女の友情
ロング・ホームルームの時間に生徒の意見を聞いて討論のテーマを選ぼうとすると、よく取り上げられるのが「友情」の問題だ。女子高に入って周囲は女ばかりという事情もあるに違いないが、生徒たちはこの問題に意外なほど大きな関心を払っている。
女の子は、どこに行くにも人々の目を強く意識する。人々から見られることに圧迫を感じるから、一人でいては心の安定が保てない。友だちと一緒にいると、圧力は半減する。実に正確に二分の一になるのだ。仲間の数が多ければ多いほど、圧力は減じ、近くに異性がいると声をそろえて笑って、注意を自分たちの方に引きつけようとさえする。
周囲からの圧力を半減させるために、彼女らは小中学校の頃から、何時も行動を共にする友だちを探してきた。目的が心理的な安定を図るためだから、相手の人柄はあまり気にならない。積極的な性格の生徒が、おとなしい性格の級友とカップルを組むというようなこともよく起きる。この組み合わせは、当初はなかなかうまく行くのだが、時間の経過と共に破綻することが少なくない。積極的な生徒が、おとなしい生徒を足手まといに感じるようになり、消極的な生徒の方も相手の独断専行に反発を感じるようになるからだ。
友人関係が実りあるものになるためには、人間的な総合力において二人が同等であることが求められる。生徒の提出物を読んでいると、友人相互の持つ力の強弱が、その後の友情の質を決めて行くパターンのようなものが分かって興味深い。
女生徒たちは、高校に入学してからも一緒に行動する相手を求める。新しい環境に適応するために、急いで「親友」を探さなければならない。こうして慌ただしく作り上げた友人関係だから、あまり長続きしないのである。
ある調査によると、「親友がいる」と答えた高校生は、男子では学年が進むにつれて増えて行く。
高1(27%) 高2(31%) 高3(47%)
ところが、女生徒は学年が進むにつれて減少して行くのである。
高1(81%) 高2(72%) 高3(52%)
低学年の女子高生が、友情の問題に関心を払う理由は、自らの友人関係が安定していないと感じているからだ。「女の友情」の脆さに愛想を尽かした積極的な生徒は、恋愛の世界に踏み込んでいくが、これも難しい問題を含んでいる。ここには、そんな生徒の手記も採録しておいた。
小学校5,6年の頃、ある友が「あなたは親友よ、だから、いつも仲良くしようね」と話しかけてきて、回りの人たちにも 「この人は。私の親友よ」 と言いふらした。私はその人が嫌いだったが、お人好しだったから、その人の言いなりになっていた。
でも、その人は一年もすると、私から去っていってしまった。私はその時の悲しさ、口惜しさを忘れることが出来ない。その時から、私は友情という言葉を嫌い、友情なんて存在するもんかと考えるようになった。
私は自分の性格から考えて、一生、親友を持てないような気がする。だから、これまで胸襟を開いてつきあってきた友人は一人もいないし、これからも多分いないと思う。私には八方美人の傾向があるのである。
「家に用事がある。それに、帰りが遅くなってしまう。でも、友だちが下校するのを待っていてやらなければ」 ということが、女性の友情における神聖な義務のようになっている。
今考えてみると、一緒に行動しなければ、親友じゃないように考えていた。女子の特徴ではないかと思う。
彼女と別れたときの私は空虚だった。心に穴があいたようだった。その穴を埋めるものはほかにはない。やはり彼女で埋めなくてはならなかった。
だが、今もその穴は埋められていない。でも、私が彼女のことを思っている限り、私のなかに彼女は生きているのだ。
Kさんのすること言うことは何でも正しいと思い、ほんとに後からついていくだけだった。いうならば、子供が母を慕うようだった。
英語などの時間に、彼女が当てられるとどきっとします。
中学に入ったら、小学校時代の親友が「たあいもないことを言い合って笑っている、ただそれだけの関係」と思えてきた。
小5になると、おとなしくて控えめなAさんが段々邪魔になってきて,Bさんと仲良くなった。
小6,友のいう友情が重荷になってきた。理由と言えば、相手が私の真似ばかりしていることであった。
友人の字にはとても特徴があり、活字のような字を書いていたので、私も小学校を卒業するまで活字のような字を書いていた。
私と彼女は、お互いを「ゴミ捨て場」として使っていた。心のゴミ捨て場として。
そのうちに、とてもおとなしい人と友だちになった。自分の思うとおりになる人が欲しかったから。
友人が欲しい。何でも言って、口げんかの出来る友人が欲しい。今の友人は、笑ったり食べたり、お友達という関係の表だけを歩いているような気がする。笑いと怒り、両方がマッチして、本当の友人といえるのではないか。
「友だちになりたいなあと思うような人がいても、今の友だちと別れてまでその人と仲良くなる気はしない」とある友人が言った言葉が妙に頭に残っている。
私は歌が好きだった。その人も歌が好きだった。二人は暇があるとコーラスをした。歌を歌うとき、二人は一緒だった。
何の先入観もなしに知り合い、知らず知らずのうちに友だちになった人が長続きする。どちらか一方が先入観を持って、急速に発展した交際は、きっとどこかで行き詰まる。
友人には二通りのタイプがある。一つは、芸能・スポーツ関係の浮ついた話をする友人、もう一つは自分の性格に合っていて、成績も同じくらいで、くどいくらいに議論する友人である。
シャクに障るくらい、物わかりの悪い「ヤツ」だと思うこともあるけれど、それが結構楽しいのだ。陰で「気取っている」「話づらい」 などと言われている人がこのタイプで、思い切って話しかけてみると面白かったり、すごくいい人だったりする。
だから、陰で悪口を言って、相手に話しかけようとしなかったり、わざと除けたりする人を見ると、一発お見舞いしてやりたくなる。
中学の時、こんなことがあった。
数人の女子が集まっていつものようにお喋りしていると、ある男子のことが話題になった。
「ねえ、A君、この頃B君と一緒じゃないね」
「そうね、今もそうだ。A君、C君たちとプロレスなんかしている」私は絶交でもしたのかと思って、A君に尋ねてみた。そしたら、「どうして何時も一緒にいなけりゃいけないんだ。大体、女子はうるさすぎるぞ」と言われてしまった。
たしかに男子は特定の一人を友人と決めて深くつきあったりしない。一人一人が一匹狼のようで、他の者ともつきあっている。それに比べると、女子は無理して特定の友だちを守っているような気がする。
私にも親しい友が一人いたが、気の疲れる友だった。お互いに相手の気持ちを探りすぎて、思ったことがいえないのだ。
でも、どっちにしろ友情にはお互いの「利益」がつきまとうものだと思う。「利益」がなければ、友情なんて成立しない。人は友情について様々に美しい言葉を並べるが、つきつめれば「利益」が背景にあるのではないか。その「利益」を考える度合いが、女の人は強いんじゃないかと思う。
少しでも仲のよい友だちが出来ると、すぐ、親友だと思った時代がある。女同士の友情の難しさについて考えるようななったのは、高校に入ってからである。
中学時代に親友だと思っていた相手にあっても、話題がない。かえって、あまり親しくなかった人の方が、声をかけやすい。昔の親友に向かって 「あえてうれしい」 という表情を精一杯作っているが、心の中はそうではない。
あんなに仲がよかったのに別々の高校に進んだだけで、互いの心が離れてしまう。二人の間には 「重苦しい沈黙」 が残るだけの関係になってしまうのだ。
小学校5年の時、好きな男の子と並びたくて仕方がなかった。そして、私の願いは叶えられた。席替えがあって、その子と並ぶことになったのだ。私はさもガッカリしたような、泣きそうな顔をして女の友だちに言ったものである。
「ああ、せつない。あんな人と並んじゃって」
小学校6年の頃、私たちのクラスには、男の子のボスがいた。私はこの人が泣くのを、一目でいいから見たかったものだ。ところがある日、彼が肉離れを起こして初めて泣いた。その時は、保健室までついていって、たっぷり見物したものだ。
中学時代、男の子のAと仲良くしていたら、Bがやって来てひやかした。Aは「ヤクな、ヤクな」と応酬する。そこで私も、「そうよ」と相槌を打ってしまった。もう、一巻の終わり。Aは私を冷たい目でにらんで、行ってしまった。
私は、男子ってつくずく難しいと思った。私は中学時代に、計5,6人の男友達を失っている。そうなると、男子と話すのが、だんだん怖くなった。気を遣って話すと、妙に舌がもつれる。彼らの前に出ると、ドキドキする。すると、男の子たちは大喜びで、カバ(私のあだ名)がバカになったとはやし立てる。