3.疎開

昭和19年11月、宮沢芳重は故郷の生家に疎開してきた。だが、そこは彼にとって安住の地ではなかった。父は既に10年前に死去し、末の妹が養子を迎えて家を継いでいた。その実家も、彼が疎開してくる三ヶ月前に取り灰の不始末から焼け落ちていたのである。

それで芳重は、彼の名義になっている山畑「くだり」に堀立小屋を作って住むことにした。小学校時代の級友満男や本家に手伝って貰って建てた小屋は、広さ一坪半、丸太で骨組みを作り、屋根と壁を萱で囲っただけの粗末なものだった。床に枯れ葉を敷いて寝床とし、焚火用の炉は拾ってきた石油缶であった。

新居には小雪のちらつく12月はじめに移ったが、信州の寒さは予想を超えていた。日記には「夜来の風寒く凍り尽くす、防寒無知の日」という文字が見える。いくら丹念に囲った積もりでも、萱の壁を吹き抜けてくる寒風を防ぐすべはなかった。そこで彼は使われなくなっていた水車小屋を買い取って移ることにした。茅葺きの屋根には草が生えていたけれど、水車小屋の壁は板壁で、これなら吹き付ける寒風を凌ぐことが出来る。

水車小屋に引っ越した芳重は、板壁の隙間にぼろ切れを詰め込み、その上を新聞紙で目張りして隙間風を防いだ。土間には空き箱を並べ、板を渡してベットにした。電灯線が来ていないので夜はローソクを使わなければならないが、芳重にとって住まいはこれで十分だった。彼はこの小屋で約4年を過ごすのである。

住居の問題が片づいたら、生計の手段について考えなければならない。彼は山の畑を耕してジャガイモやカボチャを作る傍ら、現金収入を得るために、知り合いの農家に日当で雇われたり、土木作業の人夫に出たりした。持ち山から茸を採ってきて売ることもした。松茸が3.7キロ採れた年もあった。

在京中、生活の中心を学校に通うことに置いていた芳重は、疎開してからは長峰図書館や知人から本を借りて知的な飢えを充たしていた。通学する学校がなくなったことは、ある意味で幸せなことだった。ローソクの灯の下で、一人沈思する時間が増えたからだった。

芳重は乞食のような暮らしをしても平気だった。一人になって数学の問題を解き、哲学書を紐どいていると、理に裏打ちされた万人共通の学問的世界に躍り出ることが出来るからだった。本を開けば、貧しい日常世界から自分を引き抜いて、果てしもなく拡がる広大な普遍的世界に浮上することが出来た。

芳重は水車小屋で敗戦を迎えた。その頃から、芳重は貧しい現実から逃れるために理の世界に逃亡するのではなく、逆に理の世界から現実を俯瞰することが出来るようになった。それまでに読みあさってきた無数の本が、彼の内部で熟成されて独自の思想世界を生み出し、そこから彼は現実世界を眺めるようになったのである。山の尾根から掻き崩して「しばだめ」に積み溜めた落ち葉が、自然に発酵して堆肥になるように、これまでに吸収し蓄積してきた観念と知識が、現実を俯瞰し、現実と対抗できる思想にまで発展したのだった。

安藤昌益の「自然真営道」を、彼は疎開直後に親戚の坂島から借りて読んだ。この本から受けた影響は甚大で、これを機に芳重は安藤昌益の発掘者である狩野享吉にも傾倒するようになった。彼は、鈴木正(狩野享吉の研究者)に研究資金をカンパするまでになっている。

やがて彼は反戦思想を発展させて、世界連邦建設を目指すようになる。彼の思想は、かなり左寄りだったが、「暴力による変革は、暴力によって鎮圧される」と考えて、実際行動に走ることには批判的だった。暴力革命などに訴えなくても、理性に訴えて行けば世界連邦は実現可能なのである。彼の理性への信頼は、それほどに深かった。

こうした思想をバックに、芳重は疎開中に生涯目標を設定している。彼は「我信条格率」として「己の欲する処 之を人に施す」という大原則を掲げ、「生涯に全力を捧げ尽くすべき七ケ事業」を掲げる。

1.生田村小学校統一
2.台城高等学校
3.図書館
4.天文台
5.飯田夏期大学
6.総合飯田大学
7.全人類大学教育常識化期成

身近なところでは、村内の分校をまとめて単一の小学校を作り、村から歩いて通える場所に高校を建設する。図書館や天文台も作る。下伊那地方の中心飯田には、夏期大学と総合大学を建設する。彼は一種の学校国家のようなものを夢見て、これを世界連邦に繋げていこうとしたのである。全人類にとって大学教育を受けることが常識化するようになれば、戦争のない平和な世界が実現する。彼はこの大目標のために生涯を捧げる決意を固めるのだった。

昭和24年5月、宮沢芳重は大きな目標を抱いて、再度、東京に向かった。

<宮沢芳重のふるさとを訪ねる>

宮沢芳重のふるさとは、長野県下伊那郡松川町生田にあり、私の住まいから32キロほど離れている。彼の生地を訪ねてみたいと考えながら、今日までそのままになっていたのは、松川町まで足をのばすことに心理的な抵抗があったからだ。松川町は、行政区分上、下伊那郡に属しているのである。

何しろ伊那地方は長大で、同じ伊那谷にありながら上伊那に暮らす人間には、下伊那というと遠く離れて感じられるのだ。伊那地方を上下二つに切り分け、その一方の下伊那を取ってみても、面積は香川県と同じなのである。バイクで上伊那郡内にある中川村にはしょっちゅう出かけている癖に、これに隣接する松川町に足を踏み入れることがなかった。松川町が、気持の上で余所と感じられるという理由だけで。

しかし、私もこの先何時までもバイクを乗り回せるような年齢ではない。そう思って、ようやく重い腰を上げて宮沢芳重のふるさとに出かけることにした。「人間宮沢芳重」に掲載されている手書きの地図をパソコンのプリンターで印刷して地図ケースに入れ、バイクにまたがって家を出たのが4月28日だった。

幹線道路を使えば大して時間を取らずに松川町まで行くことが出来る。が、ダンプカーやトラックに挟まれてバイクを走らせるのはぞっとしなかった。それで脇道を選んで走り、天竜川の東岸、松川町生田地区にたどり着く。伊那山脈が間近まで押し出してきているので、集落は山裾に帯状に伸びている。

芳重の生家は、麓にはない。山に分け入って、尾根というのか峰というのか、稜線のところまで登らなければならない。下図にあるような谷あいの道を上方に向かって進んで、尾根に出るのである。

山の中腹から、伊那谷を眺める

「長峰」という地名が語るように、尾根まで登ってみると、多少の上り下りはあるものの稜線はほぼ水平の高さを保って長々と続いている。その尾根が谷と谷の間を桟道のように繋いでいるので、稜線があたかも四通八達する回廊のような印象を与える。実際、尾根の上をぐるぐる走っている内に、もと来た場所に戻ってきたりした。

この回廊状の尾根道に沿って、点々と民家が散らばっているのには驚いた。谷の中腹や谷底に家があるのは見慣れている。だが、稜線上に家が点々と並んでいる光景は、これまでに見たことがなかった。第一、谷川は遙か下方にあるのだから、水を汲んでくるのも容易ではあるまい。芳重が分教場に学んでいた頃、悪戯をした生徒は、罰として谷まで下りて水をくんでくるように命じられたが、今はサイフォンを利用して水を尾根までくみ上げている。

Aが民家、Bの下の白線になっているところが通路

尾根の上に危なっかしく乗っかっている家の多くが、自動車を二台持っているらしいことに注意を惹かれた。当日は土曜日で家族が勤めに出ないで家にいたから、各戸、二台のクルマを持っていることが分かったのだ。これも尾根の上に家があるためなのだ。主人が勤めに出るにも、残った家族が町に買い物に出るにも、クルマがなければどうしようもないのだ。

旧生田村は、地区全体が尾根と谷で細かく区分されている。ここに暮らす人々は、子供の頃から細分された地域の支配権を巡って争い、大人になってからも地区ごとの対立感情が激しかったらしい。しかし今では地区の子供たちは尾根のてっぺんにある松川東小学校に通って仲良く勉強している。

「芳重地蔵」は松川東小学校の側にあると本に書いてあったので、小学校の近辺を調べてみた。学童用の小さなプールの向こうに、瘤のように盛り上がった小丘がある。地蔵はあの上にあるかも知れないと思ってそのまわりを一巡してみたけれども、丘に登るための石段も道路も見あたらなかった。とすると、この小丘には地蔵がないかもしれない。そう考えて、方向転換してあちこちバイクを走らせてみた。だが、芳重地蔵は遂に見つからなかった。

二回目に松川町長峰に出かけたのは6月4日だった。地蔵はやはりプールの向こうの小丘にあるはずだと見当をつけて、真っ先に松川東小学校を目指した。松川東小学校、それにしてもえらいところに学校を建てたものである。標高850メートルもある尾根の頂上を平らにならして敷地をこしらえたのである。だから学校を取り巻く舗装路の向こうは、切り立った崖になっている。問題の小丘は、敷地をならすときに削り残した残滓なのである。

手前に小さなプールがある。その向こうが木立に覆われた小丘

今度は丘のまわりを丁寧に見て行く。すると、ちゃんと粗末な標識板が出ていた。この前来たときには、これを見落としてしまったのだ。丘に登るための道は、獣道のように細く、足を踏み滑らしそうだった。

「宮沢芳重地蔵入口」と書かれている

「芳重地蔵」は丘上の南によった方に立っていた。等身大の高さだと思っていたが、地蔵は予想より小さく、身の丈1メートルほどだった。通例、首の回りのつけている赤い「よだれかけ」は定期的に取り替えられるのだけれども、この地蔵のものはすっかり色があせて白くなり、石に貼り付くようになっている。芳重の死後30年、彼の存在は住民から忘れられはじめている。それも、彼にふさわしく思われた。

この次に来るときには、花を持ってきて地蔵に手向けようと考えながら私は丘を下りた。

戻る