演技性人格障害とは

今週の月曜日(6月5日)には、秋田県小一児童殺害事件、村上ファンドのインサイダー事件、和田義彦氏の盗作事件についての報道が立て続けに流れてきて、TVを見ている方でも混乱する程だった。犯罪心理学者の見立てによれば、秋田小一事件の容疑者畠山鈴香は演技性人格障害者だそうである。と言うことになれば、村上ファンド代表の村上世彰も、盗作事件の和田義彦も、すべて演技性人格障害者ということになってしまう。

演技性人格が、当意即妙、環境が替わるごとに異なる演技をする人間だとすると、畠山鈴香はそれとはちょっと違うのではないか。マスコミに応対する彼女の特徴は、表情も、語調も、そして語る内容も、ほとんどブレないということなのだ。態度の易変性より、固着性が見られるのである。彼女は接見した弁護士に、小一児童殺害前後のようすを具体的に語っている。警察当局の弁によると、弁護士に語った内容は取調官に語った内容と、「一字一句も変わっていない」そうである。

記者たちの問いに答えるとき、彼女は伏し目になって、ゆっくりと考えながら話す。その語調はフラットであり、抑揚がほとんどない。彼女はあらかじめ考えておいたことを、まるで暗唱でもするかのように語るのだ。ここに青酸カレー事件の林ますみとの大きな違いがある。彼女は、林ますみよりずっと知的な女なのである。

 畠山鈴香

畠山鈴香という女が、ほかの女性犯罪者と違う点に気づいたのは、時折、彼女の口にする漢語混じりの言葉を聞いたときだった。彼女は実家のまわりにたむろするTV関係者に向かって、「早く、そこから撤収してください」と叫んでいた。「撤収」という新聞用語風の言葉を、男は時々使う。けれども、日常用語として女が使うことはほとんどないのである。ほかにも、彼女は何気なく、「得策ではない」と言ったりするが、これも、あまり女性が口にしない言葉だ。

畠山鈴香は、小中高を通して友達を持たず、一人でいることが多かったといわれる。
友人のいない孤独を埋めるために、女の子は過食して肥ってしまったり、少しも似合わないお洒落に身をやつしたりする。ところが、畠山鈴香は、読書に親しんでいたのである。彼女がほかの女性が使わないような漢語を口にしてしまうのは、活字の世界に深く馴染んでいるからなのだ。習い性となって、彼女は「渦中の人」になっても、事件を伝える週刊誌を山のように買い集めて赤線を引きながら読みふけるようになった。彼女の脇には、読み終えた週刊誌や新聞が山積みになっていたという。

彼女は、あらかじめ考えておいた通りのことを語り、既定路線を一歩も踏み外さない。
記者たちの質問が想定範囲内のことなら、彼女は理路整然と語ることが出来る。だが、任意出頭して取り調べを受け、取調官から想定外の質問を浴びせられたり、発言の矛盾を突かれると、途端にもう対応できなくなってしまう。黙り込んで、体の不調を訴えるのだ。これが演技性人格の女なら、どんな訊問をされようと、変幻自在の返答を駆使して相手を煙に巻くのである。

彼女の発言には矛盾が多いし、まだ明らかになっていないことも少なくない。
彼女は自己破産するほど借財を重ねていたというが、一体金を何に使ったのだろうか。彼女の家にいろいろな男が通ってきたと言う。それらの男たちとの間に金銭の授受はなかったのだろうか。彼女は男に貢いでいたのだろうか、それとも「人助け」のたびに男から金を受け取っていたのだろうか(彩香という娘は、「お母さんは何をしているの」と聞かれると、「人助けをしている」と応えたそうである。これには、思わず笑ってしまった)。娘は男との関係を続けるのに邪魔になるので、母親に殺されたのだろうか。

演技性人格障害という点なら、むしろ村上世彰の方がそれに近いのではあるまいか。
記者会見の席上で、彼は舞台上の芸人がワンマンショウを演じるように派手に振る舞った。大きな目玉をぎょろぎょろさせて、おどけてみたり、と思うと一転して真面目な顔で謝罪したり、集まった記者たちを一刻も飽きさせなかった。

 村上世彰

われわれは、ホリエモンのパフォーマンスを何度も見てきたが、彼の演技は村上代表のそれに遠く及ばない。この演技力に騙されてホリエモンは、村上に兄事するようになったし、オリックスの宮内義彦も創業資金を貸し与える気になったのだろう。

私は今回の村上ファンド事件を見ていて、釈迦が出家する時の挿話を思い出した。
釈迦は、農民が掘り返した土の中に一匹の小さな虫のうごめいているのを見つけた。眺めていると、その虫は、それより一回り大きな虫に食われてしまった。そして、小さな虫を食べた大きな虫も、舞い降りてきた鳥にあっという間に食べられてしまう。これを見て釈迦は、人生の無常を感じ出家を決意したというのだ。

小さな虫はホリエモン、大きな虫は村上代表、舞い降りてきた鳥は宮内義彦なのである。村上代表はホリエモンを利用し、これを食い物にして数十億円稼いだ。そして、宮内義彦は村上代表に百数十億円を稼がせ、村上ファンドの不正が明らかになると電光石火の素早さで資金を引き揚げてしまった。やはり一番のウワテは宮内義彦だったのである。

宮内義彦のレベルになると、小泉首相の盟友になり、紳士然として床の間におさまっていることが出来る。しかし、ホリエモン、村上世彰の段階では、日夜パフォーマンスに励み、お笑い芸人そこのけの演技をして集客に努めなければならない。

盗作疑惑の和田義彦も、演技性人格という点ではなかなかの才能の持ち主らしい。
盗作の被害者になったイタリア人画家は、最後まで和田氏を単なる自分のファンだと思いこんでいたという。

その和田氏も、これだけ事実が明らかになってしまうと、もう演技の余地がなくなる。白を黒と言いくるめる達人も、一点の余地もないほど真っ黒なものを白と言い張ることはできないのだ。

私は今、「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉を思い起こしている。

(06/6/10)


攻撃性への転換

秋田小一殺人事件を取り上げたワイドショウを見ていて、(ああ、これが畠山鈴香の原点だな)と思わせるようなエピソードにぶつかった。

そのエピソードとは、畠山鈴香が小学校の低学年だった頃、食の細かった彼女が食べ残した給食を机の中に隠しておいたというものだ。彼女の行為は、隠しておいた給食が腐敗して教室中に悪臭を発散させたことで露見したが、この話から二つのことが分かるのである。

その第一は、彼女がイヤなものを拒否する好悪のハッキリした少女だったということだ。第二は給食を処分するやり方が投げやりで、慎重な配慮を欠いていたということなのである。以上のことを頭に置いた上で今回の事件について考えてみよう。「イヤなものを拒否する」という点では殺人という行為はその最たるものであるし、殺人を犯す前後の畠山鈴香の行動は、小学生の頃の給食事件を連想させるほどに投げやりで杜撰なのである。

彼女は真っ昼間に児童の遺体をクルマに積み込み、白昼堂々とそれを河畔に捨てている。その犯行が人目に触れる危険性は、フィフティー・フィフティーだったのである。普通の人間ならもう少し頭を働かせるところを、彼女はばれたらばれたときというような居直りに近い気持ちであえてああした行動に出たのだ。

畠山鈴香は小中高を通して居るか居ないか分からないほどおとなしく、イジメにあってもじっと耐えていたと報じられている。しかし、おとなしく見えた彼女の内部には、「イヤなものはイヤ」という頑固な拒否感情がひそんでいたのである。

高校時代のクラス文集には、畠山鈴香を罵る書き込みが並んでいて驚かされた。もし彼女が単なるイジメの被害者に過ぎなかったら、誰もこんな書き込みをするはずはない。クラスメートには、相手をいじめたことに対する後ろめたい感情があるから、追い打ちをかけるような行動を慎むのだ。

だが、畠山鈴香は級友から悪罵を雨霰と浴びせかけられている。これは、彼女がクラス全体を敵にまわしていたことを物語っている。彼女は、なぜクラスの全員から憎まれたのか。考えられることは一つだけだ。彼女は高校に入ってから読書を通して徐々に意識を変革し、クラスメートに対する侮蔑の感情を抱くようになったのである。

彼女は目鼻立ちも悪くはなく、色白だったから、お洒落をすれば人目を引くタイプだった。にもかかわらず、高校時代はしゃれっ気を全然見せず、入浴もろくにしていないような不潔な感じを級友に与えていたという。クラスメートを無視し仲間を否認する彼女の気持ちは、こうしたふてくされた態度にもあらわれているのだ。

クラスメートが頭に来るのは当然かも知れない。高一高二の頃にはバカにしていた畠山鈴香が、高三になったら高姿勢に転じ、クラスの全員をバカにするようになったのだ。しかし彼女は級友による憎悪に満ちた書き込みを黙殺して、高校を卒業すると地元を出て他県に就職した。

彼女の性格は、反転したのである。これまで人目につかないようにおとなしくしていた畠山鈴香が、化粧も衣服も派手好みになり、周囲の注目を集めるようなスタンドプレーを演じるようになった。そして、言葉の端々に攻撃性をあらわにして「あんなやつは死んじまえばいい」と再々放言するようになった。

周囲に対する優位感情を抱くようになった彼女は、年下の男性に好意を示し始める。
彼女は就職先の温泉旅館にアルバイトでやってくる大学生と仲良くなり、年下の男と結婚する。彼女は家族の中では弟を最も愛していたといわれる。

そして、畠山鈴香は社会に対する攻撃性をあらわにするようになった。警察に対する彼女の敵意は、社会全体に対する攻撃性の象徴なのである。彼女は人格転換の事例としても、研究の対象にされるべき存在なのだ。

(06/6/17)

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