一番嫌いだった男子生徒
中学時代の同級生に世界中で一番嫌いだと思っている男子がいた。容貌もまずまず、真面目で勉強好きの優等生だったが、彼のその真面目なところ勤勉なところが私のカンにさわったのだ。
私たちのクラスには特別な秀才はいなくて、ドングリの背比べのようなクラスだった。諸テストの集計などは何時も私が1位で、私が嫌い抜いている男子が2位だった。
私には、いつでもその男子に抜かれる不安があったわけで、それが彼を嫌う理由の一つだったかもしれない。私自身は小さい頃から気分屋で、忍耐力に欠けていて地道な努力をすることが出来なかった。そういう私の短所に、彼の勤勉な性格を重ね合わせて脅かされるような気持になり、反射的に彼をガリ勉のエゴイストだと決め込んでいたわけである。私の嫌悪は、私の嫉妬心の裏返しだったのだ。
中二の夏にはその男子への嫌悪感は最高潮に達し、彼に面と向かって「あんたなんか大嫌い」と言ったりした。
その頃のことだった。
私は生徒会の用事で日曜日に登校し、ついでに自分の教室に寄ってみた。すると、教室には、クラス新聞の編集委員たちが登校して、「校内新聞コンクール」に出品するための仕事をしていた。そのなかに例の男子がいたのである。彼は委員でも何でもなかった。それなのに、級友の仕事を手伝うために、わざわざ登校してきたのだ。彼はガリ勉屋のエゴイストであるどころか、本当は実にすばらしい人だったのである。
私はこの日から、彼を無二の同志と考えるようになった。そして卒業するまで、二人が中心になってクラスの仕事を続けていった。
オースチンの「高慢と偏見」には、ケーシー氏を誤解するエリザベスのことが書いてある。私がもしあの日に学校に行かなかったとしたら、私は今もあの男子のことを誤解していたろうと思う。恐ろしいことだと思う。
私に似た人
私とその人の性格が似ているとみんなは言った。自分でも本当に似ていると思った。その人は、放課後よく遅くまで教室に残って、机や腰掛けを直していた。静まりかえった教室に、金槌の音を響かせて。
あの人も、私と同じように孤独が好きなのに、それがとても寂しかったのだろうと思う。
私のその人に対する感情は段々激しいものになっていった。勉強も手につかないような毎日が続いた。私はそんな気持を、あの人もがんばっているのだから、私もがんばろうという方向に向けようと努力した。
こんな人生が嫌になったとき、生きなければと教えてくれたのもその人かもしれない。
私はもう一度、あの金槌の音のする教室に戻りたい。
友だちと一緒だったから
私が彼女と知り合ったのは、小学校5年の時だった。きっかけはよく覚えていないが、組替えでクラスが同じになり、家も近くだったからだと思う。
その頃は、冒険心が旺盛な年頃だったので、学校の帰りに探偵のまねをしてみたり、口笛を合図に朝早く起きて町の中を歩いたり、田圃の中を駆け回ったりした。
木の穴を郵便ポストにして、紙切れに書いた手紙を交換したり、母の使いに一緒に出かけ買い物をしてちょっと大人になったような気分になったりした。ケンカをして三日も口を聞かないこともあった。
ほんとうにいろいろなことをした。面白そうなことは何でもしたのだ。あの夢の多い時代に、たくさんの楽しい思い出が残っているのは、彼女と一緒だったからこそである。
背伸びした会話
去年の秋の終わり頃だったか、誰もいない教室で友だちと二人だけで話をしたことがある。話したのは「一体、自分は何のために生きているのか」ということだった。背伸びをしたような話し合いで、二人で「何のため?」と繰り返しただけのものだった。
・・・・・二人でポツリポツリと話していたら、急に胸が詰まってきて苦しかった。なんだか悲しくなって涙も浮かんできた。これまで16年ものあいだ、ただ何となく惰性的に生きてきた自分が哀れに思えてきたのだ。
けれど、同じことを考え悩んでいる仲間がそばに座っていると思ったら、気持がとても楽になった。
それっきり、その日のことは互いに口にしないが、誰もいない教室で二人だけで話したことを忘れたことはない。
異性に感じた友情
仲良くしてきた友だちは多いけれど、本当の友人だったなあと思うのは、異性のA君だ。彼とは中学校で同じクラスだった。彼とはしょっちゅう対立したが、だからこそ得るところも大きかった。
早熟な政治少年だった彼は革マル派が好きで、私はその過激な考え方にずいぶん反対したものだ。
そんな彼から相談を持ちかけられtこともある。彼のところに下級生からラブレターが舞い込んだが、母親に見せるわけにもいかず、かといって男生徒にでも見せたら大変な騒ぎになるし、ということで私のところに持ち込まれた相談だった。そのとき、どのような助言を与えたか忘れてしまったが、うまく収まったように覚えている。
よく男女間に友情は成立するかといわれるけれど、それは時期の問題が関係していると思う。もしA君と知り合ったのが高校時代だったら、互いに相手が異性であることを意識しあって、あれほど分け隔てない友情が成立したかどうか疑問だ。
今考えると不思議なくらい恋愛感情はわかなかった。相手を異性と感じる前に、一個の人間として受け取っていたからではないだろうか。
中学校時代に彼から受けた影響は大変大きく、それを表現しようとすればこんな紙では足らないだろう。あの頃、先生に対して不信の念を持ったのも、私にとって彼があまりにも偉大だったからだと思う。A君からは、私が他の誰からも学び得なかったことをたくさん与えられた。本当に感謝している。