青木家と石田家

外人花嫁や多子大家族をテーマにしたテレビ番組が面白い。


多子大家族番組といえば、青木家を取り上げたものと石田家を取り上げたものが双璧だろう。この両家の父親が対照的な人柄を持ち、その影響を受けて両家の家風といったものが全く正反対になっているところが興味を引くのである。

青木家の父親は、PTAが推薦したくなるような模範的なお父さんに見える。
彼は子供たちに向かって口癖のように「お母さんを恨んじゃいけないよ」とさとしている。その母親は家族を捨てて、ある日、不意に家出してしまったのである。母がいなくなった後で、母親代わりをつとめているのが長女の「あざみ」で、彼女も父に呼応して「お母さんは、やっぱりあざみたちのお母さんだからね」と弟妹に言い聞かせている。

そして青木父は、子供たちを無闇やたらにほめあげるのだ。
クリスマスに子供たちが父への感謝の寄せ書きを手渡すと、彼は目を潤ませて、「こんなにいい子を産んでくれたお母さんに、ありがとうといいたい」と感極まったように独語する。子供がちょっとした心遣いをしただけでも、「いい子たちだ、こんないい子たちはいない。お父さんは幸せだよ」と感謝する。

青木父は、よく子供たちを集めて話をする。そんな時に子供たちは校長先生の話を聞く小学生のように静かに聞き入るのである。人の道を諄々と説き聞かせる父親、その父親を一致協力して助けるけなげな子供たち。まことに感動的な光景である。

しかし──子供たちをほめあげることによって、青木父は子供たちに縛りをかけているように見えるのだ。彼はテレビ局の協力を得て、「団結して難局を乗り切る青木家」というイメージを作り上げ、子供たちがこのイメージから逸脱しないように、それとなく圧力をかけているように見えるのである。

これにくらべると、石田父の方はテレビカメラの前であろうが、何の前であろうが、言いたいことをいうという流儀を押し通している。カメラマンも、何の遠慮もなく夫婦が言葉のバトルを取り交わす喧嘩の場面や、石田父がカメラマンに向かって「おい、俺を写すな」「写すなと言ってるだろ」と叱りつける場面を撮影する。青木父が離婚した妻や子供たちをほめあげるとき、石田父は妻に「できの悪い子ばっかり、ぞろぞろ産みゃがって」と悪態をつき、子供たちにも人格無視の叱責をポンポン投げつけるのだ。

青木家のセールスポイントが「一致団結する家族」なら、石田家のセールスポイントは「自由奔放な家族」である。事実、青木家の子供たちは事あるごとに結束ぶりを見せるが、石田家の方はてんでばらばら、三人集まればたちまちプロレスごっこをはじめ、室内で傍若無人に暴れ回る。

小さな子供らは、親が注意しても何処吹く風と聞き流し、高校生の娘は石田父がじっくり話し合おうと自室で飲み物を用意して待っていても、やってきた娘は父の言葉を一言二言聞いただけで、「もう、いいでしょ」とコップだけを手に部屋を出て行ってしまう。

青木家を取り上げたテレビ局は、完全無欠に見えるこの家族にも、いろいろ問題があることを小出しに出して視聴率を稼いでいる。家族の面倒を見るために定時制高校に進んだ筈の長女あざみが、突如妊娠して子供を出産したり、そのあざみが幼児期から施設に預けられて、親元に引き取られたのは比較的最近のことに属するというような事実を少しずつ明らかにする。

ところが週刊誌は「青木家の秘話」と題して、次から次にもっと驚くような話を暴露するのである。青木父が妻に逃げられたのは、今度がはじめてではなかった。最初に結婚した妻も数人の子供を産んだあとで、家を出て行っている(その子供たちは、どうやら母と一緒に暮らしているらしい)。

そして二度目の妻が生んだ子供も、最初に生まれたのはあざみではなく、その上に別に長女のいることが暴露される。そして、次女のあざみが中学生の時にも妊娠して子供を産んでいることを明らかにする。青木家のスターである父親とあざみに不利な話が続々と出てくるのだ。

極めつけは、青木父が子供に暴力を振るっていることなのだ。父親に殴られたあざみが、タクシーに乗って警察に逃げ込んできたことは警察側でも認めている。子供たちを集めて、諄々と人の道を説いている青木父からは、想像もできないような話なのである。

アパートの住人たちも、いろいろ青木家に抗議したいことがあるけれども、青木父が怖いので何も言えないでいるという。青木父は、どうも右翼らしいのである。青木家の子供たちが、父親の前で猫のようにおとなしくしているのは、父に折檻されることを恐れているためでもあるらしい。

青木家の内情を最もよく知るのは、別れた二人の妻である。だが、不思議なことにテレビ局は、元妻が青木家の子供たちに再会する段取りなどをつけてやりながら、彼女がどうして子供たちを残して家出したのか、その理由を問い糺そうとしないのだ(もっとも、彼女等が別れた夫に恐怖感を持っているとしたら、問われても沈黙を守るかも知れない)。青木家には、まだまだ、たくさんの秘密があるような感じだが、テレビ局はそれらに目をつぶって「感動的なエピソード」だけを延々と流し続けるのだ。これでは報道番組としての役割を放棄していることにならないだろうか。

私は別に青木父が、自家の恥部を隠そうとしていることを非難しているのではない。どんなに模範的に見える家でも、世間に知られたくない秘事の一つや二つを隠しているからだ。私が問題にしたいのは、子供たちに朝夕訓話をする親の心理についてなのだ。

森鴎外の母峰子は、目から鼻へ抜けるような怜悧な女で、しかも家付き娘だった。
だから、養子の夫を完全に尻に敷いて、思うままに家を切り回していた。彼女は、食事時には決まって新聞で読んだ美談や人から聞いた「感心な話」を披露して、子供たちを「善導」しようとした。この慣例は子供たちが大人になっても続き、さらに孫が出来てからも続いた。

鴎外の二度目の妻しげは、姑のこの話が我慢ならなかった。しげの育った家では、一家の主が食事時に教訓がましい話をすことなど皆無だったからだ。しげは姑と一緒に食事をするのはいやだと言い張って、別間で食事をするようになる。嫁・姑の間に起きたこのトラブルをテーマにした作品が、鴎外の「蛇」である。

鴎外には、妻がなぜこれほど激しく母に反発するのか、分からなかったらしい。
彼は別に母の話に感心していた訳ではなかった。母はそういう話をするのが好きなのだ、だから、気が済むまでしゃべらせておいてやろうと、傾聴する姿勢を装いながら実は聞き流していたのである。鴎外は、妻にもそうした姿勢で母の話を聞くように説得したが、妻は頑として承知しなかった。

鴎外は「蛇」のなかで、新時代の女性である妻は露悪的になっているから、母の態度が偽善的に見えるのだろうと解釈している。だが、反発する理由はそれほど単純なものではなかったと思われる。姑が訓話を繰り返すことで、個人の内面まで支配しようとしていると感じたから激しく抵抗したのである。

親が子供に集団生活のルールや、人間として守るべき最低限のモラルを教えるのはいいのだ。しかし、もっと踏み込んだ領域──個人が何に価値を置いて行動するか、数ある生存様式の中からどのような生き方を選択するかというような人間の主体性に関わる領域については、各人の自由意志にまかせるべきなのだ。相手がいかに自分が生み育てた子供だとはいえ、内面の聖域にまで親の支配力を及ぼしてはならない。鴎外の妻が姑に反発したのは、その姑の越権行為に対してなのである。

こういう親は、子供が拒否の姿勢を示すと、自分の人格を否定されたように怒り、暴力を振るったり、勘当したりする。鴎外の母は、息子が大人になってからも、その頭に容赦なくゲンコツをくれていたという。

自分の訓戒を子供が無視したら、暴力を振るっても言うことを聞かせようとする親の行動には、理不尽な支配欲が潜んでいる。

そして、この「理不尽な支配欲」を多量に持ち合わせているのが、国粋主義者や右翼なのだ。彼等は、すべての人間を愛国者に仕立て上げようと、式日には学校の生徒・職員に国旗を掲げ国歌を斉唱させようとする。そして、従わない者は行政命令で処分するのだ。彼等のなかには、散弾銃でリベラルな新聞記者を射殺する者まで現れた。

・・・・・・青木父は、右翼の街宣車の運転をしているといわれる。この辺が、私の一番気になるところなのである。

                (06/5/9)

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