰好をして、目には嘲るような猛々しい表情を浮べていた。人喰虎のような感じのする恐しい女であった。下町ではこういう女が、何事もない素振りで世帯を持ち道路脇の平屋で暮しているのである。
家の戸口にドラムかんを出して風呂を立て、衆人環視の中で白昼堂々と入浴している老婆もいた。
私は東京の下町で、思いもよらなかった民衆の不逞な生き方を見せつけられた。私が街あるきに精を出したのは、一にかかって民衆の大胆不敵な生き方、動物的なといっていい生活営為の多様性にひかれたからである。戦後、来日した映画監督スタンバークは、外国を訪れると、まずその国の動物園を訪ねて、民衆を眺めて暮すという。私はこの話を当時の新聞記事で読んだのだが、このエピソードを今もって記憶しているのは、私がその時分、スタンバークと同じ目で下町の民衆を眺めていた為だ。
水鳥が沼地に棲み、キツツキが枯れ木の穴に棲むように、私達も自分に房わしい「棲息地」を探し当てなけれぱならないだろう。そして、私達は、感情のスペクトルの中から、自分が一番楽に動けそうな感情群を発掘する必要もある。
私は学校を卒業したら、関西地方の商業都市に流れて行き、そこの場末にあるニ、三流の私立高校に就職したいものだと考えるようになった。放埒で無軌道、感化院の生徒のような少年達の集る学校である。そこの教師達は、モンキーセンターの飼育係が、餌バケツを手にして檻の中に入って行くような気持で、教科書をかかえて教室に出向くのだ。下宿は煙草屋の二階あたりを借りればよい。そこから現実的でがめつい関西人を眺めて暮すのである。そして、機が熟したら、バーナード・ショウの「人と超人」のような快活にして哲学的な文学作品を書き上げるのだ。
私のよって立っ思想基盤は、明朗快活なニヒリズムであり、実人生における私の役柄は、「人間動物園の飼育係」である。私は生涯独身で通すが、
決して男やもめに蛆をわかせるようなことはしない。潜水艦の乗組員が狭い空間内に所持品をきちんと整頓しておくように、私も自分の私生活を簡潔な秩序の下に置き、整然たる一生を送るだろう。
その頃、久隅守景の「夕顔棚納涼図」を見た時に、私は求めていたものを得たような気がした。これは親子三人が夕顔棚の下で涼んでいる様子を描いた屏風絵である。ゴザの上に腹這いになっている男の、人生をすねたような、達観したような顔つきを見ると、生きることが極めて単純な易々たることに思えてくるのだ。かたわらには、上半身裸になった洗髪の女房が気楽そうに坐っており、男のうしろには、四・五才の男の子がいる。皆、気張ったところが少しもない。それぞれが適当にやっている。それでいて、皆、ちゃんと所を得ている。
久隅守景の絵は、その後長い間、一種のユートピアとして私の心に残った。この絵があらわしている世界に、その気になれば私達は今直ぐにでも入って行くことができそうだった。だが、今直ぐにでも可能なことが、実現するのに最も困難なことなのである。
中野重治に傾倒する
古本屋から買って来た本のうちで、読むたびに元気回復の笑いを感じさせられるのは、戦前に死んだ直木三十五の戯論や雑文であった。直木三十五は、日本の近代作家のうちで、ほとんど唯一の本格的なニヒリストである。
彼が文壇の他愛のないゴシップを素材にして、あんなにも愉快な雑文を書けたのも、彼が心底において文学や芸術を信じておらず、ほかの作家がライフ・ワークに傾注すると同じ興味と努力を、それらの片々たる原稿に注いだからだ。
醒めた目で直視すれば、人間の一生に聖者と凡夫の差はなく、人間の幸・不幸の総量は誰も皆じなのである。私達のすることに意味・無意味の差はないのであり、ただ、その瞬間に心から熱中できる行動であればよいのである。
彼は死ぬことなど少しもこわくなかった。だから、書くことに興味があるうちは、際限もなく原稿を引き受け「斬り死に」するような死に方をして行ったのである。
感触の点で直木三十五に似ているのは、「堕落論」によって再登場した坂口安吾であった。彼はたたみかけるような旺盛な筆力で、人間の本来相は闇屋・売笑婦たることにあり、無垢な特攻隊員・貞淑な靖国の妻とい
うあり方は仮現の一時相に過ぎないという。だから、特攻隊員が闇屋になり、戦争未亡人がパンパンになるのは本来性の回復であって、何等驚<に当らないというのだ。
私はほかにも、沢山の面白い本を読んだ。古本屋の店頭には、三十円均一で薪を売るように雑多な本が並べてあり、この中から切れ味鋭利な書物を掘り出してくるのは、砂金掘りのように楽しかった。
私がまともな勉強に取りかかったのは、復学した翌年、昭和二十二年頃からであった。有名無名の著作家の雑多な本を読みあさっているうちに、私は次第に持続的に追求する研究テーマのようなものを探し求めるようになった。自分の生活に核を与え、日々の経験がおのずからそこに帰一して行くようなテーマである。私は岩波書店刊行の哲学書を読みあさるようになった。だが、やがて私は唯物論を哲学的に深化させて行くことが自分の仕事ではないかと考えるようになった。日本における唯物論の始祖は中江兆民であり、戦前戦後を通じて唯物論陣常の最大の大物は獄死した戸板潤であるらしかった。
私は書店へ行って、当時刊行中だった「戸坂潤選集」の既刊分を全部買いこんで来て読みはじめた。
戸坂潤はボルテールのように快活で雄弁な思想家であった。どんな固苦しい論文にも、「修身道徳のことをモラルというのは、宿屋のことをホテルというようなものだ」とか、「今、みづから絶望することなどを覚え込んだ学生は、どの途、はじめから絶望すべき学生にきまっている」といった風な警句が織りこまれていた。彼の頭の中は秩序整然とした高層ビルの内部のようであった。在野の思想家である彼は、原稿料によって生きて行くしかなかったから、注文のある都度、与えられたテーマで論文を書いて行った。
しかし、雑誌原稿が十篇ほど溜まったところで一冊にまとめてみると、行きあたりばったりに書きとばしたと思われた論文群が起承転結を具備した書き下しの著書と同じものになっているのである。つまり彼は、常に全体的な構想の下に行動しており、即興的な随想のように見える原稿も、次に出版すべき論著の有機的な一部として、あらかじめ計算して書かれているのだ。「戸坂は足ることを知っていた男である。自足の感覚をもちあわせた人間だった。酒が十分に自分の身体に滲みわたったとき、自然に足が家路に
向く仕掛になっている調法な身体の持主であった」と酒友が追想しているのを雑誌で読んだことがある。
戸坂潤は、唯物論を自己完結的な閉された円環として構築しようと試みたことは一度もない。彼は唯物論を方法論の一種と考え、クリティシズムの一つと見なしていた。彼が死に至るまで全力を振って努力したのは、唯物論によって科学の本質とその社会的機能を明らかにすることであり、現在進行中の社会現象を分析することだった。戸坂はプラグマティズムの使徒の一人だったのである。
戸坂潤を卒業した私は、次に彼の同志である物故した思想史家永田広志を読みはじめた。「日本封建制イデオロギー」は、私に思想史の面白さを教えてくれた。私は明治思想史の勉強に取りかかった。
ある日、私は下宿で、左翼系の文芸雑誌を読んでいた。この雑誌には、作家研究の特集があり、中野重治研究の論稿も載っていた。中野重治は当時、私が興味を抱くようになった作家の一人だった。中野論を書いている筆者がどういう人物なのか私にはわからなかった。もしかすると詩人なのかもしれない。中野重治を論じるには、彼の力不足は明らかであり、書いであることに新しい発見は何もなかった。
中野重治の作品は、いずれも重い緊張をはらみ、屈折した情感を幾重にも塗りこめ、異様なほど密度が高い。こうした作家を論じるには、論者の方にもそれ相応の力量が必要なのだ。
その評論は、中野坂治の詩を三篇ほど引用していた。その一つが次の作品であった。「最後の箱」
なんという愚かなやつだろう
おれはそれを高い道路に坐って見ていたのだ
機関車をはじめほかの箱ともが
どっしりした重量をはらんで車輪の音をひびかせて行くのに
そいつはじろごろという音を立ててひっぱられて行くのだ
四角な黒い図体をして
なかには荷物も何もはいってないのに違いない
ごろごろといって一番あとからついて行くのだ
前の車の腰のところにつかまってどこまでもどこまでもついて行くのだ
もう五時間もたてぱどこか遠い田舎の線路の上を
あいつはやはりあんな恰好をして走っているのだろう
なんという愚かな奴だろう
あいつの愚かな姿を見送っているうちにおれは少しずつ悲しくなって来た
数えていたその貨物列車の箱数を忘れてしまった私の目を活字の上に吸いついたようにさせたこの詩の魅力は、作品のうしろに流れる作者の感傷的な自己愛撫にあったかもしれない。だが、ただの感傷とは思われなかった。無論、不恰好な形をしたこの「貨車」は中野重治自身の象徴なのである。
自分を「箱」のような人間だと考え、「前の箱」につかまり、「ごろごろとひっぱられて行く」「なかには何もはいっていない」という風に次々に自虐的に規定して行くやり方の中に、長い間続いた自己嫌悪と自己執着、そこからの脱出、再度の自己還帰という幾星霜が折りこまれている。そうした変転の未に、どう努力しても変えようのない自分への諦念がうまれ、
これから先もこのようでしかあり得ない自己への慰撫と容認がうまれる。その後の中野重治の作品を読み合わせてみると、こうした自己確認は、この形のままで「遠い田舎」を走ってゆこうとする旅立ちの決意につながっている事実が判明する。
私は彼がしゃれた言葉を使わず、いい恰好をしようとせず、愚直な自分をそのままの形であらわして行くところに打たれた。だが、この迫真性・即物性は明らかに愚直でない分折や思考を経過した後にうまれたものであった。
中野重治は、一旦は西欧的な観念や論理で自分を装い、洗練された近代言語で自分を規定する。そして、白い鋳型の石膏を全部棄て去って中から黒い鋳像を収り出すように、西欧的現代的なものを棄てたあとから「愚直な自己」を取り出すのである。そういう操作をへなければ出てこないような強烈な衝撃力が中野の作品にはあるのであった。
私は是非とも中野重治の詩集を読みたいと思った。だがこの本はどこの書店にも見当らなかった。そしてそれが、久し振りに出かけた上野図書館のカウンター横の新刊紹介の棚に出ていることに気がついたのは、昭和二十二年の九月であった。
借り出した白くて薄い「中野重治詩集」(小山書店版)をひら<と、はじめの方に波を題材にした二篇の詩があった。
うねりは遥かな沖なかにわいて
よりあいながら寄せてくる
そしてここの渚に
さびしい声をあげ
秋の姿でたおれかかる
それらの詩は惻々として私の肺腑に迫った。寄せては返すしらなみの寂しさ、そしてそれを黙って眺める若者の寂しさ。私の胸の底に、一つ一つの言葉がまるで清水のようにしみ通って行った。
私は中ほどまで読み進んだが、愛惜の情に引き戻されて、又波の詩のところまで取って返し、ありあわせのノートにそれを書き写した。それから続きを読み、気に入ったものにぶっかると又ノートに書き取るという風にして少しずつ読んで行った。私は中野重治の詩の一つ一つを、本当に舐めるように、すするようにして読んで行ったのだ。
これらの作品の中にある中野重治の悔恨・自嘲・決断・嘆きは、私のそれと完全に符合しているように思われ、中野と私は方解石を通して見る複合像のようだった。私は数日間、上野図書館に通って中野の詩集を写しおえた。筆写しているあいだ、私は時間の経過するのを忘れ、透き通るような静かな幸福を感じ続けた。
中野重治の特色は愚直な点にあるのではなく、愚直であろうとするところにあるのだった。彼はどうにもならぬことにこだわる。彼には生得の美醜・正邪の感覚があり、愛憎・好悪の区別がある。
ニコニコ顔をした倫理学の教授は生理的にどうしても好きになれないから、彼はその講議をノートすることができない。そして彼は好きなものにも接近することができない。寺のとなりにある、お気に入りの煙草屋からは彼は煙草を買うことができず、ほかの店で買ってしまうのだ。
ほしいものをほしいといえず、駄目だとわかっている不毛の恋愛に執着し、いたずらに感情を浪費し続ける。誰よりも損得観念がはっきりしていながら、損得観念では動けないのだ。
中野重治は、こうした彼固有の愚直さを清算しようとはしない。これはもう彼の骨身に焼きついた瘢痕のようなもので、これを清算することは自分を棄て去ることにほかならないのだ。そして、この「負の要素」が現実と接触した時に、時代への抵抗力として働くのである。
日本の知識人・学生の間にある抜き難い事大主義・・・明治の立身出世主義、大正のデモクラシー運動、昭和の侵略戦争、何にでも自分を適応させて身の安全をはかる彼らの事大主義に対して、中野重治は愚直であり続けるという戦術によって戦ったのだ。
彼は昭和十年代には、文壇の主流を形成する評論家や作家を向うに廻して、猛烈果敢な論争を挑んだ。彼は次々に異質の思想を乗り継いでジャーナリズムの第一線に進出し、そこで夜郎自大と仲間ぼめを事としている文士達を許すことができなかった。
「たわけたことを云うな」。これが、地の文の中に書きつけた論敵への言葉である。彼は悪鬼羅刹のようにすさまじい勢いで戦った。あらゆるものを動員し、ひがみや邪推すら武器として徹底的に戦ったのである。
結局、彼は「かたくなであること」によって進歩的であり得たのだ。愚直を守ることによって、かえって優れた革命家であり得たのだ。日本のように軽薄であることを本質とする精神風土では、先見性や予見能力によって「前衛」たり得るのではない。人より新しいことを言うことで時代を先へ進め得るのではないのだ。
逆に、弱くて愚かな自分に固執し続けること、屈辱と羞恥を毎日反芻し続けること、口惜し泣きしながら原点を固守し、かたくなに時代に対する不適応を続けることによってのみ、つまりテコでも動かぬ「保守性」を持続することによってのみ、進歩的であり得るのだ。
中野重治を読んでいると、当世風なスマートさを唾棄し、剛直な姿勢で生きて行こうとする勇気が湧いて来た。現世に適応してよろしくやって行くことなど問題でなくなって、与えられた本具のものを守り、質朴に正直に生きて行こうという気になった。中野重治を読めば、読むに従って確実にこちらへ何かが伝わって来て、わが身のカの加増して行くことがわかるのである。
「歌のわかれ」の比類のない美しさ。あのはりつめた孤独な世界。私は中野重治の書いたものを、目に触れる限り買ってきて読むようになった。私は講演会のあとの座談会で、「歌のわかれ」に出てくる「鶴来金之助」のモデルである評論家のK氏に、中野重治の話をしてくれと唐突に頼むようなこともした。
K氏はちらっと私の方を見て言った。「あなたのような人から、中野のことをよく聞かれますよ」
中野重治を読むことによって、私は自分も革命運動に参加しようと考えるようになった。中野は固有のものを守り、詩人的感性を持ったままで政治連動を続けた。彼はシェルターなしで世俗に身をさらし、それがどこであろうと自分自身であり続けたのだ。
中野重治を範型としてなら、私のような人間でも左翼組織でやって行けるかもしれない。
常に新しい中江兆民
最終学年の四年になって私の生活は一変した。左翼組織に加入し、学生運動をはじめたからであった。紬織に加入すると共に、私はその中の一部門の責任者になり、活動期間中、いろいろと危い橋も渡った。
だが、そのことについては、本筋と関係のない話だから、ここでは触れない。ただ、私が政治運動というものに結局適応できなかったことを記しておけば、十分だろうと思う。私という男は、もともと集団生活に適応できるようには出来ていないのである。
自己の不適応を悟りながら、卒業するまで学生運動を続けた理由は何であったろうか。
それは結局、同じ陣営に属する様々な仲間達への興味、運動を通して知り合った各層の人間への関心からだったと思う。組織内の学生仲間には、一癖も二癖もあるアンチ・ヒューマニストがいた。小型スタブローギンといった風の学生である。それはそれで興味があったし、親しく接触するようになった労働者の仲間には学生仲間にない真率な心根を持つ者があって胸を打たれたのだ。
最終学年には卒業論文を提出する義務があったから、多忙な生活の合間を縫って中江兆民に関する資料を集めはじめた。
私は雑誌「世界」に載っていた中江兆民をテーマとする座談会記事を読んで、この日本において、そもそも啓蒙主義というものが成立し得るかという疑問を持ったのだ。例えば、平賀源内は十八世紀のフランス啓蒙主義者と同時代人である。彼は自然科学に関する学識を持ち、文学的な才能にもめぐまれ、ディドロ・ダランベールと比較していささかも遜色のない才人であった。
「放屁論」「風流志道軒伝」をはじめとする平賀源内の諸著作は、百科辞典派の思想家達が発表した啓蒙主義の諸文献と同質の高い風刺精神に溢れている。だが、フランスの啓蒙主義者は時代の寵児となり、社会を動かす先導者になることができたが、平賀源内は「奇人」として遇され、「才人」として面白がられただけである。彼の末路は目を蔽いたくなる程、悲惨なものだった。
この相違を単に、歴史的条件の差異だけに求めてよいものだろうか。日本では、理性的な生き方を貫徹しようとする人間、首尾一貫して生きようとする人間、普遍的原理の実現をめざす人間は、我が儘者とされ、「畸型人」と評価されて嘲笑の的になる。
中江兆民も明治期の日本にあって、奇人としてしか生きられなかった。私は啓蒙思想家としての中江兆民の悲劇を描くことで、日本に啓蒙主義というものが成立し得るかという疑問を解こうとしたのである。
中江兆民の経歴を調べ、彼の著作を読んで行くうちに、私は目を洗われるような驚きに襲われることが多かった。ダムの水が水路の末端まで届くように、兆民の思想はその生涯の最後の瞬間にまで行き及んでいる。
この世界は、見た通りのもの、これだけのものと見て取り、社会は誰によってでもなく人間自身の努力によって良くも悪くもなると腹をきめてかかっている唯物論者の面目が、彼の全生涯のいたるところに露頂していた。
彼は癌にかかって余命一年半と宣告された時に、泰然としてわが国最初の唯物論哲学入門書を書いた。死んで塵芥と化して行く自身を確認するためであった。
彼は個人的な安心立命の必要や、「死後の自分の都合」を考慮に入れて思考しなかった。人類のために考えることもなかった。彼は所与の単純平明な事実を基盤とし、万人の納得する公理に従って考えただけである。その思考の赴くところがどうなろうと、その結論から逃げることをしなかったし、その帰結をごまかしたりしなかった。
人間社会を規制する永遠の道や規範のようなものはない。社会的矛盾や不公正は、人間自身が作り出した人間社会のみに関わる局所的な現象であって、「鮒や鯉の世界とは何の関係もない」。
人間の問題は人間自らの手で処理し、「自己社会の不始末」は自分の手で処理して行くしか手はないのだ。すべては自分の手で蒔いたタネである。責任を他へ転嫁する訳にはいかない。
人が死ねば、その意識は無に帰して痕跡をとどめない。シャカ・イエスの霊魂は死ねば忽ち消滅するが、「路上の馬糞は世界と共に悠久である」。生きているうらは自己社会の改善につとめ、死んだら綺麗さっぱり無に帰する。これ以外に人間の生き方はあるか。中江兆民の思想の中核は、こういう単純明快なものである。
中江兆民の逸話のうちで、一番好感か持てるのは次のようなエピソードであった。兆民は自分が開設した「仏学塾」の学生たちと近くの飲み屋にいって談論風発した。学生達は、師匠の兆民を平気で、「中江君」と呼び棄てにし、兆民の方も淡白にこれに応じていたというのだ。
これが明治10年代の話なのだ。師弟間に儒教道徳に基づく厳然たる区別のある時代に、現代においてすら成り立ち難いこういう自由な師弟関係を生み出したのは、中江兆民のパーソナリティの独自構造によるのである。
彼のパーソナリティには、ほかの日本人と何かしら違ったところがあった。彼の対人態度には単純で直截で、妙に乾燥したところがあるのだ。彼は明治の元勲達が、栄達してから重々しい名前に改名するのを皮肉な目で眺めていた。
彼の一人息子の名前は丑年生れなので丑吉、若死した実弟の女児をひき取ってこれにつけた名前は、彼女が申年生れだったので猿吉である。親の願いを子供の名前にこめるという日本の父親の心情はどこにもない。名前は符号でしかない。だから、判り易く覚え易い名前が一番よい名前なのだという合理的な判断があるばかりである。
中江兆民や大杉栄、古くは安藤昌益の思想・行動には特殊なトーンがあり、いつの時代になっても、その時代の人間を古いと感じさせる絶対的な新しさがあるのである。
師弟・親子の間には、この世に出現した時期の先後という違いがあるだけだ。教師が教え、親が育てるのは、当然の世代継承業務であり、そのことをもって特別の恩愛を期待しあういわれはない。
弟子がその師を神のごとく畏敬するのは、実は教師の方でそれを求め強要しているからだ。人間はすべてその他大勢の単位的存在として完全に平等につくられている。これが中江兆民の信じてやまないところであった。
中江兆民の新しさは、畑を全部天地返しするように、自らの全生活を「理」によって鋤き返した人間の新しさなのである。知らぬ間に私達を縛っている習慣的な思考や感情から自由になり、感傷的残滓を容赦なく削ぎ落したあとには、せいせいした単純な世界が残る。
中江兆民は幻想の消滅した清潔な世界に住んでいたのである。同じ人間としてこの地上に生れて来て帝王があったり部落民がいたりする滑稽さ。自身の作り出した約束制度に縛られてフロックコートに威儀を上して登院する高官達の馬鹿さ加減。
中江兆民は、「民主」の主とは王の頭に釘を打つことだという痛烈な都々逸を作り、第一回国会議員選挙には大阪地区の部落民の支持を受けて当選し、議会に登院する時にはドテラを着て出かけた。
私は中江兆民に関する卒業論文を書いている間中、彼の奇人としての騒々しい言説の背後にある魂の地平の静けさを感じ続けた。彼の波瀾にみちた生涯全体を貫ぬき流れている基調音の簡潔さは、その純理的な頭脳が生み出したものであった。