信濃宮は思い出の地

1ヶ月前に大鹿村に出かけたのに、また、同所に出かけることになったのは、懐旧の念からだった。友人からの便りで、旧制中学校時代の級友数名が連れ立って大鹿村の信濃宮を訪ねたことを知らされたからだった。

実は、私も大鹿村を通過するたびに、信濃宮は何処だろうと考えていたのである。そして、実際、信濃宮に行こうとして道路標識を頼りにそのあたりをさまよったこともあるのだ。だが、その時には、これを探し当てようとする気持がさほど強くなかった上に、後で述べるように二三度の失敗があったので、途中で引き返してしまったのである。

だが、便りによれば、同級生らは東京住まいの身で、誘い合ってわざわざ大鹿村までやって来ている。私も、信濃宮の所在を突き止めたくなった。なにしろ信濃宮は、私どもにとって思い出の地なのだから。

昭和15年になると、皇紀二千六百年に当たるというのでさまざまな奉祝行事が行われた。私たちが学んでいた中学校でも、全校生徒が木造の雨天体操場に集められて「紀元は二千六百年」という奉祝歌を練習させられた。信濃宮も、この奉祝行事の一環として県の手で建設されたのである。

大鹿村大河原は南北朝時代、後醍醐天皇の一子宗良親王が、北朝に対抗して最後まで立てこもった根拠地だったから、紀元二千六百年を記念して、ここに親王を祭る神社を建てようということになったのだ。県の役人たちは、それを若い世代の発意に基づいて、「青少年」自らの手によって完成させることにしようと考えて、県内の小学生以上の学校生徒から醵金させ、中学校の男子生徒を順次動員して工事に当たらせたのである。

やがて私たちの学校に「勤労奉仕」の順番が回って来て、同学年の生徒百名が大鹿村に出かけた。学年にはクラスが二つあり、二人の担任教師に引率されての現地行きだった。飯田線の駅を下り、20キロ近い道を歩いて大河原に向かう。途中、伊那山脈を越えて大鹿村に出なければならない。 カンカン照りの日差しの中、山越えの峠道が、実に長く感じられた。

工事は、麓から50メートルほど登ったところに、山の斜面を削って、平坦な敷地を作ることだった。スコップやツルハシでで崖を削り、その土をリヤカーのようなもので運んで反対側の斜面に落として、平坦面を段々に拡げて行くのだ。百人の生徒が蟻のように崖に取り付いて、営々と一日中働き続けた。

作業が終わると、宿泊所にあてられている麓の集会所に戻る。集会所は河原に面していたから、夕食の準備が出来るまで、この河原に散らばって休むのである。両側に山肌が壁のようにそびえる河原で、仲間たちと語り合った夕暮れの一刻は楽しかった。私たちの青春には、そんなことくらいしか楽しみがなかったのだ。

夕食が済んだ後は、百人の生徒が宿舎の広間に円座を作って座り、声を揃えて「デカンショ」を歌った。大声で合唱して、集会所のまわりの民家を驚かし、併せて世間体を気にする担任教師を脅かしてやろうとしたのだ。

戦争が終わり、「皇紀二千六百年」が笑い話になってからも、あの工事が、その後、どうなったか、私たちが切り開いた敷地の上に神社が建てられたか気になっていた。折りがあったら現地を訪ねてみたいというのは、私ども同級生に共通する思いだったのである。


今日こそ、信濃宮を探し当てようと心に決めてバイクにまたがった。大鹿村に入るにはいろいろな方法があるが、1ヶ月前と同じように駒ヶ根市中沢から分杭峠を経て大鹿村に入るコースを選んだ。

この峠は、昔、高遠藩の国境になっていて、峠の頂上に下図に見るように「従是北 高遠領」という石碑が残っている。

峠にたどり着いたら、狭い頂上に軽乗用車がとまっている。この峠の上で、時々、「気」を感じる目的でクルマをとめている人を見かける。分杭峠は、日本を真っ二つに切断する中央構造線上にポツンと飛び出た突起点だ。この峠には両側から巨大な地核エネルギーがぶつかっており、為に峠には目に見えない「気」が蓄積されているといわれる。

この説を唱えているのが山師のような人物ではなく、電気通信大の名誉教授であることから、この地にやってくる来訪者は後を絶たず、その数は年間1万6千人に及ぶそうである。分杭峠は地質学上日本の中心点であるだけでなく、地理的にもほぼ日本の中心にあるのだ。さしずめ、ここは日本の臍みたいなところかもしれない。日本列島の出臍。

峠を下っていくと、よそではあまり見かけないようなものにぶつかる。私は山村に出かけて、崩れかけた廃屋をいくつも見てきたが、倒壊寸前というような土蔵を見たことがなかった。上図の土蔵のまわりに家屋敷が見あたらないところからすると、家屋が古びて取り払われた後も、この土蔵だけが頑固に生き残ったのかも知れない。更に行くと、ゆっくり回転している水車を見受けた。現役で動いている水車を見るのも、初めてだった。

秋葉街道は左図のような道の連続である

村の中心部に下りるまでは、V字形に切れ込んだ谷底の道を下って行かねばならない。そのV字形の山肌が、所々崩れている。両側から地核の圧力を受ける岩石は、ボロボロに砕かれていて、ちょっとした雨にも崩落する。その崩れ落ちた小石や砂が川に流れ込むから、中央構造線沿いに作られた美和ダム、小渋ダムは流入する砂のため貯水量が年々減少している。

それよりもっと大きな問題は、山が大きく崩れて犠牲者が出ることだ。大鹿村の西岸大西山の崩壊は相当大規模だったらしく、昭和36年の集中豪雨の際に55名の死者を出している。大西公園に立って大西山を見上げてみると、崩落の痕跡が今も生々しく残っている。公園は崩れ落ちた地盤をならして造成されたものなのである。

1ヶ月前に訪れたときには、公園のまわりに植えられた桜が満開だった

公園は二段になって供え餅のような構造をしている。下の段から、上の段に上る斜面には桜草が咲いていて、その向こうに南アルプスの塩見岳が見えた。美しい光景だった。

その上の段には、高さ4,5メートルの大きな観音像が、麓の集落を見下ろすように立っている。台座に「大西観音」という銘板が埋め込まれていた。36災害の犠牲者を弔うために建立されたものである。

塩見岳に焦点を当てて写真を撮っているうちに、手前の山腹に家の屋根が見えた。下図の矢印で示したように、急傾斜の山腹に象嵌されたように家があるのである。こんなところに一軒だけ家があるのは、何故だろう。第一、こんなところでは水道をひくことも出来ないだろうに。

信濃宮が造営された場所も、この一軒家があるような山の中腹部だった。急な斜面に神社をこしらえようと言うのだから、まず、平坦な敷地を作らなければならない。その土木工事に私たちは授業を放棄してかり出されたのだ。

道路標識に従って坂道を上りはじめた。山肌に張り付くように民家が点々と散らばっている。それらの家は、クルマ一台が通れるほどの舗装路に面して建っている。バイクでこの狭い道をたどっていくうちに、数回、住宅の玄関先に出てしまった。道路から個人宅に通じる私道も、公道と同じ幅員で、同じように舗装されている。だから、公道を行くつもりで個人宅の庭先に出てしまうのだ。私道はそこで行き止まりになっているから、回れ右して引き返さなければならない。前回はこれを数回繰り返して、途中で神社を探し当てることを諦めたのだった。

だが、今回は心構えを新たにしてやってきたから、慎重に道路標識の指し示す方向を見極めて進んだ。すると、難なく、目指す信濃宮神社に到着することができた。神社は、深い山林の中に紛れ込むようになっている。初めて訪れたものが道に迷ってしまうのも、無理はない。

信濃宮神社は、いま,神社本庁の所属になっている。敗戦で造営工事は中断され、昭和23年に規模を縮小して完成を見ている。

私たちが作業した頃に比べると、敷地はぐんと拡げられている。あの頃、切り開かれた平坦部分は駆逐艦の甲板程度しかなかったが、今は戦艦の甲板程度に拡張され、そこに本殿、社務所、水飲み場、トイレなどが配置されている。しかし、境内は丈高い木立の覆われて、深閑としている。人影は一つもない。手入れは行き届いているが、忘れ去られ、見捨てられた神社という感じがする。

私は、何となく「夏草やつわものどもの夢のあと」という芭蕉の句を思い出していた。

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