名文の条件
また、朝日新聞の投書欄に載っていた記事を取り上げる。けれども、今度は内容のことではなく、文章について考えてみるためだ。まず、昨日(12月2日付)の紙面に 「母を介護して悲しくなる私」 と題して載っていた記事を読んでみる。
うつろな目で朝食を終えようとしている母に、「長生きって子供たちに迷惑をかけるよね」と、今日も悪態をついてしまいました。
毎朝起きると、母が汚した洗濯物が山になっています。ゴム手袋で下洗いしながら泣いてしまいました。特別きれい好きだった母がこんなになってしまうなんて、憎いやら情けないやら。明日からしからないと思いながら、つい大声で怒鳴ってしまうのです。
痴ほうという病気のせいと分かっていながらキレてしまう私も私です。寝たきりよりいいか、徘徊されるよりいいか、と自問しながらの介護生活です。しかし今朝の新聞に、痴ほう、アルツハイマーなどは遺伝もするとあるのを見てドキッとしてしまいました。母をいじめて、その罰に今度は私が……。
私が痴ほうにならない保証はどこにも見当たりません。今の私のように、娘も私をののしるのでしょうか。でも、ぼけてしまってからなら何を言われてもいいかなどと、泣いてはれてる目で思ってしまいました。(秋田県 遠藤則子)
私は読み終わってから、これを書いたのは未だそれほど年のいった女性ではないだろうと思った。それで改めて年齢欄に目をやったら秋田県在住の60歳となっている。
そして今日「ひととき」欄を読んでいたら 「車内のハーモニカ」 という投書が載っていた。これを読み終わってから、私は昨日と同じ錯覚に襲われたのだ。今度も、筆者を比較的若い女性ではないかと思ったのに、年齢を見たら60歳となっていたのだ。
ある土曜日の朝、始発電重で発車を待っていた私の前を、手をつないだ60代の男女が通り過ぎました。男性は目が閉じられており全盲のようでした。先導していた女性は奥様かボランテイアかは分かりません。
この分ならあの2人も座れるだろうと安心して、いつもの電車の揺れに身を任せていました。しばらくして、どこからかハーモニカによる聞き慣れたメロディーが流れてきました。乗り合わせた子どもが吹いているのかと、耳を傾けていましたが、独自にアレンジされた吹き方は大人のようでした。
私は座ったまま首をのばして探し、見つけたのでした。その主は先ほどの2人連れの男性でした。控えめにリズムに合わせて女性の歌声も重なつて数曲続き、やがて私も知っている賛美歌に変わりました。私は心の中で一緒に歌いながら安らぐのを感じました。
先に下車する私は朝の一時、このすてきな出あいに感謝して一声かけたくなり、歩み寄りましたが、急にドキドキしてしまい結局言葉をかけることが出来ませんでした。ハーモニカの男性は、目が不自由ですがとても穏やかな表情で、連れの女性も温かい優しい目をしていたのが印象的でした。それにしても、あの時なぜあんなにもドキドキしたのか、いまも分からないのです。(東京都 大野真沙子)「ひととき」欄の記事
私がこの二つの投書の筆者を若い女性だと思い違いしてしまったのは、最初の投書の末尾に目を泣きはらしているという一節があり、次のものには、胸がドキドキして声をかけられなかったという文章があったせいかもしれない。だが、私はこの二つが漢語やカタカナ文字を含まない 「やまと言葉」 で書かれていることから、若い女性の文章ではないかと思い違いしたのである。
若い女性の書く優れた文章は、ほとんどすべて 「やまと言葉」 で書かれている。文章を大別して、漢文脈・欧文脈・和文脈の三つとすれば、和文脈で書かれているのである。
日本人の書く文章にさまざまなスタイルがある。それは、日本文化が吹き溜まりの文化だからだ。ユーラシア大陸のはずれにある島国日本は、流れ着いたいくつもの人種を混ぜ合わせた混合人種国家になり、文化の面でも大陸から流入する多彩な文化を混ぜ合わせた「吹き溜まり文化」の国になった。
和文で書かれた文章が、柔らかで透明な感じを与える理由は、言葉によけいな夾雑物が含まれていないためだ。漢字やカタカナ語には、それぞれ固定観念や出来合いのイメージがくっついている。だから、読者の習慣的な思考に訴えようとすると、威勢のいい漢字やハイカラなカタカナ語をまじえた文章を書くことになる。
やまと言葉で書かれた文章を手書きの水彩画にたとえるとしたら、漢字・カタカナ語を多用した文章は貼り絵のようなものだろう。既成のイメージに依存する語句をごたごた貼り合わせてあるから、色彩はハデハデしい。が、中身は空っぽなのである。使い古された慣用語が多くて、読む側の頭にすらすら入ってくるけれども、後になにも残らないのだ。
政治的な主張をしたり、複雑な理論を構築したりするのには、やまと言葉は適していない。和語は、感情以前の情感を表すのに用いられるからだ。しかし、やまと言葉で説明できるようになって、はじめて理論や学説を理解したといえるのであるし、やまと言葉でものがいえるかどうかで、思考の成熟度がはかられるのである。
ここに掲げた二つの投書は、声高に何かを訴える文章ではない。自分の気持ちをありのままに書きつづったもので、だから筆者は漢字やカタカナ語を必要としなかったのである。そして、やまと言葉で自己の内面を書き表したら、60歳という年齢を感じさせなくなったのだ。やまと言葉で表現される人間の情感には、老若の差がない。情感は、生涯一続きになって人の心を流れている。
名文とは、書き手の情感の層から発して、読むものの情感に訴える文章なのである。その意味では、私がここに書いてきたのは悪文の典型かもしれない。第一、表題からして間違っている。「名文の条件」とするかわりに、「いい文章を書くには、どうしたらよいか」というふうにすべきだったのである。