夫婦関係いろいろ 査問会議に出席するワドル原子力潜水艦艦長は、いつも妻と手を繋いでマスコミの前に姿を現していた。査問会議の席上でも、妻は傍聴席から夫を見守り、艦長は妻に見守られていることを意識しながら被告の席に座っていたに違いない。
こうした光景は、日本では、まず、お目にかかれない。国会の証人席に召喚される汚職議員が、妻と手を握りあってマスコミの前に姿を現したら、物笑いの種になるだろう。だが、ワドル艦長の行動を怪しむものは、アメリカのマスコミは勿論、日本のマスコミにもなかった。
ところ変われば、品変わる。アメリカにおける夫婦関係は、日本とは随分違うらしいのだ。アメリカでは妻の立場がきわめて強く、夫が下手なことをすると、すぐに離婚を切り出されるというような話が、わが国に伝わって来ている。
手を繋いでいる写真を探したが,見あたらなかった こうした印象を助長しているのがハリウッド映画で、「クレイマー・クレイマー」という映画では、妻がいきなり自己実現したいと言って夫と幼い息子を残して家を出て行き、しばらくすると気が変わって息子を引き取りたいと言い張り、抵抗する夫の手から子供を奪い取っている。
日本人の目から奇異に映るこうした夫婦関係を理解するには、彼らが夫婦について思い浮かべるイメージを明らかにすればいい。あちらでは、夫婦とは、ペアを組んでダブルスの試合に臨むテニスの選手みたいなものだと考えているのである。
実際、妻は夫と手を取り合って商売上のパーティーなどに出席するし、場合によれば、夫妻が同席して商談に臨んだりする。アメリカ駐在の日本人会社員は、私宅を訪ねて商談を進めるときなど、相手の妻がその場に同席しているので、心理的に守勢に立ち、2対1でレースをしているような気分になるそうである。
妻は名実ともに自分のペアなのだから、夫は内心で妻の助力を当てにしている。内助の功をあてにしているのではない。はっきり目に見える形で、外助の功を果たしてくれることを期待しているのだ。ワドル艦長は、部下に対しては厳しく独裁的だったと言われる。だが、彼は夫人と手を握りあっていないと、査問会議に出席できないほど妻を頼りにしていたのだった。
夫婦はすべての面でパートナーであり、ペアなのだから、妻は夫が自分に無関心になれば腹を立てるのだ。夫婦は男と女の愛情で結ばれているだけでなく、同盟関係にある者としての忠誠義務によっても結びつけられている。つまり契約関係で結合している。日本人から見れば、アメリカにおける離婚が、ひどく事務的に処理されるように見える。これは、離婚には仕事上の契約を解除するような側面、商売のパートナーを取り替えるような側面があるからなのだ。
これに関連して思い出されるのが、来日した江沢民の妻に対する態度で、彼は妻の手首を鷲掴みにして、押し掛ける取材陣の中を引き回していた。彼はワドル艦長のように妻を頼りにしてはいない。それどころか、妻を自分がリードしてやらなければならない被保護者としてみている。十億を越える中国人のトップに立つには、衆人環視の中、妻の手首を掴んで引きずり回すくらいの押しの強さと迫力がなければ、やっていけないのである。
日本人の夫は、ワドル艦長のようでもないし、江沢民のようでもない。日本の首相も、夫人同伴で外国を訪問することが多いが、夫妻は一定の距離を保ってつかず離れずの関係を保っている。夫人は夫から一歩離れて行動し、夫の仕事には関与しないというポーズを取る。
日本の夫婦は、分業関係にあるのである。妻は夫の仕事に口を出さないし、夫は妻に家政を任せて家事に容喙しない。帰宅した夫が月給をポンと妻に投げ出し、妻から小遣いをもらうという日本の風習は、世界的にみると極めて珍しいらしいという記事を読んだことがある。
夫婦関係は、長期的に見れば、中国式から日本式に移行し、更にアメリカ式に移っていくのかも知れない。男女の学歴が等しくなり、その職業上の能力や教養に差がなくなれば、夫婦の関係は対等になる。そして夫婦は、愛情以外に契約で結びつく面が強くなる。契約関係を基調にした夫婦になるのである。
去年の8月29日、今年の1月12日と、二回にわたってホームページ上の日記で谷敬について書いている。彼について記したいことはまだたくさんあるが、「夫婦関係いろいろ」という点でも、谷夫妻の関係はユニークだったと思うので、今度は、夫婦としての谷夫妻について記しておきたい。
谷夫妻がどのようにして知り合い、どのようにして愛し合うようになったか、その委細を知ることは出来ない。その昔、「ぶうめらんぐの会」という若い詩人たちの集まりがあり、それに所属していた二人が「交換ノート」7冊を介して互いに惹かれ合うようになったらしいと想像するだけである。
二人の新所帯は、四畳半一間のアパートから始まったという。顔と顔を突きあわせるような小さな部屋に暮らしていながら、二人の間で「俗な話題」が取り上げられることはなかった。彼らの日常には、そういうものを載せる皿がなかったのだ。夫妻の双方が、それぞれ独自の哲学を持ち、互いにそれを尊重し合っていると、相手の世界に踏み込むことについては極度に慎重になる。
だから、谷の経営する会社が倒産したときも、谷は妻にその話を一切しなかったし、愚痴をこぼすこともなかった。妻の方も、夫の表情や、夫の漂わす気配から、相手がただならぬ局面に立たされていることを察してはいたが、「タイヘンだね」といたわりの言葉をかけるだけで、具体的なことは何も質問しなかった。
自分の会社がつぶれそうになっても夫はそれについて語らず、妻もそれについて質問しないというような夫婦関係は、世間的な常識の埒外にある。だが、精神的なもので深く結ばれた夫婦にとっては、世間的なものや外形的なものは完全に考慮の外にあるのである。たとえ相手がどんなに貧乏であろうが、どんなに卑しい身分であろうが、そんなことは問題にならないのだ。
更に谷夫妻の間に、確かな黙契が成立していた。各自の仕事は、各自の責任領域に属し、それを家庭生活には持ち込まないという取り決めである。相手の仕事に冷淡だから、そうするのではない。二人は、相手に助力を求めないことで、それぞれの行動の自由が確保されるという冷徹な事実認識を共有していたのである。
献体登録していた谷の葬儀を行わず、香典・供花のたぐいも固く辞退した夫人の態度は大変にいさぎよい。実は、私も死後無葬儀で葬って欲しいと家族に言い残しているけれども、果たしてその通り実行してくれるかどうか疑わしいと思っている(それで、葬式なんかしたら化けて出るぞと「警告」しているのだが)。葬儀をせず、死にからまる世俗的な慣習一切を拒むことは、夫妻の間の合意事項だったと思われる。これをそのまま実行したところに、この夫婦の「独自性」がある。世俗とは一線を画するというのが二人のポリシーであり、夫人はこの姿勢を最後まで貫いたのである。
夫人のしま.ようこさんも献体登録をしている。ということは、この夫妻には将来葬るべき遺体がないということだ。だから、夫人は自分たちのための墓を用意していない。
谷夫妻は、攻守同盟をむすんだアメリカ式の夫婦ではなかった。男性優位の江沢民式夫婦でもなかった。比喩を借りて言えば、二人は手を握り合う夫婦でもなく、見つめ合う夫婦でもなく、肩を並べて同じ方向に歩む同伴者的夫婦だったのである。同伴者というより、いかに生きるか、そしていかに死ぬかについて、完全に志を同じくした同士だったのだ。
谷夫人は「五月・丘」という夫を追悼する詩の中で、夫婦がそれぞれの宇宙を持っていたことを語っている。そして、その後で、次のように述懐する。
<肩書き>という肩凝り薬は溝に捨てた
それでも忍び寄る かすかな肩凝りは
対話の皿に乗せず
苦い汁は
それぞれのカップで飲み干し
雨に打たせ 炎に晒し
それぞれのスプーンで裁き
仙人郷の気配を分け合った
この島の ひもじさの記憶の底で
夫妻が、世間的な問題で対立することはなかった。が、人間であるからには両者の間に不協和音が生まれることも避けがたかった。そういうとき、彼らは不満を相手にぶっつけることをしないで、自分の胸一つに納めて自力で処理した。どうしても処理できないものは、時間の経過に任せて風化させた。かくて二人は、外見上仙人のような淡泊な日常を送ることになったのである。
谷敬は、会社の倒産後、頼まれて玩具メーカーの社史を書いたり、玩具関係のアドバイザーの仕事などをしていた。玩具の展示会が開かれれば、そのコーディネーターになり、死ぬまで玩具業界と縁が切れなかったようである。上掲の写真は、展覧会場で撮ったものと思われる。これを見ると、彼の表情は若い頃の純粋で思い詰めたようなものから、飄々としたものに変わっている。
結婚40年、夫妻の仙人式生活は年を重ねるにつれて、ますます磨きがかかっていった。が、夫の死に直面して、夫人は激しく慟哭する自分に気づく。死別以後、彼女の朝は、「ムンクの叫び」を超えるような悲しみの到来からはじまる。そして、鉛の粒で全身を打たれるような重い気持で一日をおえるようになった。
夫人は、仙境に生きる人間のようにすべての苦難を淡々と受け流していた夫が、実は倒産の苦渋を一人でじっと耐えていたのではないかと考えるようになる。何もかも自分の胸一つに納めて耐えること、それが夫の一生ではなかったか、と感じるようになる。倒産した会社というのはファミリー企業で、ほかの社員は身をかわして難を逃れたのに、谷敬は一人で全責任を背負い込んだのだった。
夫人は夫を追悼する文章を書き、それに、
「耐える強靱さと
ふっと消えるはかなさ」
という題をつけている。そして、その文中で 「今思うと、(倒産の時に)谷敬はわたしにもっとストレートに何か言ってほしかったのではないか」 と自問している。彼女は、夫のあまりに完璧な仙人ぶりにだまされて、自分は牛のように鈍感になっていたのではないかと反省する。
「お互いに『それぞれ(インディペンデント)』でありすぎることは、最後に手をさしのべられない危うさも内に含んでいたのだった。わたしの辛さは、まだ始まったばかりだ」
と夫人は痛恨の手記を書いている。
こういう反省を経過したことで、夫人の人柄には、ある変化が現れたようである。夫人の詩友は、夫と死別したあと彼女の印象が変わったと書いている。「悲しみとやさしさに満ちている」ようになったというのである。
私は、そこに谷敬の姿を見るのだ。死んだ谷は、夫人に寄り添いながら、今も生きている。
夫の死後、夫人は仏壇を設ける代わりに、小卓の上に夫の遺影と遺品を飾り、そこを「谷敬の小宇宙」と呼んで季節の花を手向けている。
「谷敬の小宇宙」に飾られている遺影が上の写真である。