「単純な生活」あとがき


 自宅から百メートルの至近距離に定時制高校がある。これは以前農業高校だったが、それが別の場所に移転したあと定時制の専用校舎になったのである。私は五十代になったある年、自分から希望してこの定時制高校に勤務することになった。序文で触れたように、行詰って放り出してある原稿を昼間の時間を利用して新しく書き直したかったからである。


 定時制に勤めるようになってから、私は朝食を済ませると妻の作っておいた弁当を持って二階にあがり、午后四時半の出勤時刻までほとんど階下に降りなかった。二階には中学一年生の末子と共同で使用している勉強部屋があり、この部屋を仕事場にして著述業の真似事に専念したのである。この一年間の経験で、本を書くということがどういうことなのか、私には大体わかったような気がする。


私の書いたことは見た通りのものであるけれども、これ以外にも「書かれなかったこと」が相当ある。この−年間に私の書いた原稿の量はこの本の倍以上あるが、最終段階でその半分余を切り棄てたのだ。

では、何を基準にして書かれることと書かれないことが選別されるのだろうか。

本を書く時に頭の中にあるのは、
  A・ほゞ解っていること、
  B・解りかけていること、
  C・未だ解らぬこと、
の三つである。「C」については書きようがないから、私は「A」と「B」について書いて行った。そしてこの中から棄てるものと残すものを区分したのだが、棄てられたのは「A」であった。解りかけていることを自分に解らそうと思って努力して書いた原稿には意味があるように感じられ、大体解っていることを書いた原稿には自分であまり価値が感じられなかったからだ。

物を書くという行為は、表自己にある「認知系」を体験野におろして頭から消してしまう作業なのだ。経験を体験に変える努力なのである。だから解っていることについては、私たちは書く必要を認めないのだ。そして更に私の気がついたことは、「B」を思考の正面に押し出して本を書くという難行苦行を敢えてさせたのは「C」にほかならないということであった。

私の念頭から離れないのは、「正法眼蔵」に出てくる「尽十方世界一顆明珠」という言葉だった。本当に世界はこのままで一粒の珠であろうか。私にとって「未だ解らぬこと」の核にあるのは、このことなのである。「解りかけたこと」は「未だ解らぬこと」の裾野の部分にあたるのであり、私たちが「B」を正面においてあれこれ思案するのは、窮極目標として「C」を解明するためなのだ。この点を頭において、棄てられずに残った原稿を眺めてみると、それらは皆、「尽十方世界一顆明珠」に関連した原稿であった。だから、この本の本当の題名は「尽十方世界一顆明珠」なのである。
 
では、「単純な生宿」という題名はどうして出て来たのか。
人の人格は、表自己・裏自己・非自己という同心円形をした三つの層によって形成されていることを述べて来た。この三つの層が、互いに主役の座を争えば「複雑な生活」が出現する。しかし、三つの層が裏自己を中心にして統合されれば、生活は自然に単純なものになる。

私は「到来」を迎えるまでは、こんな風に考えていた、「人生行路の諸段階」は非自己に達することによって完了するのだと。自己が現世を超脱して常に覚醒の中にとゞまっていることが真に生さることだと考えていたのである。ところが到来によって覚醒の奥に大愛大悲のあることが判明すると、覚醒はこれへの玄関口として位置づけられることになった。覚醒と「覚醒者」は、「霜を履んで堅氷至る」(易経)という関係にあるが、霜と堅氷はあくまで別箇の存在だから霜を作り出しておいて堅氷を呼び出す訳にはいかない。人間はいくら努力しても、玄関口を越えてその奥へ進むことはできない。覚醒者は彼がその必要を認めた時にだけ玄関口に出てくるのであって、それ迄はいくら私たちが呼べど叫べど姿をあらわさないのである。

私たちは目に見えないもの、無限なるものを、この目で確かめないと安心しない。だが、極大値とは本来把握不能のものなのだ.玄関口で無方無底の奥底をすかし見て、見えないものを見ようとし、音なき音を聞こうとし、無光のものに光を感じょうとしても効はない。

 現在の私は、覚醒という玄関口が絶対者への入口ではなくて絶対者の出口だと考えている。覚醒は絶対者に至る起点ではなく、向世界を必然とする絶対者が姿をあらわす終点なのである。覚醒は有と無の接点であるけれども、有の所有物ではなく無の所有物なのだ。非自己は自分のものではなく覚醒者のものだと理解し、非自己の世界を覚醒者にあけ渡して自分は裏自己に戻った時に、「単純な生活」が実現する。私たちは「半神」になろうとしないで、一個の「ひと」にとゞまり「ひと」として平凡な日常を生きて行くべきなのだ。表自己は必要な時だけ使用する野営用の天幕と考えて普段は折りたゝんでおけばいいのだ。表自己はエネルギーを取りこんで私愛に変え、この私愛が現代の都市文明を育て、人工照明下の「贅」の生活を生んだ。私たちはこれら私愛の産物を、ニューヨークヘ出て来たカウ・ボーイがニューヨークを傍観するように軽く見て、原初の生活を続ければよいのである。

                                           
 私の現在の課題は、「単純な生活」をどうやって実現して行くかということにある。「真の生産は、祈りの生産である」という生活を作り出したい。知るほどのことは、屋根裏で一生を送っても知り得る。「その居に安んじ、その俗を楽しむ」(老子)という単純な生の中に世界全体を容れて行く方法を思案している。だが、現在の私はその境地からは程遠いところにいる。「単純な生活」という題名は、次への道標を意味しており、私がこれまでに歩んできた道程を意味するのではない。
                    

(昭和五十五年一月)

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