宮沢芳重という人
昭和30年頃、新聞の地方版を読んでいたら、篤志家による飯田高校への寄付に関する記事が載っていた。天文台を作る費用に使ってくれと、相当額の金が送られてきたというのである。新聞記事は寄付した人物が匿名だったことにポイントを置き、名前を秘して送金してきた相手の奥ゆかしさを頌える内容になっていた。
それから半年ほどして、また、地方版に飯田高校に匿名の寄付があったという記事が出た。
これは、多分、東京で成功した事業家が母校のために送金してくるのだろうと思った。「成功者」が田舎の出身校に金を贈るというのは、間々あることだったからだ。だが、飯田高校に送金してきたのは裕福な資産家などではなく、無名の労務者だったのである。
後で知ったところによると、高校側は、篤志家が宮沢芳重という労務者であることを最初から承知していたのである。しかし、私がそのことを知ったのは、それから20年近くたってからだった。「地蔵になった男」というNHKのドキュメンタリー番組を見て、あっと驚いたのだ。「あっと驚いた」というのは決して誇張ではない。
寄付者は飯田高校出身の事業家だと思いこんでいたが、当人は飯田高校とは関係のない失業対策労務者であり、しかも彼は、脳卒中の後遺症で右半身が不自由な障害者だったのである。
宮沢芳重肖像
全く驚くべき話だった。日給240円のニコヨンと呼ばれる身で、飯田高校に天文台建設の資金を送り続け、飯田図書館に1075冊もの本を寄贈し、さらに民間の学者にも研究資金を贈っていたのだ。その費用は、生活を極端まで切りつめ、日給のほとんど全部を貯えることで捻出したのだった。そして、彼は死後の体を医学に役立てるため献体登録して、昭和45年11月、72歳で息を引き取っていた。
宮沢芳重の死後、郷里の長野県松川町生田地区の人々は、醵金して彼の名前を冠した地蔵を建てている。
「芳重さは、ひとりぼっちの辻のお地蔵さんのような人だった」
「あれは、てめえのものを、みんな人にくれてしまうお地蔵さんみてえな男だった」
彼についてのこうした記憶が、郷里の人々に「芳重地蔵」を作ることを思い立たせたのである。
しかし宮沢芳重に対する私の印象が大きく変わったのは、テレビ番組を見た3年後に「人間宮沢芳重」という本を読んだからだった。この本には、死を間近に控えた彼がノートに書き残した短い言葉が載っていた。
「人間宮沢芳重・・・その反俗の生涯」下沢勝井・松下拡著(合同出版)1976年刊行
「人間の意味・本性を自覚し、合理生活への自愛・愛他の道義心が浄湧し来る。宇宙間微粒子の配列状態に流れる意識」
「無限進化に大未完、毎日の小完結を要す」
彼は、奇人ではなかった。生まれながらの善意の人でもなかった。自分をむち打って、意志の力で内なる霊性を掘り当てた求道の人だったのである。
施療病院のベットで、癌の痛みに耐えながら、彼は人間の本性に思いをいたす。すると、「自愛・愛他の道義心」が泉のように湧いてくるのを感じる。「自愛・愛他の道義心」とは、自他を含む世界全体に対する愛の心である。彼の内部に浄光とともに大きな愛と道義の心がわき出たのだ。
この身内から滾々とわき出る愛と道義の心を、彼は宗教的なものに結びつけようとはしない。彼は、人間を特別な存在とは考えていない。他の物的存在と同じように、人も宇宙間微粒子の集まりに過ぎないと考えている。微粒子配列が特殊な状態になったので、そこに意識が流れることになっただけなのだ。
微粒子が特定の配列状態になると、その物体に電気が流れるように、微粒子配列の状態がある条件を満たすと、人類愛や道義心、そして「真理のための真理」を追究する欲求が流れはじめる。だから宮沢芳重は自分のしていることを特別な善行とは考えなかった。人間の微粒子が、そのように配列されているから、その必然に従って行動しただけなのである。
彼は、人間を含む宇宙全体を無限の進歩の途上にあると考えていた。だから、人間も宇宙も永遠に未完成なのである。しかし、人は努力して自分の義務を尽くし、その日その日の生活を完結させなければならない。日々の小完結を積み重ねて、大いなる不確定と向かい合う、これが人間の運命だと彼は考えていた。
自己と宇宙に対するこうした透徹した見方を、彼はどのようにして育てたのだろうか。しかも彼は、小学校しか出ていない失業対策労務者なのである。私は宮沢芳重について、もっと多くのことを知りたくなった。
宮沢芳重の生涯
宮沢芳重の生涯は、四つの時期に分かれている。「人間宮沢芳重」に従って、各時期の彼がどのように生きていたか見てみよう。
1.上京するまで(20年間)
2.在京一回目(28年間)
3.疎開期(4年半)
4.在京二回目(21年間)1.上京するまで
明治31年生まれの宮沢芳重が、小学校を卒業したのは明治44年だった。その翌年には年号が大正に変わっているから、小学校を卒業してから、彼は大正デモクラシーの空気を吸って成長したことになる。
小学校時代の彼は、ドモリだったこともあって、口数の少ないおとなしい生徒だったという。何より好きなのは本を読むことだった。小学校を出たら高等科に進むことを熱望していた。だが、「農家の長男に、勉強はいらない」という父の一言で、彼は家に残って百姓仕事をすることになった。
22名の同級生のうち、高等科に進んだのは三分の一の7名に過ぎなかったのだから、息子の願いを拒否した父親をあまり責めることはできない。だが、芳重が、高等科に進めなかったことをどれほど悔しく思っていたかは、次の挿話によって知られる。
近所に高等科に進んだ級友満男の家があった。彼はその家を見下ろす山に登って、力一杯の大声で叫んでいたという。
「いいこんだ、満男さは、学校へいけていいこんだ」
満男が、この泣くような芳重の声を家で聞いたのは、一度や二度ではなかった。満男は、後に芳重が疎開してきて掘立小屋を建てるときに援助の手をさしのべている。
高等科に進めなかった悲しみが、伏流となって彼の生涯を貫き、飯田大学設立の悲願へと繋がっていくのである。
芳重の生家があった生田村長峰というところは、その名前の通り天竜川の間近まで押し出した伊那山脈の長い尾根筋にあった。尾根の両側は、切り立った斜面になっている。農家は谷底にある僅かな水田で米を作り、耕して天に至る山の傾斜面に桑を植えて蚕を飼っていた。持ち山の雑木を切って炭を焼くのも重要な生業の一つだった。
小学校を出て暫くの間、芳重はクヌギ林の落ち葉を山の尾根から下へ掻き崩して家に運び「しばだめ」に積み溜めて堆肥を作ったり、炭焼きの竈を守って火を絶やさないようにしていた。やがて、彼は生田郵便局に勤めて郵便物を集配するようになる。集配人をしていた頃の芳重には、多くのエピソードがある。
本の虫だった彼は、郵便物を配るときにも本を手放さなかった。本を読みながら道を歩いていて、電信柱にぶつかって進めなくなると、そこに立ち止まったまま本を読み続けた・・・
芳重は、時間を惜しんで近道をして歩き、目指す家に着くと、裏口であろうが縁側であろうが、道から一番近いところに郵便を投げ込んで立ち去るのが常だった・・・
彼は、暇さえあれば本を読んでいたが、その本は必ずしもまともなものばかりではなかった。後に彼は、この頃の読書について、苦い調子で、こう書いている。
「最低調文化の俗圧に被作用、無方針に泡沫の心理的現象を肯定し、姑息安価に最貴重の勉強時間を空過し尽くす、人間涙の真とは即此事」
独学の芳重は、文章を書くとき、一人合点の造語や漢字を使用することが多く、この手記にもその痕跡が残っている。だが、若かった頃に通俗本を読みふけり、貴重な勉強時間を空費してしまったという嘆きは、ストレートに伝わってくる。彼が郵便集配人をしていた頃は、大正デモクラシーの機運に乗じて玉石混淆の出版物があふれ出した時代だったのである。
義務教育だけで終わって地元に残った若者が、青年会を組織して自由大学運動を展開したのはこの頃だった。下伊那青年会が提唱した「伊那自由大学設立趣意書」に次のような一節がある。
「民衆が労働しつつ生涯学ぶ民衆大学即ち我々自由大学こそは、教育の本流だと見なければならぬ」
芳重は、皆で金を出し合い、農閑期に中央から学者を呼んで連続講義を受けることを内容とする自由大学運動に積極的にタッチすることはなかったが、その趣旨には大賛成だった。後年の彼の大学設立構想は、この自由大学運動に胚胎している。
通俗読み物に手を出して「最低調文化」のとりこになった芳重は、自由大学運動などに刺激され、本格的な勉強をしたいという焦慮にせめたてられるようになる。そのうちに上京して「哲学と天文学」の勉強をする、これが心に秘めた彼の決意だった。
2.上京
大正7年、徴兵検査に不合格になったのを機に、芳重は上京することを決意し、買い溜めていた本の大部分を青年会支部に寄贈してしまう。そして、単身で東京に出てきた彼は、まず、正則英語学校予科に入学し、5年後にここを終えて、大正12年10月に東京物理学校予科に入学する。
最初の在京期間は、28年間に及んでいるけれども、この28年間は就職と失業のイタチごっこだった。失業していた期間は通算10年になるというから、極めてシビアな生活を続けていたことが分かる。就職しても長続きしなかった理由は、芳重の片意地な性格にもよるが、もう一つは上京後彼が貧困に耐える生活術を編み出したからだった。
「人間宮沢芳重」には、この時期に彼と生活をともにした同居人の話が載っている。この人は、芳重とは見ず知らずの関係にあったが、一時期、6畳間を共同で借りていたのである。当時の芳重は、黒い事務服を着て、度の強そうな眼鏡をかけ、鉢の大きな頭をジャンギリ坊主にしていたそうである。
同居人の目から見て、芳重の日常は驚くべきものだった。彼の主食は食パンの切れ端で、食堂が捨てるのを1貫目(3.7キロ)ずつまとめ買いしてきて食べるのである。これだと、腹一杯食べても、一食2銭くらいにしかならない。
副食は、生野菜と昆布だった。昭和12年7月の日記に、「胡瓜25本を10銭で求む」という記事があり、その一週間後に「本日まで胡瓜で生活」とある。一週間をパン屑と胡瓜だけで暮らしたのだ。昆布も、安く売られている茎の部分を買ってきて、ナマで食べるのである。
寝具は薄い布団一枚で、冬でもこれを海苔巻き寿司のように体に巻き付けて寝る。こういう生活をしていたら、失業してもさほど困ることはない。それまでの貯金で食いつないで行くことが出来るのである。レンズ磨きの職人をしていたスピノーザは、有り金が尽きるまで部屋にこもって思索にふけり、無一文になって初めて仕事に出たといわれる。芳重の生き方にも、スピノーザを思わせるものがあったのである。
芳重はギリギリの生活を続けながら、勉強を怠らなかった。遊びと無為の生活を最大の悪徳と考えていた彼は、繰り返し日記に自分を叱責する言葉を書き連ねている。昭和13年6月の日記に、次の一行がある。
「午後7時から劣欲を学欲へ転換して明朗」
独身の彼は、性関係の写真や猥本をある程度貯えていた。生涯を独身で過ごした宮沢賢治・狩野享吉も、多くの性書を所持し「自家発電」で欲望を処理している。彼らは、格別そうした行為を恥ずべきものとは考えていなかったが、芳重は性欲を敵視し、これを勉強欲に切り替えようとする懸命な努力を怠らなかったのである。
こんな暮らしを続けたら、徴兵検査にもはねられるようなひ弱な彼の体が持つはずがなかった。昭和14年2月、41歳の芳重は、夜学の教室で卒倒する。昼は航空局器材課勤務、夜は代数学修得のため物理学校で聴講中に、脳溢血で倒れたのだ。
病気は癒えたが、芳重の右半身に後遺症が残った。以後彼は、右手を胸のあたりに置き、右足を引きずりながら歩くようになるのだ。子供の頃からのドモリが直っていないところに脳卒中の後遺症が加わり、言語はますます不明瞭になった。ノートを取るにも、右手が使えなくなり、左手で文字を書くようになる。
左手で書かれたノート。きちんとした楷書で書かれている
昭和19年11月、空襲が激化した東京を去って、芳重は故郷の長野県生田村に疎開する。東京での28年間の苦闘は徒労に終わったように見える。彼は哲学・天文学・数学について勉強を続けたが、いずれも中途半端に終わって、ものにならなかった。脳卒中で倒れてからは、勉強も停滞気味で、後退の気配さえ見せ始めていた。
彼は敗残者として故郷に戻ってきた。既に46歳になるのに、定職を持たず、将来何をしようという確たる目標もなかった。しかし、宮沢芳重にとって、在京28年間は将来のための貴重な準備期だったのである。