ドイツの小説
「朗読者」ベルンハルト・シュリンク(新潮社)
古本屋の棚を漫然と眺めていて目にとまるのは、数シーズン前に評判になったような
本だ。「朗読者」という奇妙な題名を持った本を見たときにも、そうした事情から目
をとめ、金540円を出して購入してきたのだった。だが、注意して書評を読んでいた訳ではなかったから、本の内容についてはまるきし
見当がつかず、題名が風変わりなので、エッセーかも知れないなどと思った程である。家に帰って読み始めたら、これは大変面白い小説で、あっという間に読み終えた。け
れども、疑問も残った。その点について、少し書いてみたい。ストーリーを全部明か
してしまうのは仁義に反するが、もうかなり前に出版された本だから勘弁して貰うことにする。15歳の少年が、道ばたで気持ちが悪くなって嘔吐しているところに、通りかかった
30代半ばの女が介抱してくれる。これがきっかけになって少年とハンナという女は、
体の関係を持つようになる。私は昔読んだ「年上の女」というイギリスの小説を思い
出した(これも当時のベストセラーだった)。「年上の女」は、若者が年長の女性に恋して、若さにまかせってアタックする、はじめ拒んでいた
女も、やがて情熱にほだされて男を受け入れる。だが、男は相手が本気になると、興味を失
って去り、女は絶望して自殺するという筋だった(と思う)。だが、市内電車の車掌をしているハンナは、男に捨てられて自殺するようなヤワな女
ではなかった。少年が買い物のため、眠っている彼女を残して外出すると、帰ってき
た少年の顔をベルトで打つような女なのだ。少年は、「書き置きのメモを残して置い
たじゃないか」と弁解するがハンナは取り合わない(このエピソードが重要な伏線に
なっている)。
なかなか瀟洒な感じの本である
ハンナは病気で長期欠席を続けていた少年が、落第してもいいやと捨て鉢なことを言
たりすると、強く叱ってベットから追い出してしまう。そして「勉強するまで、もう
来てはいけない」と宣告する。お陰で彼は懸命に勉強して進級することが出来た。ハ
ンナは、少年を「坊や」と呼んでいたが、年上の女らしい細やかな愛情も隠していた
のである。ハンナは本を読んで貰うことが好きだった。だから、少年は、さまざまな本を女に読
んでやる。少年はハンナが好きだったが、誰にも彼女のことをうち明けなかった。そ
れを彼は、ハンナへの裏切りと感じる(疑問の1)そのハンナが、突然姿を消してしまう。少年は、必死になってハンナを探すが行方は
杳として分からない。10年ほどして大学の法学部に入った少年は、ゼミの実地研修で裁判所に出かけ、そ
こで被告になって法廷に引き出されているハンナと再会する。ハンナは43歳になっ
ていた。法廷では戦時中、強制収容所でユダヤ人を虐待した女性看守たちが裁かれて
おり、ハンナもその中の一人だったのだ。彼女は、ナチス親衛隊の隊員だったのである。裁判ではハンナは窮地に立たされていた。他の看守たちはハンナに罪をかぶせ、有罪
の証拠になる報告書を書いたのはハンナだと証言する。最初抗弁を試みたハンナは、
結局、自分が問題の報告書を書いたことを認めてしまう。ここで主人公の大学生は、ハンナが文盲であったことに思い当たるのだ。買い物に出
たとき、メモを机上に残しておいたのに、彼女は彼を責め立てた。あれはハンナが文
字を読めなかったからだ。本を読んで貰うことを好んだのも、彼女が自分で読むこと
がかなわなかったからなのだ。大学生は、ハンナが文盲だったことを裁判長に告げに行こうかと思い迷う。が、ハン
ナは字を読めないことをひどく恥じていた。裁判では、自分が文盲だったことを告白
すれば助かったのに、そうしなかった。彼女は文盲であることを人に知られるくらい
なら、終身刑になった方がいいと考えていたのである。ここで、また、思い出すのがルース・レンデルの作品で、その一つに文盲の女を主人
公にしたものがある。彼女は資産家の家政婦に雇われながら、自らの文盲を知られることを恐れて、一家を皆殺しにしてしまうのである。文盲であることを人に知られるのは、
当人にとってはそれくらい大きな恥辱と感じられるのだ。
思い悩んだ末に彼は、裁判長に会いに行く。ハンナが文盲であることを告げるつもり
だったのに、裁判長に面と向かうとそうすることができず、むなしく帰ってきてしま
う(疑問の2)ハンナは無期懲役になって刑務所に入り、大学生は司法修習生になって、同じ修習生
の女性と結婚する。だが、その女と離婚し、その後も、いろいろな女性と交渉するが、
どうしても異性との関係を永続させることが出来ない。彼の内部には、ハンナの思い
出が生きているからだった。
著者
彼は裁判官にならずに、大学に残って学究生活を続ける。そして獄中のハンナにカセ
ットレコーダーと、朗読を吹き込んだテープを郵送してやるようになる。定期的にテープを送り続けて4年たったある日、「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」という習
いたての文字で書いた稚拙な手紙が届く。
彼女は、刑務所内の図書室から、テープに吹き込まれているのと同じ本を借りてきて、
自力で文字を覚えたのだった。テープを巻き戻しては、本と照合するので、カセット
レコーダーが何度も故障し、彼女はその度に機械を修理に出さなければならなかった。字が読めるようになったハンナは、彼からの手紙を待ち望んでいた。だが、彼はテー
プを送り続けるだけで、手紙を書かなかったし、面会にも行かなかった(疑問の3)服役18年後にハンナは、釈放されることになる。彼はハンナのためにアパートを用
意し、仕事口も探して、出所の数日前に面会に出かけた。刑務所の庭にいたハンナは、
期待と喜びで光り輝くようになって彼を迎えた。彼女は彼をひたと凝視する。やがて
ハンナの顔から生気が失せ、疲れたような微笑みが顔に浮かぶ。「大きくなったわね、坊や」
とハンナは言い、それから二人は並んで座って話をはじめる。
彼がハンナに本を読んでいるかと尋ねると、ハンナは彼を見つめて、「朗読してもら
う方がいいわ」と答える。彼はこれからも朗読してあげるよとは言ったが、それはその場限りの口約束で、そのための具体的な打ち合わせをしようとはしなかった。
出所の前日、彼はハンナに電話して、彼女のこれからの生活について色々話した。
すると、ハンナは、「あんたは相変わらず、すごい計画家なのね」と揶揄するように言う。それを聞いて、
彼はむっとする。ハンナは、「怒らないで、坊や」と言って電話を切る。その時にな
って、彼はハンナの声だけは若い頃のままだと気づくのである。ハンナは、次の日、夜が明ける前に首を吊って自殺してしまう。彼女の残した遺書に
は、彼への愛の言葉はなかった。ただ、自分の所持金を彼女と関わりのあった生き残りのユダヤ娘にやってほしいという依頼の言葉があるだけだった(疑問の4)。
さて、この作品は発表後5年間で20の言語に翻訳され、アメリカでは売り上げ200万部のベストセラー
になったという。この作品が、真の愛に気づくのは、それを失ってからだという永遠の悲劇をテーマに
しているから、これほどの歓迎を受けたのだ。
作者はドイツの大学で法律学を講じる教授だという。これまでに3冊のミステリーを
書いていると聞いて、この作品が一分の隙もない論理的な構造をしている理由が理解
できた。
主人公の男はハンナに死なれるまで、彼女への愛が本物であることに気づかなかった
。作品のねらいがそこにあるとしたら、ハンナに死なれるまでの「男の側の不実」を伏線として配置して置く必要がある。
少年時代に彼がハンナのことを隠し通したこと、ハンナが文盲であることを裁判長に
告げなかったこと、刑務所にテープを送るだけで手紙も書かず、面会にも行かなかっ
たことなどが、作者の用意した伏線であった。彼はこういうことをしてきたから、ハン
ナに自殺されてショックを受けたのだ、と著者は言う。私の疑問は、それらが本当に伏線になっているかどうかという問題に関わっている。
少年は、ハンナの存在を人に知られまいとしたことを彼女への裏切りだと感じるのだ
が、相手を大切に思うからこそ、その存在を隠し通すということもあるはずだ。
少年の彼が下手に口外すれば、彼女はつまらぬゴシップの対象にされてしまうのである。ハンナが文盲であることを裁判長に告げなかったのも、正しい行動だったのではないか。
文盲であることを恥じる彼女の気持を尊重して、ハンナの欲するようにしてやること
が、愛する者の義務ではなかろうか。主人公は獄中のハンナに手紙も書かず、面会にも行かなかった理由を次のように述べ
ている。「ハンナとはまさに自由な関係で、お互いに近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは
彼女を訪問したくなかった。実際に距離を置いた状態でのみ、彼女と通じていられる
のだという気がしていた」無期懲役になっている女と、独身で学究生活を送っている男の関係なのだから、これ
でよかったのだという気がする。二人の関係が18年の長きにわたって続いたのも、
手紙を書いたり面会したりする生々しいことを避けて、互いに距離を置いて交渉していたから
ではないか。ここまでのところは、男の行動は間違っていなかった。が、刑務所の庭で60を過ぎ
たハンナに会い、その変わり様に驚いたのはまずかった。愛し合う夫婦や恋人同士は、
相手が皺だらけの老人になっても、その皺だらけの顔の向こうに若かった頃の面影を
見るものなのだ。ハンナは再会した彼に、15の少年の面影を見ていた。彼の方はハンナを即物的に6
0過ぎの老女として見てしまった。彼が若かった頃のハンナを思い出したの
は、電話を通して昔に変わらぬ彼女の声を耳にしたときだったのだ。ハンナは21歳も年下の恋人に、終始、弱みを見せないで来た。相手を子供扱いする
ことで自分を抑制し、二人が暴走することを回避して来た。その彼女も、少年の前から
姿を消すときには、セックスの上で特別のサービスをしてやり、それから彼を追って
自分もプールに出かけ、遠くから少年を見守っている。彼女なりに少年との別れを惜
しんだのである。ハンナが自殺したのは、男に老醜の身を見せたくなかった為だろうか。この点につい
て作者は、別の見方を提示する。獄中のハンナを観察してきた刑務所長に、ハンナの
変化について語らせているのだ。それまでスマートで、身綺麗にしていて、囚人の間
でも人望があったハンナが、数年前から「たくさん食べ始め、めったに身体を洗わな
くなり、肥満して臭うようになった」と言っている。その原因について刑務所長は、ハンナが新しい自分の居場所を見つけたからだという。
彼女は「外見や服装や体臭などが意味を持たなくなる」ような自分一人の孤独な世界
に入り込んで行った、というのである。とすると、再会した男が彼女に失望したとしても、それほどショックを受けなかった
筈だ。ハンナは、子供の頃からずっと孤独だった。彼との関係でもその孤独が癒
されることはなかった。彼と再会して改めて自らの孤独を確認したハンナは、
彼を許し、自分一人の世界に入るために自殺したのだ。彼女は出獄して社会に戻る代わりに、自分一人の安らぎの世界にはいることを選んだのだ。
私が感じた最後の疑問は、彼女が遺書の中にどうして男への別れの言葉を記さなかっ
たかということだ。少年の前から姿を消すときには、ハンナは年上の女らしい優しさ
を見せたではないか。男は自分を突き放すようにして死んでいったハンナの遺志を実現してやる。ハンナが心
にかけていたユダヤ人少女は、今は中年になってニューヨークに住んでいた。男が彼女
のもとに訪れて金を渡すと、相手は戸惑って男に金の使途について相談する。男は答える。
「読み書きを習いたがっている文盲の人のために使うというのはどうでしょうか。
きっと公共の基金とか、団体とか、協会などがあって、募金を受け付けているはずです」
相手も男の提案に賛成し、こうしてハンナの所持金は落ち着くべき場所に落ち着いたのだった。
イタリアの小説
「心のおもむくままに」スザンナ・タマーロ著(草思社)
「朗読者」を読む時もそうだったが、「心のおもむくままに」を読むときにも、題名からして、これはエッセーではないかと思った。しかし、これは小説だった。しかも、5段階評価で「5」を与えたほどの大変上質な小説だったのである(私は自分がつけている「読書日誌」に、読んだ本のすべてに5段階評価で評点を与えることにしている)。
「朗読者」は、いかにもドイツの作家が書いた作品らしく論理的に出来上がっていた。「心のおもむくままに」を書いたのは、イタリアの女流作家で、これも論理的に構成されている。だが、その論理は、形式論理ではなく心情の論理と言った風なものなのだ。
イタリア人の聡明さがなかなか理解されないのには、理由がある。彼らが言語や概念によって考えるのではなく、感覚やイメージによってものを考えるからだ。ダンテは、「地獄編」のなかで、自分の首を切り落として、それを提灯にしてさまよい歩く亡者たちを描いている。彼は、このイメージによって知識人を表現しているのだが、インテリに対するこんなに見事な描写を見たことがない。
この本を読み終わってから奥付を見たら、1995年9月に発行した本が1997年4月には「30刷」になっている。やはり、いい本は着実に売れるのである。この本を、私は古本屋で金100円で手に入れている。これをこそ掘り出し物というべきだろう。
作品は、死期の迫った老女が、アメリカに渡った孫娘にあてて書かれた日記という体裁を取っている。老女は、孫娘の母親が早くに自殺してしまったので、母親代わりに孫を育て上げた。だから、娘にとっては老女は母でもあり、祖母でもあるという関係にあるのだ。孫娘は思春期にはいると、その祖母に対して横柄になり、ついに祖母を捨ててアメリカに渡ってしまう。死期が迫った祖母は、その孫をイタリアに呼び寄せようとはしない。そして、自分が生きているうちに、孫に手紙を読ませようとはしない。祖母は自分の死後に孫が帰郷し、書きためておいた手紙を読んでくれることを期待しているだけなのだ。
祖母には、孫に言わないできたことがたくさんあった。それをそのままにして死んで行けば、孫の心に一種の負債として自分の記憶が残るだろうことを案じて、すべてを語ることにしたのだ。聡明な祖母は、孫が自分に対して冷淡になり、横柄になったのは、ナイーブな心を隠す甲羅のためだと見抜いている。
人は思春期に入る頃から、甲羅によって自分を守るようになる。心に傷を負っている人間ほど硬い甲羅を作って、真の自分を秘匿するようになる。
そして、老女は祖母・母・娘という三代に及ぶ女たちが、互いに本心を隠して傷つけあってきた過去を語りはじめるのだ。そして三代に及ぶ負の遺産を生み出した責任は、世俗と妥協してきた自分にあると告白する。こうした反省に立って、手紙は心の声に従い、心のおもむくままに生きることを勧める孫への助言で終わっている。
祖母は幼女の頃から、喜びの感覚を持っていたのだった。心の核のところに彼女だけの音楽を持っていた。喜びの感覚は、幸福の感覚とは違っているのである。祖母はその違いについて、次のように説明している。
「喜びにくらべたら幸せなんて日中の電灯みたいなものだ。幸せになるには必ずなにかがなくてはいけなくて、それがあるから幸せなのだ。つまり外界に依存した感情なのだよ。喜びにはそんなものはいらない。目に見える理由がなにひとつなくてもわたしたちをつつみ、まるで太陽みたいに、自分自身の核を燃やしながら燃えつづける」
だが、祖母の両親は、「目に見える素材からなる世界」、つまり世俗世界に属するものしか理解できなかった。従って、両親は娘の内部に音楽があるなどとは夢にも想像できず、娘があふれ出る喜びから食事中に歌を歌ったりすると、叱りつけて平手で打った。
喜びの表出を禁じられた少女の心から、音楽がだんだん消えていった。
祖母は、両親の手で修道院の経営する学校に入学させられる。そして大学への進学も許されず、世間並の女になるように上手に調教される。やがて祖母は、結婚したが、喜びに欠けた灰色の夫婦生活をつづけることになる。
半ば死んだような生活を送っていた祖母は、温泉場に逗留しているうちに医師と知り合って愛し合うようになった。この本には、はじめて愛を知った女心が、いきいきと描かれている。温泉場の勤務医である愛人の仕事中、彼女は一人で公園を散歩しながら、(いま、ここで死ねたら最高だ)と考える。幸福の絶頂にあるとき、人は死を願うものなのだ。
その愛人が死んだときに、祖母は生きる力をなくしてしまう。恋愛中の祖母は人々を惹きつけてやまない生気を発散していたが、それは彼女の内部から出ていたのではなく、ただの反射光に過ぎなかった。恋人が発する光を、彼女は単に反射させていただけだったのだ。彼が亡き後、残るのは闇だけだった。
祖母はすでに医師の子を産んでいたが、彼女はその娘にも無関心になってしまう。そして、その娘は成長して大学にはいると、公然と母に反抗するようになるのだ。娘は、当時、熱病のようにヨーロッパを吹き荒れていた学生運動に巻き込まれ、左翼の立場から母を厳しく断罪するようになる。
娘が危なっかしい行動に出るのは、母を心配させるためだった。娘は、母を心配させることを楽しんでいた。
大学を出て左翼運動から離れた娘は、仕事に就くこともなく、ぶらぶらと無為の時を過ごしている。そして、ある年、トルコに出かけた娘は、父親の分からない子を妊娠して故郷に戻ってくるのである。
女の子を出産した娘は、インチキ精神分析医にかかって、不安定な心をますます悪化させる。祖母は言葉を尽くしていさめるが、精神医に対する娘の盲信は変わらず、医者の借金の保証人になって持ち家も失ってしまう。その時になって祖母は、娘が学生運動に打ち込んでいたのも、精神医に心酔していたのも彼女の依存性の現れだったことに気づくのだ。愛する娘の頭は、空っぽだったのである。
祖母は、娘が八つ当たりするように父親を罵るのを聞いているうちに、ふと「お前は、お父さんの子ではないよ」と真実を告げてしまう。生きることに絶望していた娘は、その言葉にショックを受けて家を飛び出し、自動車事故を起こして死んでしまうのだ。
かくて、5歳の孫娘は祖母に引き取られてトリエステの高台にある緑豊かな家で暮らすことになる。孫娘は、自殺した母親とは違って独自の世界を持っていた。犬を飼うことを許されると、三日間犬舎に通って200頭以上の犬の中から一番見栄えのしない犬を選んで来るような女の子だった。
彼女には周囲の言葉に迷わされず、自分が何を望んでいるかハッキリ知っていた。相手がこういう娘なのだから、祖母は孫に何もかもうち明けて話してもいいはずだった。しかし、世間的な配慮が働いて、祖母はそうすることができなかった。祖母は内面の声に従うことができなかったために、以前に娘を失ったと同じように、今度は孫娘を失ってしまうのである。
著者
著者は、両親が離婚したので、子供の頃からトリエステ高台の家に祖母と二人で住んでいたそうである。10代の終わりに、彼女は祖母のもとを去って、ローマに出て、シナリオの勉強を始めている。著者は、この書簡体の小説でトリエステに残してきた祖母への頌歌を記しているのだ。老人の心境や、祖母・母・娘の心理が巧みに描かれているのも、著者の実体験が下敷きになっているからだろう。
読書の喜びを感じさせてくれるような、洞察に満ちた知的な本だった。