名残の桜

転居する以前は、公園の近くに家があったから、よく「伊那公園」に出かけたものである。しかし、花見シーズンにはいると、散歩する気がしなくなる。何時もひっそりしている段丘上の園内が急に騒々しくなり、様相が一変するからだった。それで、桜の花が散って、公園がもとの静けさを取り戻してから、また、丘に登ることにしていた。

ある年の日曜日、花見シーズンが終わるのを待ちかねて公園に出かけた。
園内の桜は、すっかり花びらを落として赤い萼だけになっている。その桜の下に、一組の老夫婦がゴザを敷いて座っていた。二人はちゃんと重箱持参でやってきて、置物のように静かに座っているのである。

私は何となく間が悪くなって、急いでその横を通り過ぎたが、(年を取るというのは、淋しいことだな)と思った。この老夫婦は花見時の喧噪を避け、時間をずらしてこの公園にやってきたのだ。そして深閑とした公園で、黙りこくって時期遅れの花見をしている。無言で桜の木を見上げている淋しそうな二人を見ると、(この老夫婦は桜を見るのもこれが最後かもしれないと思いながら、ああして座り尽くしているのだろう)と推測した。

さて、今や私も年寄りになり、花見時になると毎年のように桜の古木見物に出かけている。だが、若い頃に想像したように、「この世の名残に」というような気持ちで桜を見に行くのではない。むしろ、若者のような好奇心に駆られて、家を出ていくのだ。老人が盛んに旅行をするのも同じである。この世の見納めに、といった気持ちからではなく、子供のような好奇心から旅に出るのだ。

・・・・ということで、今日もまた昨日の新聞に出ている桜紹介の記事に刺激されて杖突峠にほど近い片倉というところに出かけることとはなった。次に、私をそそのかした記事と写真を紹介する。

    

信濃毎日新聞所収(4月19日付け)

       

午前10時に家を出て、高遠を経由して杖突峠への坂道にかかる。
高遠の桜はとっくに散ってしまったが、それでも他県から乗り込む桜見物のバスが峠を越えてやってくる。それらとすれ違いながら、谷間の道をバイクで上へ上へと登っていく。高みへ進むにつれて、まだ花を残している桜が目に付くようになる。

山際の社の横に、日傘のような形をした桜があった

道路脇から見上げると、今を盛りと桜が咲いている

この道路はこれまでに何度も通っている。が、来るたびに新しい発見がある。道路沿いに廃屋がいくつも目に付く一方で、新築のきれいな家も増えてきている。この新旧の格差が、来るたびに拡大しているのが分かるのだ。私の眼を引きつけるのは、いつでも廃屋の方であるけれど。

      

無人の屋敷−玄関の上の屋根とか、格子戸とか、何となく明治の香りがする

御堂垣外を過ぎたときにバイクの馬力が急に落ちて、速度がゼロに近くなった。近頃、私のおんぼろバイクは、こうした変調に襲われることが多くなっている。むずかる子供をあやすようにバイクを操作しながら、ふと顔を上げると、目の前に目的の桜があった。

             

道路のすぐ下は切り立った崖になっている。左は道路側から、右は崖の下から撮った写真

近くによって調べたら、幹の表皮がはがれて枝の分かれ目に草が生えている。(確かに、相当古い木らしいな)と思って崖の下を見下ろすと、そこにも古い茅葺きの家があった。屋根の葺き替えが遅れて、雨漏りがするらしく屋根の一部がシートで覆ってある。

屋根の左端に見える白い部分がシート。萱が払底しているため、葺き替えは容易ではない

ここまで来たついでに、恒例に従ってバイクであたりを流してみようと考えたが、バイクがこんな調子では何時エンコするかもしれない。時刻も正午を過ぎたし、今日はこのまま帰ることにする。


追記

最後に、天竜河畔の桜並木の写真を載せることにする。自宅対岸の並木が、夕日を受けて光を孕んだように見えたので、河原に下りていって撮ったものだ。

       

右は30分後、日没直前に並木を撮影

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