異人深沢七郎
1正宗白鳥や三島由紀夫が深沢七郎を絶賛していることは知っていた.
「楢山節考」が土俗的な味わいを持っていることも理解できた。だが、「楢山節考」が「人生永遠の書として心読すべきもの」(正宗白鳥)と激賞するほどの作品なのか疑問だったし、その土俗的な作家が妙に派手なハワイアン風のシャツなどを着こんでギターを弾いたり、自分の畑に「ラブミー農場」という気取った名前を付けたりするところが腑に落ちなかった。そのうちに深沢七郎は「風流夢譚」を書いて「渦中の人」となった。世間はこれ以後彼を「面妖な異人」と見るようになったが、私の深沢七郎を眺める目も、そうした世俗の立場から一歩も出ていなかったのである。それでも、彼の本を古本屋で見かけたりすると、何冊か買い込んでいた。けれども、それらの本は買ったきりで読むことはなかった。今日まで、彼の作品で私の読んだものは、「楢山節考」だけだったのだ。
十日ほど前に、「耕治人全集」をほぼ読了したので、まとめて書架に移した。その際、深沢七郎の「怠惰の美学」が目についたから、何気なく棚から抜き出して自室にもどり、ベットに寝て読んでみたところ、今度はすらすら読めるのである。
興味を感じたのは、彼が恩人である三島由紀夫を突き放した目で見ていることだった。彼が作家として認められたのは、三島由紀夫の熱烈な推輓があったからなのだ。にもかかわらず、その三島を彼は、「三島センセイのは少年文学だからね」と一蹴しているのである。
それだけではない、深沢七郎はこの本とは別のところで、三島由紀夫を次のようにこき下ろしている。
<三島は、金の茶釜とか剣とか金閣寺が好きなんだ。金閣寺なんか、燃えてよかったよ。炎が美しいとかなんとかいってるけど、火事なんて、普通の火事見たってキレイだよ。オレは、三島由紀夫が死んでショック受けたってより、ケンカ売られたって感じだね、あんなイヤな野郎、世の中にいないね。>
深沢七郎が三島を嫌うのは、その国家主義に対してだった。彼は「怠惰の美学」の冒頭で、「三島センセイとオレの違いは、国家という観念だね。三島センセイは、国というのは国と国とに境があって、それで国防を考えてるわけでしょう。オレなんて、(国と国は)境がない続きだと思ってるから、国防だなんてゼーンゼン考えない」と語っている。
では、国家主義に対抗する彼の哲学は何かと言えば、独我論なのである。深沢七郎はこう公言するのだ。
<オレは自分のことだけしか考えず、自分のためにしか生きていない>
深沢七郎は、郷土愛や愛国心は無論のこと、家族愛や恋愛まで愛と名のつくものはすべて借り物の衣装のようなものだと考えている。人間の原型は、「自分のことしか考えず、自分のためにしか生きていない」ところにあり、その他はあとからくっつけた添加物だというのだ。彼は至るところで深沢式独我論を述べている。
<いつだったか人生相談で、大学入って教養を身につけて本物になりたいなんて、あきれたことをいってきた人がいたけど、人間に本物なんてありゃしないよ。人間は欲だけある動物なんだ>
そういう彼も、さまざまな理論やイデオロギーの影響を受け、何時しか「文化人」面をしたがる誘惑にかられる。そのたびに、彼は借り物を脱ぎ捨てて自己の原点、人間そのものの原型に戻ろうとする。
常に独我論に戻ろうと努める深沢七郎の言説に、エゴイズムの臭いが立ちこめているかというと、それが全く逆なのだ。これが彼の本を一冊読んで得た最大の驚異であり、収穫だった。人間の原点に立ち返った独我論者深沢七郎の主張するところは、ヒューマニストのいうことと同じなのである。
三島由紀夫の国土防衛論に反対して、コスモポリタンの立場から国際協調を説いた深沢七郎は、日本人優秀説もキッパリと否定する。
<オレは人間嫌いっていわれているけど、ほんとういうと、日本人嫌いなんだね。かといって外国人が好きというんじゃないよ。・・・・(日本人優秀説をとなえるやからは)だいたい、精神年齢五、六歳か四、五歳ってとこじゃないのかね。>
彼は平和主義者であり、自衛隊の強化に反対する。そして、反戦論を述べる。
<オレは戦争中は負けりゃいい、負けりゃいいと思っていたね。勝ってりゃ、いつまでも続くんだからね>
彼が政治に求めるのは福祉政策であり、福祉政策に怠慢である点で自民党の長期政権を否定する。
彼はまた、死刑制度に反対し、プロスポーツにも反対する。そして、人間本来の生き方とは、「川の水が流れていくように、何も考えず、何もしないで生きること」だという。
深沢七郎の本を読みながら、私はこの作家はアナーキストだなと思ったり、老子的生き方の実践者だなと思ったりした。つまり、この男は私と同型の人間であり、私の先輩ではないかと思ったのだ。
そこでインターネットの古書店に注文して筑摩書房発行の深沢七郎全集10巻(正しくは、「深沢七郎集」)を手に入れて、まず、エッセー集から読み始めた。
2 深沢七郎著作集10巻のうち、7,8,9,10巻の4冊がエッセー集になっている。これをとびとびに目を通してみると、書かれている内容が次第に変化して行っていることが分かるのだ。エッセー集最初の7巻目を開くてみる。次のような題目が並んでいるのである。
言わなければよかったのに日記
とてもじゃないけど日記
変な人だと言われちゃった日記
言えば恥ずかしいけど日記
これらのエッセーの多くは、中央公論の懸賞小説に応募して入選したあとで、中央公論からの注文に応じて書かれたものである。中学卒業後、いくつもの商店で住み込みの奉公をした経験のある深沢七郎は、恩義ある中央公論へのお礼奉公の気持ちでこれらの文章を寄せたに違いない。
そのためエッセーは、精一杯サービスした内容になっている。彼は自分が文学についても、世間智についても、いかに無知な馬鹿者であるかを面白おかしく語ってみせる。例えば、文壇の長老正宗白鳥を訪問するとき、正宗邸にはきっと池があると思っていたと書くのだ。その理由は、ペンネームが「白鳥」となっているからには、水鳥が好きで屋敷の中に池を掘り白鳥を飼っているはずだというのである。
そして彼は、正宗白鳥と話をしているうちに、相手が清酒会社の跡とり息子ではないかという気がしてきて唐突に尋ねる。
「先生は酒の・・・・、菊正宗の・・・・・」
すると、正宗白鳥は、「ボクはそんな家とは何の関係もないよ」と答える。
深沢七郎は、作家は最後には自殺するものだと思ったり、恋愛ものを書くたびに浮気をするものだと思っていたと告白する。
正宗はこういうふうな馬鹿丸出しの深沢七郎を愛するようになる。そして、彼を自宅に招いて泊めてやったり、外出する際お供に連れて行ったりするようになった。銀座を一緒に歩いているとき、正宗は深沢に、「あそこへ行ったのがツボイサカエだ」と教えてやる。「言わなければよかったのに日記」には、それに続いて以下のような問答があったと記されている。
<「ツボイサカエというのは男ですか? 女ですか?」
ときくと、
「女だ」
と云うのである。(うちにはサカエという甥がいるけど)と思っていると、
「君はナンニモ知らんな、知らんからいいかもしれんな」
と、うまいことを云って下さったので、ついでに、
「いくつぐらいの人ですか?」
ときいた。「いくつぐらいになるかなあ」
と考えてるらしいので、
「”二十四の瞳″を書いた人でしょう、まだ子供でしょう」
と云うと、
「いや、四、五十位になるだろう」
と云うのである。>エッセーを書き始めた頃の深沢は、こんな文章をいたるところで書いたから、気の早い読者は彼を認知症の患者か、精神薄弱者だと錯覚し、深沢七郎を文学の世界における山下清のような存在だと思いこんだ。読者ばかりではない、編集者や批評家の中にもそうした見方をするものがいて、雑誌に自分のことを精薄者とかかれたことがあると深沢自身が書いている。
だが、一方では彼を本性を隠した悪党だと見る者もあった。
彼は文学や文壇について小学生にも劣る知識しか持っていないと宣伝しながら、別の所では、中学二年生の頃に翻訳物の「椿姫」や「マノン・レスコオ」を読んで感動したと書いている。その頃彼は、トルストイの「復活」も読んでいる。中学二年でフランス文学ロシア文学を読んでいるとしたら、文学的に早熟の部類に属する。
それに彼は20歳から32歳頃まで、胸部疾患のため実家でごろごろしていた。実家の印刷屋を継いだ弟は文学青年だったというから、家には文学書がたくさんあったと思われる。暇をもてあましていた彼が、それらを読まなかったはずはない。
上記の壺井栄の話にしても、あらかじめ壺井栄について十分な知識を持っていなければこんなユーモラスな雑文に仕立てることは出来ない。
あれこれ考え合わせてみると、深沢七郎は世に受け入れてもらうために殊更阿呆のふりをしてみせたのである。彼は42歳で懸賞小説に入選して脚光を浴びるまで、定職を持たず、半ば弟に寄食して生きていた。だから、無能な人間が生きて行くにはシタデに出るに限ると考えて、読者の優越感を満足させる戦略に出たのである。
実際彼は、あちこちに自分を売り込むのに必死になっていた。その頃の彼は、知名人の私宅をやたらに訪問している。懸賞小説の選者だった伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫をはじめとして、前述の正宗白鳥や石坂洋次郎・村松梢風・井伏鱒二・深田久弥・吉屋信子などを歴訪し、文壇以外では辰巳柳太郎・高峰秀子の所まで押しかけているのだ。
そんな彼が昭和35年、46歳の時、「風流夢譚」を書いたのである。この作品を彼が一編のユーモア小説のつもりで書いたことは、左翼革命を「左欲革命」と表記したことでも分かる。作品の中には、皇太子・皇太子妃の首がマサカリで切り落とされ、スッテンコロコロと転がる場面がある。
これを読んで激高した17歳の右翼の少年は、中央公論社の嶋中鵬二社長の家に押しかけ夫人に重傷を負わせ家政婦を刺殺するという事件を起こした。Wikipediaは、事件後の深沢についてこう記している。
<この事件の影響で深沢は1965年まで放浪生活を余儀なくされた。深沢自身は嶋中事件で犠牲者が出たことを悔やみ、様々な方面からのの復刊依頼に対しても「未来永劫封印するつもりだ」として応じなかった。事件から22年後の1987年に深沢は死去したが、1997年刊行の『深沢七郎集』(全10巻)にも(「風流夢譚」は)収録されていない。>
事件後に彼は、「流浪の手記」というエッセーを書いている。この文章からは、それまでのエッセーにあった浮かれた調子は影を潜めている。
<あの忌わしい事件──私の小説のために起こつた殺人事件に私は自分の目を疑った。何もかも私の書いた小説の被害ばかりなのである。諧謔小説を書いたつもりなのだが殺人まで起こったのである。そうして私は隠れて暮すようになった。警察では再び事件の起こらないようにと私の身辺の警戒までしてくれた。・・・・・そうして私は都内の某氏の家に身を寄せて、二人の刑事さんと五匹の犬と隠されるように日を送った。
・・・・・私は事件の原因を作った責任者なのだ。私以外の人はみんな被害者で、殺人を起こした少年も私の小説の被害者だと私は思うのである。
それから私は旅に出た。京都、大阪、尾道、広島。東北は裏日本を通って北海道へ来た。目的も、期間もない旅なので汽車に乗ったり、バスに来ったりした。靴はすぐ足が痛くなるので下駄で歩いた。>
「流浪の手記」のなかには、「私は死場所を求めているのかもしれない」という一節が織り込まれていたりして、文章の調子が以前とは全く違っている。こうして彼は、次第にエッセーの中に自らの本音を記すようになるのだ。
3
深沢七郎の本をとびとびに読んでいて感じることは、彼が「下からの人間平等論」を基盤に原稿を書いているらしいことである。これまでの人間平等論がどんな人間も高貴な魂を持っているというような「上からの平等論」だったのに対し、深沢はすべての人間が自分第一主義という利己性を原点にして生きているという立場から人間平等論を展開する。こうして人間を下の方から眺めるリアルな見方をしながら、彼は一見してヒューマニストと取られかねない世界平和論・反戦論・福祉国家論・死刑反対論などを繰り広げる。これは、大変おかしなことに見える。けれども、実はおかしなことでも何でもないのである。
人間は一皮むけば、みんな自分のことしか考えないエゴイストだという見方に立てば、他人の利己的な行動を目にしても腹は立たなくなる。他者に対して寛容になり、おのずと自足した生き方をするようになるのだ。
自分第一主義は、他人との摩擦を回避して平和に生きることを求める。ルソーは、人間をそのようなものと考えて、社会契約論を書いた。彼によれば、人は目の前に食べ物があれば、まず自分が食べようとする、だが、自分が食べてしまえば、残りを他人に分かつのにやぶさかではないという。人間だけではない、すべての生き物がこのように行動する。愛の精神からではなく、無用な争いを避けるためにこうするのだ。
人間本来の利己性には、他を凌いで自分だけ利得を独占しようというような欲求は含まれていない。エネルギーを効率よく使って、なるべく楽をして生きることを求める。──考えてみると、現代の平和主義や福祉国家論も、実はこうした人間の本能的な欲求の上に築かれているのかもしれないのである。
人が本来の利己性に従って行動していれば、上昇欲求などに取り付かれてあたふたすることはなくなる。深沢は、僅かな利得を得ようとしてあくせく稼ぐ代わりに、生活の質を落としてでも気楽に生きようとするのが人間本来の姿だという。
自らのエゴを容認できない「良心的な人間」は、自分の利己心に逆らってさまざまな徳目を案出し、愛の人になろうとする。だが、愛や正義を有り難がるのは、人間の本来性に逆行した不自然な行為なのである。彼はこんな猛烈なことを言っている。
< 悪魔だ、熱病だ!
愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。
異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。>
深沢は、二宮尊徳的勤勉主義に対抗して、ニート的反勤勉主義をとなえ、大正時代的ヒューマニズムに対抗して、土俗的ニヒリズムを持ち出し、人間尊重主義を逆転させて人間滅亡論を打ち出す。では、その論拠となるのは、何なのだろうか。
彼はイデオロギーや宗教、思想と名の付くものをすべて唾棄し、
「考えることとか、思想とか、そういったものがなくなってくることが人類の進歩だと思うね」
と放言する。そして、マリリン・モンローやジェームス・ディーンが魅力的なのは、彼らが馬鹿に見えるからだと強調する。
そうはいいながら、深沢七郎は仏教について深い理解を示している。「人間滅亡的人生案内」のなかで、彼は読者の質問に答えて次のように言う。
<生きることは楽しむことか、努力することかなどと考える必要はありません。なんのために生れてきたのか誰も知らないのです。それは知らなくてもいいのだとお釈迦さまは考えついたのです。
彼は3千年前菩提樹の下で悟りをひらいたと言われていますがその悟りとはそのことなのだと私は思います。此の世はうごいているものなのだ──日や月やがうごいているのだから人間の生も死も人の心の移り変りもうごいているものなのだ、そうして、人間も芋虫もそのうごきの中に生れてきて、死んでいく、そのあいだに生きている──うごいている、誕生も死も生活も無のうごきだという解決なのです。
だから、幸福だとか、退屈だとか、と考えることがいけないのです、否、そんなことは考えなくてもいいことなのです。否、考える必要がないのです、否、幸福だと思うとき、退屈だと思うとき、それは意味のないうごきだからどちらも同じなのです。そんなことは考えなくてもいい、もし、考えても区別したりすることは出来ません、どちらも無という意味のないうごきなのだから。>
深沢七郎は、考えても解決のつかないような問題に頭を使うことは止めて、人間本来の利己性にもとづいて楽に生きよという。人は勝手に人間の序列を考え出して、周囲の人間を金のありなしで差別したり、生まれや地位の良し悪しで判断する。そして、一段でも高いところに上がろうと精魂を使い果たしている。エネルギー収支という観点からいって、これほど愚かなことはない。
彼は、「下宿生活で、用事もなく、外出して、ぶらぶら街を歩いたりして、その日が過ぎて行けば、人の一生はそれでいいのだ」という。
彼の言説は、仏教理論を背景にした深沢七郎式プラグマティズムから来ている。人間、余計な荷物を背負い込まず、生涯独身で過ごすのが一番賢い生き方なのである。けれども、いくら警戒していても好きな異性にであって結婚する羽目になるかもしれない。そしたら、極力子どもを作らないようにすることだ。皆が子供を作らなかったら人類は滅亡すると心配する向きもあるかもしれない。が、地球を毒して来たのは人間なのだから、もし、この世に正義があるとしたら、それは人間が滅亡することなのである。
深沢七郎は、冗談か本気か分からないような、こうした人間滅亡教を掲げて論陣を張る。次に、その放言の数々を「人間滅亡的人生案内」から拾い出してみよう。
4 深沢七郎は、人間滅亡教について、次のように説明している。
<私の人間滅亡というのは個人の滅亡だが、人類滅亡ということにも関係して読者を迷わせた。個人の滅亡というのは家庭を持ったり、就職したりするいばらのみちに生きるよりも、安易気ままに生きようという私だけの生き方なのだ・・・>
彼がこのような生き方を選択したのは、「自分のことしか考えず、自分のためにしか行動しない」おのれ自身のサガを見据え、さらにそれが人類に共通する根深い業であることを痛感したからであった。
しかし彼は自分の利己性を手放しに肯定していたのではない。自分の性癖について深い罪の意識を持っていた。深沢七郎は狭心症の発作に苦しみ、結局心不全のために死ぬのだが、自分の病気について、こう書いている。
<とにかく、私は病気になったのは、なにか、罪人として苦しめられているのだと思った。私は何かの罪のためにいま苦痛を与えられているのだと思った。だから、苦痛は仕方のないことで、避けることは出来ないものだと思った。>
強い罪悪感を持ちながら、歪んだ自分の性格をどうすることもできない。自分だけではない。すべての人間がそうした低次元の性質を持って生まれて来ている。これも宿命なのである。個人の努力ではどうにもならない。こう考えて彼は一種の運命論者になる。
<ふだん私はお医者さんが嫌いで、嫌いというのは適当な言葉ではない。私は病気というものは医学では直らないものだと決めているからだった。病気になるのは宿命でさけられないことなのだ、もし、なおるならそれは自分の身体のなかにそういうちからがある筈である。
自分でなおるちからがないならそれは運命なのだ。なおらない運命をなおすことは、たとえ生きのびても自然ではない。クスリなどは効くとは信じられないのである。とにかく、病気になっても、なおるならそれは自分の身体のなかになおるちからが湧いて来るだろう。それ以外は自然にさからうことなのだ。>
深沢七郎は昭和42年から、「話の特集」誌に「人間滅亡的人生案内」と銘打った人生相談欄を開設している。私はこれを読んでいて何度か笑い出した。相談者にあたえる彼の奇抜な回答は、運命論者としての立場から発せられている。
相談者の素性にも興味があった。深沢七郎に相談を持ちかけるのだから、投稿者には少しずつ変わったところがあるのだ。出色の相談者は、現在保釈中の男だった。
<中学の時、男女の生理的相違に非常な興味を持ち、実際に調べてみたところ、警察という大変に恐いオジさんの居る所に連れていかれ、「強制わいせつ」という題名の原稿を口述で書かされました。
それでも僕の知識欲はとどまるところをしらず、それと前後して三回ほどまたまた恐いオジさんに連れられて、原稿の続編を書くこととあいなったのです。そうして僕の運命を左右する一大事が起きたのは高校一年の時です。>
高校一年にもなると、女の子の生理構造も大体分かったので、次なる実験に着手し、某週刊誌に「少年三人組の強盗強姦事件」と書き立てられたような事件を起こし、少年院に一年三ヶ月ぶち込まれるのだ。
釈放され家出人からフーテンへと移行した男は、自分の生き方に光明をもたらすような一冊の本にぶつかる。
< もう強姦の面白さも僕の興味はひかず、うっとうしい毎日を送っていた僕に手招きしたのはジユネです。『泥棒日記』一冊しか読まなかったのですが、僕はその感激にたえる事はとてもできず、そのふくれあがった魂は、どういう屈折現象を起こしたものか、僕を一流の「ノビ師」にしあげてしまいました。>
60件近くの窃盗を働いて逮捕されて保釈中の男は、長い相談の手紙を、「僕のこの手紙は真実ですが、訴えているのは半分退屈しのぎで、半分もしかしたら・・・・という気分です。お願いします。アドバイスをひとつ」と結んでいる。
これに対する深沢七郎の返答は次のとおり。
<人間滅亡教はボーツとして生きることにあるのです。ところが貴君の過去は妙な虚栄心があるのです。それが盗みをしてしまったのです。貴君は自分では気がつかないかもしれないが盗みは虚栄心です。不愉快なものです。ボーツと生きている人間には嫌な感情なものなのです。
人間滅亡教は何も考えない、ボー然とした楽しさが極意なのです。欲をかいたり、虚栄心から快楽を求めたり、淋しがったり、悲しがったりしないことです。どうか、ボーツと生きて下さい。
尚、男女の生理的相違の興味だとか、強盗強姦とか過去のことですがお手紙の内容だけではよくわかりません。匿名でよいのですから具体的にお知らせ下されば回答致します>
このほか、「小生フェティシストでございます。平たくいうと女性の下着コレクター。この件に関しご相談致したく、筆をとった次第でございます」というようなものや、「私はペシミストでニヒリストでアナキストでオナニストのようです」というものもある。
次の質問には、深沢七郎は丁寧に答えている。
<深沢七郎様
初めまして。こんな人間がいるのかと思わないでぜひお答え下さい。
吉永小百合をこの世の妖精と信じ、政治には無関心で、ニヒリスト、オナニスト、ナルシスト、かつ自分は被害妄想狂だと思い悩んでいる十九歳の老人です。・・・・友達になっても、いつかは裏切られ、あざ笑われると思うとなんとなくしっくりといかない。・・・・先生、助けて下さい。廃人のような私は一体どうしたら人生が楽しくなれますか? それとも、もうだめですか?>
これに対する回答。
<・・・・「友達になっても、いつかは裏切られ、あざ笑われると思う。」なんと不必要なことを考えることでしょう。友達などというものはそれでいいのです。友達というものは花のようなものです。例えば、幼稚園のときの友達、小学校のときの友達、中学、高校、大学の友達、それは、春には春の花が咲き、夏には夏の花が咲くのと同じです。そのとき、そのときの時季、状態で友達はそこにあるから眺めたり、飾りものにするのです。
友達はいつかは裏切るものではなく自分自身が選んだり、捨てたりするものです。友達などというものはそのときどきに自分のために存在するのだからそんなものに負担を感じたり、たよりにしようと思うのは悪いことだと思います。友達は選んだり、捨てられたりするもので、デパートで買うアクセサリーの一種だと思えばいいでしょう。
・・・・「私は生まれてこれと言ったことは何もしていない。いてもいなくても同じなんですね」ということは最高の人生だと思います。なんとなく生れてきたのだから、なんとなく生きていればいいのです。その最高の人生を持っている貴君は最高の幸福なのです。何かこれと言ったことをするような奴は人生からハミ出した奴です。
フーテン、作家、俳優、音楽家、美術家、そんなものはクズの人間です。そんなクズばかりに恐怖感を抱くなんて、妙です。そんなものこそブジョクしていいのです。彼等は病的な神経を隠そうとするか、又は逃避するためにそんなことをしているのです>
もう少し、「人間滅亡的人生案内」を見て行こう。
5
深沢七郎が彼らしい主張を最も鮮明にしている文章は、ニート志望の若者に対する回答だとおもわれる。そこで、まず、この相談者の質問を抜き出してみる。
*
<僕は今18歳です。今年高校を卒業してから現在まで、何もせずフラフラしています。大学へ入る頭も気もサラサラありませんでした。かといって就職する気もまったくなしです。今の僕は何もする気になりません(体は至極健康です)。
僕は以前から人生や日常生活その他全てに本物でありたいと思っています。
本物(抽象的な言い方ですが今の僕の全てです。)になるには大学へ入り教養を身につけ、社会に出て、人間を知らねばだめでしょうか。それとも本物なんて所詮この世の中にはないものなのでしょうか。
何もかもが空しく思え、見えるんです。・・・・こんなことも考えます。僕は現在社会の中に生きている。これは生まれてきた以上どうしようもないことです。そのくせ自分は、その社会を構成する一員にはなりたくないんです。もし僕が生きていることが、すでに社会の一員になっているとしたら、僕はそれに反抗したいんです。
・・・・(「僕の時代」が来るのを待ち望んでいるうちに)いつしか年をとり、小市民的平均的人間になってしまいそうな気がします。本当に僕はどうしたらいいのでしょう>
*
「人間滅亡的人生案内」が雑誌に掲載された昭和42年といえば、まだ日本は高度成長期にあって、ニート志願の高校生などはいなかったと思われがちだが、どんな時代にも、こうした若者はちゃんといたのである。いかなる時代いかなる社会にも、余計者意識をもった若者は一定数存在する。
相談者の若者が現代のニートと違う点は、社会への強い違和感を抱きながら居直ることが出来ないでいるところだろう。この高校卒業生は、進学もせず、就職もしないで、家でフラフラしている自分に後ろめたさを感じ、無為の生活を打ち切って、「本物」の生き方をすべきではないかと迷っている。
深沢七郎は弱気になっている質問者に、真っ向上段から痛棒を加えるのである。
*
<「本物になるには大学へ入り教養を身につけ、社会に出て、人間を知らねばだめでしょうか」とはなんというアキレタ考えでしょう。
人生や日常生活その他全てに本物でありたいと思っているとはなんとアサマシイ考えでしょう。
あなたのいう本物とはなんでしょう。人間には本物なんかありません。
みんなニセモノです。どんな人もズウズウしいくせに、ハズカシイような顔をしているのです。どんな人もゼニが欲しくてたまらないのに欲しくないような顔をしているのです。人間は欲だけある動物です。ホカの動物はそのときだけ間に合っていればいいと思っているのに人間だけはそのときすごせるだけではなく死んだ後も子供や孫に残してやろうなんて考えるので人間は動物の中でも最もアサマシイ、不良な策略なども考える卑劣な、恐ろしい動物です。だから、本物などある筈はありません。
「大学へ入る頭も気もサラサラありませんでした。就職する気もまったくなしです」というのは最も当り前の考えです。誰だってそんなことはしたくないのに他人がするからそうしなければいけないというふうに思い込んで、錯覚でそういう道をすすんでしまうのです。だから何もせずフラフラとしていられるだけはそうしていたほうがいいでしょう。
また、「自分が安っぼい人間に思えて毎日がいやになる」なんてとんでもない考えです。安っぼい人間ならこんな有難いことはありません。安っぼいからあなたは負担の軽いその日その日を送っていられるのです。安っぼい人間になりたくてたまらないのに人間は錯覚で偉くなりたがるのです。
心配なく現在のままでのんびりといて下さい。いちばんおすすめすることは行商などやって放浪すること、お勤めなどしないこと、食べるぶんだけ働いていればのんびりといられます。>
*
すべての人間は自分のことしか考えていないエゴイストなのに、うわべを繕って善人らしい顔をしている。ニセモノしかいない世の中を生きるには、自分を本物のように偽装することをやめ、本来の安っぽい人間に立ち戻って、自分の好きなことだけをして、気楽に生きることだ。
こうした深沢七郎の「下からの人間平等論」は、老子の考え方に似ている。
老子は、才を競い、富や地位を誇りとする世人の生き方を「余食贅行」と呼んでいた。人はすでに十分に足りているのに、食べ過ぎたり、やりすぎたりして自滅するというのである。富とか権勢とかは、通行人の足を束の間止めさせるだけの価値しかないのに、野心的な人間はこれらを必死になって追い求める。得たものに比較して、投入するエネルギーが多すぎるから、人は過労死する。深沢七郎も、人は空疎なものを追い求めて衰弱死すると考えていた。人間には肉体があるだけなのに、精神的なもの知的なものを求めるから精神病になってしまう。老子は足ることを知って生きれば余力を生じる、そしたらそれを世のために注げと説き、エネルギーを最終的に振り向ける場所として「慈」の世界があると言う。が、深沢七郎はエネルギーが余ったらぼーっとしているがいいというのだ。好きなことだけをして、時間が余ったら何もしないでいろというのである。皆が心がけを改めて無為無策でいたら、人間滅亡の時期が早まる。こんなにいいことはない。
この一見暴論にも見える深沢七郎の言説が当時の若い世代に受け入れられ、人間滅亡教の教祖にかつぎ上げられたのは何故だろうか。わが国が、鬱病国家であり過労死国家だからだ。
教育現場では、こんなふうに言われている。生徒が劣等感にとらわれ鬱症状を示すようになるのは本人の達成目標が高すぎるためだから、能力相応の目標を設定するように指導せよ、と。これは生徒に対する教訓だけにとどまらない、教師が鬱になるのも同じ理由からなのだ。
「人間滅亡的人生案内」には、教師からの相談も掲載されている。
<教師の仕事がいやでいやで登校するのが苦痛な日があります。生徒にすまない、教える力がない、自分に向いていない、こんなひとりごとを長い廊下をたどりながら繰り返しています。>
私も教員になった当座は、同じように出勤することを苦痛に感じていた。格別、大きな抱負を持って就職したわけではない癖に、私は無意識のうちに自分の能力レベルを越えた目標を設定していたのだ。だから、実際に教壇に立ってみると、すべてが思うに任せず、落ち込んでしまったのである。
劣等感に襲われ鬱症状になるのは、達成目標が高すぎるためだとしたら、達成目標など持たぬことである。人間はすべてニセモノと考え、自分もろくでなしだと自認し、一切の幻想を捨てて無手勝流で現場に臨めばいいのだ。魅力的な先輩や仲間を見て、劣等感を感じたら、こう考えることだと、深沢七郎はいう。
*
<世の中には演技的行動をしない、地のままの態度をする者があって、それは、とても美しく感じます。だがね、そういう者も演技なのですよ。きわどいところで、美しいところだけ見せているのです。
例えば、「俺はバカなんだ、スケベエなんだ、彼女にふられてしまったよ」などと、平気で言える人は、そもそも、演技のツボを心得ているのです。そういう人だって本当の姿は出せないのです。何故なら、人間という奴は誰でもキジを出せば同じ物だからです。それで、適当に演出をしているのです。
個性だとか、なんとかいうのがそれです。個性とは演出の相違なりです。人間は欲が深く、汚く、食いしん坊で、スケベエです。どんな人間だってそうだから、「あいつはいい奴だ」などと言うのはダマされているのです。>
*
人間のキジは皆同じ。個性差と見えるのも単に演出法の違いに過ぎないとは、なかなかの卓見ではないか。
倫理的な人間は、自らの自己犠牲や献身の度が低いと自責の念に駆られている。そして裏切られると、思わず怒りを感じたりする。だが、よく考えてみれば、それら善意の行為も自分が好きでやったことなのだ。もともと自分の素地は、救いがたい利己性にあったのであり、善行も悪行も同じ趣味性による行動だったと一元化して考えるようになれば気持ちがぐっと楽になる。
深沢七郎の人間滅亡教には、いろいろ問題があって、そのすべてを受け入れることは出来ないが、「下からの人間平等論」には参考になる点が多い。深沢七郎は狷介な性癖の持ち主であるにもかかわらず、必要とあらば知名人の私宅に平気で押しかけたり、北海道を放浪中、道を歩いていてノドが渇けば、見知らぬ民家の勝手口に回って水を無心するようなことをしている。こうした臆面のなさは、深沢式の人間平等論がもたらしたものだ。彼の「理論」には、実践面で効用があるのである。
6 深沢七郎は、「庶民烈伝」の序章のなかで、インテリ青年の言葉だとして自説を語っている。
「庶民以外の階級の者はみんな異常神経の持ち主だ」と。
この青年によると、「ほかの者より以上に金を儲けようとか、ほかの者よりぬきんでた者になろうとするのは、異常神経だよ」ということになる。深沢七郎はこの説を敷衍して、次のように語るのだ。
<つまり、学校などでも、ほかの生徒より勉強して上位の成績をとろうとするものは、みんな異常神経の持主ということになるそうである。実業家が経営を拡大するという考えも異常神経だし、選挙運動などをやって政治家になるのも異常神経だし、太閤秀吉とか中国の漢の高祖などはみんな異常神経だそうである。テレビに出演して大勢の前で唄を歌いたいという考えを起すのも、作家も、映画俳優もスポーツ選手もみんな異常神経の持主だそうである>
このインテリ青年とその父親を相手に、庶民談義を展開していた深沢は、「ではエリート志向の強い異常神経の持ち主は一体どのくらいいるのか」と質問する。すると、青年の父親の方が、十人中一人くらいではないかと答える。「学校なんかで、一クラス50人のうち、優秀な生徒は一番から五番くらいまでだから、異常神経の生徒は五人で、あとはみんな庶民だ」
こういう文章を冒頭に据えた「庶民烈伝」を、高く評価する批評家や学者は少なくない。中沢新一や荒川洋治は全集付録の月報で、わが意を得たりとばかりオマージュを捧げている。
もっと猛烈な賛辞を贈っているのが佐野洋子である。
< 深沢七郎は誰も居ないところに一人で立っている。
多分文壇という集団が固まっているところから遠
くはるかにたった一人で平気で立っている。私は、
彼の小説を読んでいる時、さっととんでいって深沢
七郎のうしろにかくれ、遠くの小説群に向って、
「ざまあ見ろ」という気持だけになって、アッカン
ベーをしたくなる。いや事実している。文壇なんて
私には関係ないのだが、私がアカンベーをしている
のは、多分世間というもの、人間は、食って糞して
寝て唯生きて死ぬということがいかに至難のことか
ということにすっぽり袋をかけて、嘘っぼい飾りを
つけて糞もしない様な面をしている奴等につばをひ
っかけたくなるのである。>
これに続けて、佐野洋子は文壇の作家達が深沢七郎を恐れていると断言するのである。作家らは自分たちが到底表現できないような真実を、深沢がシャアシャアとした顔で書いているからだ。<・・・・だから誰もあ
んまり深沢七郎のことをあれこれ云う偉い人は居な
いのだと私は思っている。
人間は糞たれて食って寝てボコポコ子供を産んで
死んでゆくだけだと思いたくないのだきっと、と私
は思う>
この猛烈な文章も全集の月報に載っているのだが、同じ号の月報に四方田犬彦はマスコミに質問されたときの深沢七郎の破天荒な返答を紹介している。<・・・・戦争を
なくすにはどうすればいいかと聞かれた深沢は、人
口が減れば平和になるといった。皇太子が平民と結
婚したことをどう思うかと尋ねられて、皇室が千何
百年にわたって続けてきた近親結婚のおかげで、今
度はどんな変わった崎形児が生まれるだろうと楽し
みにしてきたのに、今までの期待が水の泡になって
しまったという意味の発言をしている。感傷という
感傷を拒絶した、自然主義的な世界観がここには存
在している。>
しかし深沢七郎は本当に庶民を肯定しているのだろうか。彼は庶民と自分を同一化させ、庶民代表としてインテリをやっつけるというポーズを取っているけれども、これは本音だろうか。
庶民の典型として彼が取り上げた「ギッチョン籠」一家(「笛吹川」に登場)の描き方を見てみよう。
「ギッチョン籠」の数代にわたる歴史は、甲州の武田氏が勃興から滅亡するまでの歴史と深く組み合わされている。この家の子ども達は、郎党として武田軍に加わり、戦死したり、功名をあげたりしている。家族の中には問答無用で打ち首になった男や、嫁ぎ先の一族全員を皆殺しにされた女がいて、ある意味で、武田一族は一家にとって疫病神のような存在だったのである。
婚家の家族を皆殺しにされ、辛くも生き残った女などは、「お屋形様」を深く恨み、武田信玄とその一族を呪うようになっている。しかし武田軍に加わった息子は、家に戻ってきて、お屋形様と共に最後まで戦うと言い張るのだ。もう戦場へは行くなと説得していた父親は、息子が「先祖代々、お屋形様のお世話になってきたのだから、殿様を見捨てることは出来ない」というのを聞いて、開いた口がふさがらない。
<定平もおけいも、お屋形様には先祖代々恨みはあっても恩はないのである。先祖のおじいは殺されたし、女親のミツ一家は皆殺しのようにされてしまい、ノオテンキの半蔵もお屋形様に殺されたようなものである。・・・・(それなのに、息子が)先祖代々お屋形様のお世話になったと言いだしたのであるから惣蔵は気でも違ったのではないかと思った(「笛吹川」)>
引き留める父親の手を振り切って戦場に駆けつけた息子は、奮戦の後に死んでしまう。こうした「ギッチョン籠」の男達の行動を描きながら、深沢七郎は戦争に明け暮れた明治以後の日本の歩みを頭に置いていたのである。「お屋形様」を天皇に、一億玉砕を誓い合った戦時下の日本国民を「お屋形様」の恩に酬いるべきだと言い張る息子に置き換えれば、深沢七郎が現代社会における庶民というものをどう考えていたか明らかになるのではなかろうか。
深沢七郎は庶民と同じ心情で生きていたから、庶民の心理やその生態をまざまざと描き得たのではない。彼はむしろ庶民とは無縁の異邦人の目で日本人を俯瞰的に眺めていたのである。庶民を情緒過剰な日本人的作家の目ではなく、非日本人的なドライでニヒルな目で眺めていたから、あれらのユニークな作品群を生み出すことができたのだ。私は今度、深沢七郎の小説をいくつか読み、この作家には夏目漱石がガリバー旅行記の著者について指摘したような非情な面があると感じた。
深沢七郎の作品には、どれにも滑稽な味わいがある。これも彼が温かなユーモアを持った人間だったからではなく、その逆の人間だったからではなかろうか。
そう思っているうちに、別の月報に次のような文章が載っているのを発見した。この記事を書いた佐藤健という人は、ラブミー農場に通って農作業を手伝ったり、「風流夢譚」事件で右翼から襲撃される危険性のある深沢七郎のボディーガードを買って出た青年で、白菜の漬け物が好きなので深沢から、「ハクサイさん」と呼ばれていた人物だという。彼がニューヨーク大学に留学することになったとき、深沢七郎がアパートに訪ねてきて、彼に餞別を手渡したのだ。以下は、月報の文章。
*
<「これは餞別」と言い封筒を出した。その時はあり
がたく受けとったが、深沢さんが帰ったあと封筒を
あけると「五十五万円」入っていた。当時の五十五
万円は現在の三、四百万円にあたるだろうか。僕は
菖蒲町へ返しに行った。「あのねえハクサイさん。あなたにはすっかりお世
話になった。あなたがニューヨークへ行っているう
ちにオレが死んだら、一生恩返しができなくなる。
そのまま死ぬのはイヤだから、せめてお金でと思い、
うちの貯金を全部おろしてきたんだよ。せめてのお
礼と思ってもらっておいてちょうだい」今度は僕が泣く番であった。>
深沢七郎をガリバー旅行記の著者のような男ではないかと思っていた私の推測は、又しても外れたようである。深沢七郎というのは、全く端倪すべからざる人物である。