二度目の上京

昭和24年、51歳で上京した芳重は、昭和45年に没するまで21年間を東京に留まっている。この期間は、それまでに比べて比較的安定した生活を送っているが、それは彼が東京都の失業対策労務者に登録されて「定職」を得たからであり、また、上京の翌年、文京区根津須賀町の路地裏に倒壊寸前の持ち家を手に入れて、雨露を凌ぐことが出来るようになったからだった。

彼が20年間暮らしたボロ家をテレビで見たときには、思わず目を見張ったものだ。傾きかけた家を十数本の柱や丸太で支えたすさまじい家だったのである。広さ7〜8坪のこの家は、赤錆びたトタンで屋根を覆い、拾い集めた板やトタンで壁を塞ぎ、これ以上はないという陋屋だったのだ。

芳重の持ち家

中にはいると、壁にはミカン箱が積み上げられていて、体を横にしなければ進んで行けない。奥には寝起きするための2メートル四方の空間がある。雨が降ると、しきりに雨漏りがする。そこで、彼は頭上に拡げた傘を取り付け体が濡れるのを防いでいた。

水道や便所が使えないので、彼は早朝人々が目覚めないうちに根津神社境内の公衆便所に急いだ。ここで用を済ませてから、持参してきた溲瓶を空にして洗い、一升瓶に新しい水を充たして帰途につく。

だが、直ぐ家に戻るのではない。隣にある歯科大学付属高等看護学校の寮にまわり、寮庭と炊事場にあるゴミ箱をあさるのだ。そして、まだ使えるノートや鉛筆を仕入れ、食べ残しの食物を掻き集めて家に戻るのである。

出勤途上に東大地下食堂のゴミ箱をあさるのも毎日の仕事だった。テレビのドキュメンタリー番組には、サンドイッチ工場に捨てられているパン屑を拾う芳重の話が紹介されていた。近所の犬もパンの耳を食べに来るので、彼は犬の首輪を掴んで引き戻しながら、パンを拾い集めていたという。

回収してきたパンの耳や食べ物は、陰干しにしてから缶に入れて保存した。衣料を買うこともなかった。拾った衣類や、人から貰った古着を利用するのである。男にしては小柄だった彼は、女性用の衣類を好んで着ていた。公式の席に背広で出席するようなときには、女子高校生の制服を利用し、普段着には婦人用の上着を後ろ前にして着用した。

こうした生活をしていたら、生活費をゼロにまで圧縮できる。失業対策事業から得られる日当がまるまる残るのだ。

失業対策労働者としての彼の仕事は、道路や公園の清掃だった。午前9時に詰め所に集合し、数人の仲間と班を作って仕事に出かける。彼は仲間が掃き集めてきたゴミをリヤカーに積んで運搬する仕事を担当した。昼時になると、詰め所に戻って昼食を取る。この時、彼は詰め所の内部で仲間と一緒に食事をしないで、詰め所の軒先に箱を積んで区画をこしらえ、この彼だけの占有区間にこもって弁当を食べ、本を読んだ。「学者」というのが、仲間内での彼のあだ名だった。

仕事が終わると、神田にある「研数学館」に出かける。これは東大を目指す高校生や浪人が集まる受験予備校で、彼はここに十数年間通い詰めている。その割に成績は特にいいとは言えず、死後、鞄の中から出てきた成績表によれば、彼は16人中の3位だった。

担当の講師は、「宮澤さんの成績は、だんだん下降線をたどるように見えたが、そんなことは意に介せず、熱心に通い続けられた」と語っている。

「研数学館」は午後8時半におわる。彼は教室を出て、4キロの道を歩いてボロ家にもどるのだ。芳重はこうした生活を文字通り10年1日のように続けたのだった。そして僅かな収入のほとんど全額を飯田大学建設費と寄贈用の図書購入費に振り向けた。

彼の人柄については、「一徹無垢」という評価がある半面で、「頑固で、妥協性というようなものの持ち合わせのない一方交通の人」(甥の言葉)という評価がある。実際、彼には言い出したら後に引かない片意地なところがあった。飯田市に郷立総合大学を建設しようとして、彼は時の飯田市長に33通の手紙を送りつけている。はじめ彼の申し出に真剣に対応していた市長も、しまいにはうんざりして彼からの手紙を黙殺するようになる。

その大学というのも実利の追求を度外視して「真理のための真理」を研究するものだった。「学問はそれ自身に価値、従って功を考えるのは学の神聖を冒涜するものである」というのが彼の信念だった。彼は大学を建設する費用は、「飯田、下伊那の人間が3年間酒とタバコを止めれば捻出できる」と言い切っている。これでは、並の人間がついていくのは不可能である。

それでもとにかく地方の有識者を集めて、飯田大学の設立準備会が発足する。彼は以後、この会に宛てて積立基金と運営費を送り続け、その総計は33万円余に達している。昭和30〜40年の時点での33万円は相当な金額である。ほかに飯田図書館には1075冊の本を寄贈しているから、彼は「鶴の恩返し」の物語のように、自分の身を削り、生命をすり減らして送金を続けたのだ。

この間、彼は自身の勉強も怠らなかった。彼が好んだ著作家は、安藤昌益・狩野享吉・植木枝盛・中江兆民・幸田露伴・天野貞祐・寺田寅彦などで、別に家永三郎の教科書検定訴訟にも強い関心を持ち、裁判資料全巻を飯田図書館に送っている。私が宮沢芳重に関心を持つようになったのは、私も彼の好みと重なるような読書上の嗜好を持っているためだった。

我執に近いまでに個我に徹し、そのことでかえって多数者への献身という方向を見いだした彼の生き方を、われわれが模倣することは困難である。いや、不可能と言っていいだろう。しかし彼が愛した思想家や文人の本を読んで、間接的に彼の内面に迫ることは不可能ではない。


NHKテレビの「地蔵になった男」という番組を見て衝撃を受けたのは、私ばかりではなかった。伍井さんという未知の方も、この番組を見て、感動し宮沢芳重のゆかりの地を訪ねておられる。この人は、高校3年のときに番組を見て、実際に地蔵を見に出かけるまでに4年を要している。四年の間、宮沢芳重のことを心に抱きつづけていたのである。宮沢芳重の生涯には、そうさせるだけの何かしら沈痛なものがあるのだ。伍井さんの許しを得て、ここに氏のメールを採録するのは、そのことを知って貰いたいからだ。(05/10/29)


私が芳重さんを知ったのは、1973年1月に放映された
NHKのドキュメンタリー「地蔵になった男」を見たからです。
当時私は高校3年でした。
努力に努力を重ねながらも、最後まで成功することなく終えた宮沢さんの人生に感銘
を受け、それからは、宮沢さんのことが気になり続けていました。
そして、大学4年の夏休みに芳重地蔵を尋ねて飯田へ1泊2日の旅をしました。

当時、宮沢芳重さんに関する知識といっても、
3年7ヶ月前に見たドキュメンタリーの記憶だけ。
どこに芳重地蔵があるのかも分かりません。
そこでまず、「宮沢芳重文庫」のある飯田市立図書館に行きました。
宮沢芳重文庫は、予想よりはるかに少なく、ガラス扉のローッカー1つでした。
鍵をあけてもらって、少しばかり拝見した後、
受付の人に芳重地蔵のことを聞くと
「知りません」と言われびっくりしました。
しかたなく、駅前の観光案内所に行き芳重地蔵のことを聞きましたが、
ここでも「知らない」と言われ信じられませんでした。
たまたま近くにいたタクシーの運転手さんが知っていて、
飯田市ではなく松川町の小学校にあることを教わりました。

翌日、電車、バスを乗り継ぎ無事小学校に着き、
芳重地蔵に会うことができました。
この学校の先生に松下 拡さんのことを聞いて、
勤め先である松川町教育委員会に行きました。
ここで、「人間 宮沢芳重」の本を分けてもらい、
宮沢芳重さんのノートや児童の感想文を見せてもらいました。

失敗に失敗を重ね、周りから「奇人や馬鹿者」とののしられながらも、
努力を続け、最後には成功を収める偉人伝は、いろいろ教わりました。
しかし実際には、宮沢さんのように失敗のまま人生を終える人の方が
はるかに多いんだろうなと考えさせられました。
ドキュメンタリー放映から32年経った今でも飯田市で芳重地蔵を
知っている人は何人いるんでしょうか。

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