二つのコース(1)

体験的「包越への旅」

(私は伊那に戻ってから15年間、同一の高校に勤務し続けた。この間、授業では社会科を担当し、校務分掌では図書館係を続けた。仕事の面では平穏無事の15年間だったが、思想的には、激しい「動乱」を重ねた。回心があり、逆回心があり、一種禅的な体験もしたように思う。ここでは、そのうちの「包越」に関連した部分を取り上げることにする)

庵室の中で

 学校図書館の運営に当っていた私は、図書館の隅に個室を作り、そこを自分の仕事場にしていた。この「個室」は私の為に特別に用意しておいてくれたのではないかと思える程、私の好みに合った部屋であった。それはもともと、校門から直接入館できるように設計された正面玄関なのだが、本校舎と渡り廊下で繋がる別の入口ができたために使用中止になった場所なのである。

広さは四帖ほどで、その三分の一位の広さが、一段低いタタキになっている。正面は閉鎖されて錠の下りた扉で、ほかに縦長の窓があり、水道の蛇口もーつついている。私はタタキに平たい木箱を置いて床面積を増やし、この上に机を据えつけて本を読んだり物を書いたりした。

私はこの部屋を自分で、「僧房」とか「庵室」と呼んていた。木曽にいた頃には、本曽谷そのものを庵室と考えたが、今や校内に自分の為の手頃な庵室を見出したのである。私は朝出勤すると、職員室には行かずにそのままこの庵室の中に入り、空き時間の全部をここで過した。だから私くらい校内の情勢にうとい人間はなかった。新しい校長・教頭が着任しても、その名前を覚えるまでに数カ月から半年以上もかかるのが例だった。

 授業時間は毎年、週十六時間程度で、平均すると1日に二・三時間の割になる。大体、一時間おきに授業に出ている勘定である。学校での私の生活の何処にも困難な部分はなかった。学校での生活は、植物生態学で云う「極相」の段階に達していたのである。庵室は「原生林」のようなものであった。

原生林は「遷移」が最終段階に達し極相を持続している森林で、これは他のいかなる森林よりも生産力が高い。森は自らの落葉枝によって必要とする栄養をまかなう「自己施肥系」を完成している。森の中は適度に暗く、風は弱く、気温の変動が少ない。原生林はこういう快適な内部環境を守るために周辺に「マント群落」「カーテン植物」を張りめぐらしている。蔓植物などて周囲をすっぽり包み、外部から自己を絶縁してしまうのだ。

 日曜百姓をすることで自分の「私生活」を安定させた私は、学校での生活も極相の状態に到達させた。私は外部から絶縁された快適な庵室の中で、自分の思考で自分の必要を充たす「自給自足」の内面生活を展開したのである。私も私なりに「自己施肥系」を完成させたのだ。

 思索したり研究したりする行為は、自分自身の得た結論に向って、たえず新たな試論を重ねて行くことであり、これは原生林が落葉の上に落葉を重ねる現象に似ている。研究者にとって確定していることは何一つない。すべてが試論であり実験であって、自分が今迄に形成して来たものの全体を仮説として目前に置き、これをより新しくより真実なものに蘇生させるためにたえざる努力を続けるのである。

40代の後半は、私がこれまでで最も集中的にものを考えた時期であった。私は人格と世界の構造に関する納得できるモデルを作りあげようと考えたのだ。私のやろうとしたことは、原子物理学者のして来たことと同しであった。彼らは測定可能な世界を対象とするニュートン物理学の枠を超えたところで思考している。物理学者達は見ることも触れることもできない原子の構造を、サイクロトロンなどを通して知られる物質のふるまいを手がかりにして把握しようとする。彼らは最後には、鉛筆と紙を手にしてベットに横たわり、次々に仮空の原子構造モデルを考案して行くのだ。

私も些細な心の動きを手がかりにして、人格構造を確定し、そこから類推して世界の論理的構造を明らかにする試みに乗り出したのだった。自分で「定位」「逆転層」などの新しい用語を作り、仮定したり、それがうまく行かないと仮定をひっこめて元の地点に戻ったり、苦心惨瓊して思考を進めて行った。今迄、一度も生きたことのない虚空で、全力を振って闘っているという感じがあった。徒手空拳で未踏の空間に押し入り、何もないところから何かを生み出し、それを足場にして更に高く進み、自分を空中に固定させる試みを開始したのある。

 昨日考えてうまく行ったと思ったことも、今日になれば生色を失っている。今日考えたことも、明日になれば「死に体」となるのである。泉が湧くように毎日新しい考えが浮んでくるが、本当に満足てきるものは一つもない。生物学のホメオスタシスという概念を導入したためにモデル形成が急に進んだことがある。世界はたえざる自己更新の過程にある。この自己運動を、ホメオタシスという用語で説明すると、それ迄にぶつかっていた難問が解消するように思われた。私は気負いたって毎日ホメオスタシス概念の拡充に専念する。しかし、十日ほどすると、それ迄に考えたことのすべてが虚妄に過ぎなかったことが判明するのである。

覚醒の出現

寒い冬に入ると、思考はいよいよ白熱して行った。
小さな個室の内部は、寒気を封入した四角な箱のようになる。私はポータブル型の石油ストーブで片方の膝だけ温め、ジャンパーを着て考え続けた。かたわらの水道をもれる少量の水が、音調を定期的に変えながら、一日中水栓を鳴らしている。室内にある物音はこれだけであった。しかし、部屋の中は戦場であった。私は室内が、自分の思念の残す光痕のようなもので一杯になるような気がした。

 やがて、相互に消去し合う思考の中から、消えない部分が残るようになった。それらは私の思考野の各所に、位置を変えない前提・判断としてとどまり続け、その後の思考の核となって行った。それは水面のあちこちに氷結した部分があらわれ、水盤が次第に水面の全体を蔽うようになるのに似ていた。そうなると、思考は半ば自動的に進行しはしめるのである。

 自分の思考が次第に形をなしてくるにつれて、何時の間にかそれを距離を置いて傍観するようになっていた。自分の作り出したものを前に置き、私自身は遥か後景に退いて、特別に眺めるという意識もなくそれを眺めているのだ。この対象を眺める「私」が、これまてに知っている私とは類を異にしているのである。「非自己」といったらいいような自己なのだ。

それは日常的自我のような輪廓をそなえていない。自意識という中心点もない。それは私のうしろにひそんている別種の自己で、彼の職務は凝然とものを黙視することだけだという感じなのてある。すべてを明らかに見て取りながら、自分の見たものによっては微塵も動かされない。玲瓏玉のごとく透徹して辺際を知らないもの。自分自身の所得といえるものは何も持たす、自らを虚にして万象を客体視するもの。

 はじめは、そういう風に物を見ることを偶発的な現象と考えて、あまり気にもとめなかった。頭が異例に冴える瞬間は誰にもあることである。だが、その状態を意図して招来しようとしても徒労に終る。

これは数カ月に一度位の割合て、不定期に訪れてくる偶発事なのた。だが、この偶発事が続けさまに、個室にこもっている私の上に訪れてくるようになると、私はこの八面玲瓏の状態に名前をつける必要を感した。私はこれに「覚醒」という名前をつけた。

 それから何日かして、ある日私は古い自我の底が抜け落ち、自分がその下にあるもう一つの底に着いたという感覚に襲われた。覚醒の状態の中て、そう感じたのだ。そこは蒼古の昔から万人の心の底に横たわっているのに、未だかつて誰も足を踏み入れたことのない場所であった。そこには千万年の沈黙が降り積り、闇として声がない。

私達の意識の底深くに、宇宙の歴史よりも古い内宮があり、その奥に玄室があり、そのどん底にすべてを映し出している「古鏡」がある。私はこの時、自己の本体を見たという気がした。この「古鏡」こそが、本当の自分なのだ。

実際、覚醒の世界は劫初の昔から続いて来たかのような確実性、永遠性を持っている。自己の源底には、ゆるがぬ恒常世界があるのだ。「竹影階を払って塵動かず」という禅語は、ゆれ動く竹の影を意識の動きにたとえ、表面意識の動きによっては微動だにしない意識下の世界を石の階にたとえている。覚醒の世界は事実、盤石のように堅固な実在感をそなえている。

「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」

という西田幾多郎の短歌も、人間的喜怒を超えて、その下にひろがる不変の世界があることを暗示している。これは自己の源底にある古鏡を取り上げた歌なのである。

 自我の底が抜け落ち、その下方にある真の自己の源底に達したという「落盤感覚」はその後も何度か私を襲うようになった。そして私は「古鏡」の映し出しているのが「世界」にほかならないことに気づくようになった。

 ある日のこと、個室で非常にはっきした「落盤」の感覚に襲われた。今迄「落盤」がおきても、視覚像に変化が起きるというようなことはなかった。目の前の情景をそのままにして、視点だけが背後に退き、存在世界の外側に抜け出したという「内感」があるだけであった。しかし、今度は「落盤」によって後退した視点が深みにはまりこんだように動かなくなり、気がついてみると私は眼前に浮び上った「異境」という感じのする見なれない風景に見入っていた。                                   

 視野一杯にひろがる大地には、暗い川がうねりつつ流れていゐ。川は暗い森林から流れ出てくる。流れて行く川の、ある部分には両側に崖があり、ある部分は崖の片側が欠けて窪地になっている。とにかくこれは、鉄のように緊密な大地の上に森林・川・窪地・岩窟の分布するパノラマ風の大画面なのてある。大地を蔽う木々が、まるてブラシの剛毛のように小さく見える。全般的に重く沈んだ色調で、レオナルド・ダビンチの「モナ・リザ」の背景を思わせる色合いをしている。

風景の全面に内から溢れ出るような精気が感しられる。「異境」の全体が、目に見えない気配を発散しているのだ。だが、この中の何処にも人間や動物の存在は感じられない。この光景を観望する私の視点か、途方もなく後方にあることは、この大画面が隅々にいたるまてピントのあった写真を見るように明瞭であることから判明するのである。これは望遠レンズのような目で見られた光景であった。

私は昔、「天狼」という俳誌で、「初日出て直ちに西の涯照らす」という俳句を読んだことがある。私の眺めている風景には、この俳句と同じ万象一望の感じがあるのだ。私はこの「異境の光景」を、例えば職員会の席上でも見るようになった。会議中、知らない間に無心になって覚醒状態に入ると、この光景が目の前に浮きでてくるのてある。私は会議に耳を傾けながら、森林の上に鳥の群をとばせてみた。鳥の群は「風景」の中の空を横切って消えた。私はこれを夜景に変えてみた。すると夜の森林の黒い輪廓の上に銀河がほの白く浮び上った。

 そうしてこの風景になれ親しんで行くにつれて、私はこれが宇宙の果ての異星上に人知れず存在を続ける「異境」なのではなく、正に「世界」の象徴にほかならないことを理解するようになった。この風景は、今日迄の私の世界体験の凝集したものであった。覚醒の目は世界を眺める目なのだ。世界を眺め続けているうちに、覚醒の目は世界の象徴図を描き出して、それを眺めるようになる。目の前に浮かび上がったレオナルド・ダビンチ的風景は、世界の象徴だったのである。

 私が覚醒の目で眺める万有界・全体世界は一種の心象に過ぎず、つまりは象徴てしかない。だが、全体世界を肉眼て見ることができない以上は象徴するしかないのだ。空海は万有世界を曼陀羅という心眼が描き出した象徴図によって表現している。

 覚醒を重ねて行くうちに、私はこんな風な状態でまわりを眺めることが過去にいくらでもあったことにも気づいた。例えは、旧制中学時代、柔道の紅白試合を済ませて自分の座席に戻った時がそうだった。自分の出番を済ませ、緊張から解放されてカラになった気持て他人の試合や柔道場を眺める時である。

あの時は感情的な付加をことごとく取り去って、あるがままに目前の光景を眺めていた。事実だけを無心に見ていた。子供の頃、教師から黒板の前に引き出され、激しく叱られながら見た教室内の光景は実に鮮明であった。軍隊ては猛り狂った古兵から、躍りかかるようにして存分に殴られた。あの時にも、まわりの光景か実によく見えた。人間はどたんばに立たされ、もう感情を動かす余地を失ってしまうと、局面を覚醒の目て見るようになるのだ。人間的喜怒哀楽の剥落した裸の心になった時に、事実そのものを見る目が出現するのである。

 覚醒状態は子供の頃から現在にいたるまて伏流として何時でも存在しており、自我意識はその上に断続して浮かんでいる流木のようなものなのだ。非覚醒の状態から見れは、覚醒状態はしつけ糸のように生活の表皮の上に時折隠見する偶発事に過ぎない。しかし、覚醒の中にあって過去を大観すれば、存在するのは覚醒だけであり、自我意識とは、この覚醒から離れて夢幻の穴蔵に落ち込むことに他ならないと分かる。

私達は物心ついた頃から、是非善悪を超えた没価値的な目でまわりを見ている。この目は成熟することもなく、老いることもない。同し純一状態、透徹状態を持続し、そのありようは永劫にわたって不変なのだ。人間の「存在仕方」には二種類あるだけである。覚醒の中にとどまるか、そこを出て夢を見るかだ。私達がどんな人生を展開しようと、それはすべて夢てあり、夢に善悪美醜の差などありはしない。それらはいずれも「事実」てはない点で共通しているたけてある。

 逆回心の直後に見た、一切の人間的なものを剥ぎ取った無被覆の天地は、覚醒の目が捕えた風景だったのだ。あの時、私は自我意識の混入しない目で景観を見ていた。あの「有史以前を見る目」こそ、覚醒の目であった。感情的に物を見ることをやめれば、その背後から静かに世界を黙視する覚醒の目があらわれるのてある。私はハゲ山の上で、神の瞳が歳暮の市街を眺めていると思った。あれは、自らの覚醒の目を「神」に投影したものにほかならなかったのだ。

三つの次元

 私は今や、三段階の「生の次元」を識別てきるようになった。第一の次元は生理的な「夢の世界」であり、これから目覚めて第二の次元である「日常的世界」に入る。第三の次元は「覚醒の世界」である。この三つは同心円構造を形成している。夢の世界は日常的世界に包まれ、日常的世界は覚醒の世界に包まれている。

夢は濃密な内閉世界であり、夢の中にあって夢の本質を明らかにすることは出来ない。スピノーザの指摘する通り、覚醒はそれ自身を明らかにすると同時に夢をも明らかにする。光は光自身と同時に、闇をも明らかにするのである。夢の圏内から抜け出て、これを外側から包む目覚めの世界に出て、はじめて夢が何であったか判明するのだ。しかし、夢から出て入って行く日常性の世界は、未だ真の覚醒の世界ではなく半醒の世界だ。これが半醒の世界でしかないことは、そこから更に覚醒してみてはじめて明らかになるのである。

 私は授業をおえて個室に戻心てくると、次第に自分の「昂奮」が覚めて行くのを感じる。教壇に立って授業をするということは、自分を興奮状態に置くことだ。潮がひくように昂奮が覚めたあと、私は日常的な意識を包んて、その外側にもう一つの意識があることを感じる。遠くに覚醒の世界を望見するのだ。それは暗い室内から、天窓をへだてて、青く澄んだ空を見上げる感覚に似ている。この遠くへだてた恒常の空を見つめていると、程なく自分が覚醒の状態に入り、私は天空自身となって、暗い部屋を脚下に眺めるようになる。

 若い頃の川端康成は「末期の眼」ということをしきりに言っている。作家の眼は、「末期の眼」だというのである。現世との利害関係・愛憎関係から脱却した「末期の眼」は、現世と未だ特定の関係を持つにいたらない「生誕直後の眼」であり、これらの視点を欠いては作品のリアリティは生れて来ない。つまり、作家の活動を支える基盤は、生のはじめから終りまで持続する覚醒の目なのである。

 「人間の絆」の中で、サマセツト・モームは主人公のフィリツプに、人生は一枚のペルシヤ絨毯のようなものだと言わせている。この絨毯には意味のある模様は織られていない。各自の人生は、個人の理想・価値観とは無関係に進行し、結局、何の意味もない図柄を織り上げるのだ。フィリツプが作品の最終段階になって取得するこうした人生観照の立場も、多少の疑問を残すが、やはり一種の覚醒の立場なのてある。

 覚醒の内部には、いかなる感情も情感も含まれていない。覚醒が見たものによって動かされずに対象を直視できるのは、覚醒のはたらきが私的存在に根ざしておらす、エネルギーを介在させずに物を見ているからだ。自らは変化せずに、他者の変化を促進する物質を「触媒」と呼んでいる。覚醒は力を持たないから、逆にエネルギーを持つものを変化させ得るのである。

 ところで、「永遠の触媒」としての覚醒は、私達の人格のどの部位に位置しているであろうか。日常的意識と覚醒の関係はどう表象されるのだろうか。

 覚醒は、ある時は古い自己を包越して上方から黙然と下界を見守っていると感じられ、別の時には、自己の源底にあって目を見ひらいている深淵だと感しられる。そして又、それは自己の誕生以前からあり、死後にもあり、私達の人生を前後から扼しているとも思われる。つまり、覚醒は日常意識を前後左右から包み込んているものとしてイメージされるのである。覚醒は、内球を包む外球のように、日常意識を四面から包囲している。日常意識を抜け出せば、何処へ出ても覚醒なのである。

私は、包摂・非包摂の関係にある覚醒と日常意識の間で、最も重視すべき点はその「対向」関係だろうと思った。包むもの、包まれるものの間には、相互に正対する「対向」の関係が含まれている。生の形成する三つの次元も、この対向関係を持ってくることで、それそれの性格をより明確にすることができる。夢の世界・日常世界・覚醒世界の三者は、そのそれぞれの二者間で対向の関係を形成するのてある。

 夢の世界は日常世界と向き合いながら、夢自身を温存するために苦慮している。夢が破れて目覚めるのは光明の世界に出ることなのだが、夢にとってはそれは自己世界の崩壊にほかならないから、間近かに雨滴の音が聞えて夢が破れそうになると、その音を「夢物語」の中で大砲の発射音に変え、夢という虚構世界の継続をはかるのである。

しかし、自己保存をはかる夢の独走によって苦しむものがある。夢の中に閉じこめられている自意識である。自意識は外界からの刺激を勝手に解釈して、次々に荒唐無稽な場面を作りあげる夢の暴走に苦しんで、救済を待望するようになる。自意識の使命は、各段階での生の状況を読み取り、その生きる道を探してやることにあるが、生の錯誤が重なれば収拾の方法を失って苦悶するようになるのだ。苦悶する自意識は、この時、目覚めの世界と相対峙しており、膜一枚をへだてて光と向き合っている。

 夢の世界があまりにも恐しいものになると、自意識は目覚めの世界にしか救いがないことを感じて、必死にもがいて日常世界へと浮び上る。自意識は夢の世界の中で、漠然と夢以外の別の世界のあることを予感しているのだ。夢の中にあって、自意識が目覚めようと試みるのは、自意識の「自殺企図」である。自意識は夢という次元で持続する生に、終止符を打とうとする。夢から目覚めに移る瞬間は、夢にとっては死の一瞬である。

この二つの世界をへだてるのが暗い闇であることは日頃私達が経験している通りてあって、自意識は一旦死んでから対岸の目覚めの世界に移るのだ。日常的世界と覚醒世界の関係も、対向の関係にある。

 夢から覚めて日常世界に浮び出た自意識は、今度は個体的生のレベルを生きはじめる。ところが、この世界も第二の夢にほかならす、幻想と虚妄て塗りつふされている。私達はこの世が自分の為にあり、世界の中で最も貴重なものは自分だと思っている。死すべきものとして生まれながら、死を恐れ、死について考えまいとし、なるべく愉快に楽をして生きたいと考える。死に関して人間は、「共謀の沈黙」を守っている。社会とは人間がその錯誤と空想を守るために協力して作りあげた繭のようなものてあり、この中で人々は相互に表彰し合い、多種多様な順位制度をこしらえて互に礼拝し合っている。

個体的生を保つことは、夢を保つのと同じ位に難しい。自意識は個体的生の要求を何とか実現しようとするが、その要求が理不尽の度を加えてくると「生きるべきか死ぬべきか」と苦慮するようになる。自己中心主義を基準として行動しながら、その錯誤を背面で予感しているところに自意識の苦しみがある。こうして苦悩する時に、実は自意識は「絶対的救済」の浄光と向き合っているのである。

 覚醒は生の最終的段階であり、生が非エネルギー化した存在次元である。覚醒は存在世界に根を下さない自由な立場から、存在するもののあらゆる振舞い、様相を公平に眺め受容する。シモーヌ・ベーユが直観したように、個体としての人間は不幸をその本質とし、悲惨をその本来相とする。救いはどこにもない。どうあがいても夢がさめてしまうように、個体的生の段階も結局は終末を迎える。私達は最後に覚醒の世界に浮び出なければならない。そして、この立場に移れば、夢は覚めるのが当然であり、個体的生に終りがあるのも当然たとわかってくる。

 死後の世界について論じる者は、すべてペテン師だ。しかし、私は次第に人間の死が個体的生の次元から覚醒の次元に決定的に移行する際の関所にほかならないと考えるようになった。亀井勝一郎は、眠ることによって人は毎日死ぬ練習をしている癖に、どうして死を恐れるのかと言っている。

たが、私達の行っている死の予行練習とは、本当は夢から覚めることなのだ。夢の世界と日常世界の中間にあるのと同し深い闇が、個体的生と覚醒の間にも立ちはだかっている。死は光を失って暗黒に押しつぶされ、個体としての意識を失ってしまうことだ。ゲーテは死に臨んで、「もっと光を」と言った。しかし、光は消え意識はなくなる。そして私達は別種の光の支配する覚醒の世界で目覚めるのである。私にこうした確信をもたらしたのは、覚醒の有する自体感覚の堅固さであり、この感覚に比較すればその他の一切の感覚は夢幻に等しく思われることであった。

 覚醒経験を得たことで人生の布置は明らかになり、あらゆる存在と現象はそれぞれ所定の位置に落付いた。私の思考は、思い切って単純な様相を呈するようになり、私はこの単純な帰結の中に安らかに憩うことができた。私は多くの思想家たちが、覚醒体験を基盤にして、それぞれの哲学を形成していることを知った。釈迦の涅槃、プラトンのイデア界、デカルトの精神、西田幾多郎の純粋経験、みな覚醒体験を母胎にして生み出されたイデーなのである。

 私は自分自身の過去についても、単一の系の下に位置づけて、秩序ある説明を加えることが出来るようになった。中学三年以降、私はひそかに「私的世界」を構築して来た。上野図書館の閲覧室で私は「私的世界」が各人固有の個性的世界なのではなくて、万人に共通する普遍的世界であることを知った。この時点で、私的世界は「世界」に吸収されて自己解消してしまった。以後の私は、世界の内実をくまなく探り、世界をより明晰に見ることに専念するようになったのだった。

私がそういう努力を続けたのは、世界と共にあることを目的にしたのではない。世界から脱却し、非在の境位から世界を受容する為だった。すべては覚醒に至る道程であり、これへの階梯だったのである。

触媒としての覚醒

残された問題は、キルケゴールの「人生行路の諸段階」にならって人間的生の段階理論を作り、その内部に私自身の経験をも組み入れて行く仕事であった。キルケゴールは、人間を諸段階へと追い上げる根源的な動力を神の中に見出した。彼の道中双六は、人間が神に正対することをもって終点とするのである。

私の考案する段階論は、起動力をこれとは別のものに求めなければならない。私は虚が実を動かし、非エネルギーがエネルギーを転換するという通常のエネルギー法則を超えた論理を持ってくることで、「動力」の問題を解決できるという見通しをつけていたが、実際に考えはじめてみると仲々いい思わしい着想が浮んで来なかった。                                        

「宿駅」の問題も思うように展開しなかった。私はまず、表自己・裏自己・非自己という三つの宿駅を設定してみた。人間はこの三つの世界を順次歴訪して行くのである。私は表自己に身を置いて裏自己を眺め、逆に裏自己に身を置いて表自己を振り返えるというような作業を散歩の途上で繰返した。

しかし、これはと思うような思案は生まれてこない。散歩中に考えたことのうちで、真実らしいことはたったーつしかない。それは個人による覚醒と対応する形で、宇宙による覚醒が存在するらしいということであり、そしてこの両者は完全に同質であるらしいということだった(ウパニシャット哲学はブラフマンとアートマンが一体だと説いている)。宇宙的覚醒の内部で、私が個人的に覚醒を生み出そうとする様は、大海の中にあってコップの中に水を作り出そうとする努力に似ていると思った。

転機は思いがけない方向からやって来た。校用で長野市まで出かけた車中て、私は「老子」を読みながら覚醒と愛は実は同じものではないかと思い当ったのだ。

 列車に1人て乗っているうちに、何か重要なことを思いつくという経験が以前にもあった。時間講師をしていた頃、中央線に乗って東京へ行く途中で、現状を完全に肯定する心境に達したことがある。半失業状態にあって貧乏暮しをしていた私は、車中の退屈を消す為の「空想」のテーマにブルジョァの生活を選んだ。

私の住んている家は門から玄関まで五百メートルもある大邸宅で、主屋は二階建ての校舎を思わせるほどの大きさだ、という風に私は想像して行った。モデルは外国映画て見慣れた富豪の邸宅なのである。だが、私は空想の中で暮してみて、ある居心地の悪さを感じた。邸内を執事や女中がウロウロしていること、彼らと特定の人間関係を持ち、彼らにたえず指示していなけれはならないことがその原因だった。

私は、今度は逆に不都合な部分をどんどん消して行った。すると私の住む家はあり来りの二階家になってしまった。私は事の意外な成り行きに驚きながら、自分が本当に求めているのはごくささやかなことであって、つまるところ「普段着の日常」を確保するに過ぎないことを悟った。私は格式や儀礼に縛られない生活、愛想笑いやお辞儀を必要としない生活、自分が自分のままでいられる生活を求めているだけなのだ。とすれは山の中か無人島て暮すのが一番いいが、その為には食糧薪水を確保する手だてが必要となり、別の困難に逢着する。

「空想」を開始して程なく、私は、(つまり、理想の生活とは、今の自分自身の生活なのだ)と憑きものが落ちたように思った。遠くへ向けて発射した砲弾が、もとの大砲の穴に戻って来たような感じだった。この時、私は現状こそが、その人間が作りあげて来た、その人間にとっての最適状態なのだという事実に気がついたのである。

 長野への車中では、私は最初「老子」を愉しみながら読んていた。それぞれのペーシの中に、馴染みの章句が茶室内の調度品のようにおさまっている。私はその一つ一つを壷や茶碗を愛玩するように賞美して読んで行くのである。老子はいう、万物の根源者である道の本体は無である、と。その無が退いたあとに、存在者の生きる場所が生まれた。有は、道=無から譲り受けた場所で存在を続ける。つまり万物は、道=無の慈愛によって生み出されたのだ。

 しかし、「道」は、無のままに留まっていないで、どうして万物を生み出し、これを「慈」で包むのだろうかという何時もの疑問が浮んて来た。私は原始仏教についても同じ疑問を持っている。原始仏教の理想は無明を脱して「覚者」すなわち覚醒者になることだ。覚者は衆生に慈悲を注ぐ。だが、私には覚醒と慈悲が異質の原理であるように思える。この両者が簡単に結びつく理由がわからない。

 列車は松本を出て明科のあたりを走っている。車内はほぼ満席で、乗客達はそれぞれ気ままに時を過している。目をつぶっている乗客が多い。私はふと、覚醒が自らを非在者として存在者を包視するという構造自体を愛というのではないかと思った。覚醒は自明の状態にあるから、自らについて問う必要はない。だから、覚醒は自らを志向せず、構造的に「無明」に向わさるを得ない。非在が存在を包まずにはいられないという必然、これを愛というのだ。

それ自身自明なものが、完全無欠な自己充足のうちに憩うというあり方も考えられる。エピクロスの考えた神はそういうもので、神は人間の吉凶禍福とは無関係に自己充足の生を続ける。だが、こうした存在は人間にとって無いに等しく、かかる観念は人間には馴染まないのだ。私達が想定する絶対者は、万物とは無関係に充足するという方法があるにも拘わらす、万物を包摂するというあり方を選び、「向世界」を必然とする構造の中に身を置いているのだ。

 私は車内の乗客に目をやりながら、覚醒を呼び起そうと努めた。そして覚醒の「向世界」という機能に注意を集中しようとした。私の内部て何かが動いたような気もした。しかし、この時には何も起らなかった。

 長野で用事を済ませて帰りの列車に乗ったのは午后五時頃で、長野駅始発の急行は割合空いていた。発車して一時間程すると乗客は更に減り、私のまわりに人影はなくなった。私は改めて、往路の車中で考えた問題を思い浮かべた。

私という人間は、「私」と「私でないもの」によって構成されている。「私」は「私でないもの」に気づかず、私とはこれしかないと思いこんで「私」を満足させることに没頭している。「私でないもの」は非在の側から、つまり彼岸から食卓上の蝿の振舞いを見るように「私」の振舞いを黙視している。そしてこの「私でないもの」とは、宇宙創成以前からある覚醒が私という個体上に結露したものにほかならない。

 私は再び覚醒の側に身を置き、彼岸から現世を眺め、その黙視するという機能に注意を集中した。薄暮の中を走る車内の光景が鮮明の度を増してくる。私は自分が覚醒の状態に入ったことを知った。私は今迄「私」の側にあったが、この瞬間対岸に移り、今度は「私でないもの」の側から世界を見ているのだった。二・三分そうしているうちに、彼岸に身を置いた主体がふっと入れ替わり、覚醒が愛に転換した。

 覚醒は通常の意識の枠を超出した広大な意識伜を持ち、覚醒の観取した内容が誰によって、どこに納め取られるのか「個人」には到底見当がつかない。それは無方無底の受容作用なのである。この目測のつかぬ程広大な受用枠の幅一杯にひろがって愛が到来したのだ。巨大なオーロラが垂れさがるように、無底の空から光のカーテンが降りて来て万物を包む・・・そんな風に愛はやって来て、すべてのものを蔽ったのてある。私は愛の通路であり、宇宙的愛の為に場所を借してやっているに過ぎない。

  
同時に、非自己の奥から流れてくるこの愛は、私の持っているもう一つの愛なのだという気もする。私は非常な幸福を感じた。愛は自らを浄化し、自他をよろこばすこと以外何も為し得ないのだ。愛の原理は、いたって簡明に思える。覚醒は黙視し「受容する」いとなみだが、愛は「包摂する」いとなみであり、覚醒は吸う息であるのに対し愛は吐く息なのてある。

 愛は覚醒と同じように中心点もなけれは辺際もなく、世界全体に向って注がれる純粋意識であった。愛の源泉は愛であって、愛の中から愛が出てくるのである。覚醒は、その中に覚醒以外ないという透徹した純一状態を保っていた。愛もその中に愛以外はないという純粋状態を保っている。覚醒はすべてを明らかに見て取りながら、見たものによって影響されることはない。純一なものを外から動かすことは不可能なのだ。愛も善悪美醜を問わず、存在するものすべてを愛するが、愛される側の動向によって愛が変化することはない。

彼岸からの愛を受ける資格・条件はただ一つあるだけである。存在するということがそれだ。この世にあるものは、すべてこの世にあるという理由で愛の光を受けるのである。

 私はティヤール・ド・シャルダンの錯誤を理解することができた。彼の思想は万里の長城のように壮大であり、百億年余の宇宙の歩みを視野のうちにおさめ、宇宙史におけるオメガ点を未来に想定している。彼が宇宙を愛するのは、それがオメガ点を内包しているからであり、つまり彼はオメガ点を愛しているに過ぎないのだ。それは十人の人間を殺した殺人犯を、彼のかくし持っている善への可能性の故に愛するというのと同じてある。神が万物を愛するのは、すべてのものに価値への可能性がかくされているからてはない。万物が形あるものとして、不可避の宿命を負っているからなのだ。

「存在するもの」すべてが不可避のさだめに従わざるを得ず、誰もが例外なく十字架を負って生きているからなのだ。私が車中で見たのは、「私ではないもの」の立場から見た愛のかたちてあった。従って私は愛を経験しながら、それを側方から眺めているという感じを棄て切れなかった。大河のほとりに立って水の流れを見るように、愛の光を横から見ているという感覚があるのである。

愛と覚醒に包まれて

「私」の立場から愛を見たらどのような印象を受けるであろうか。
 長野行きから数カ月した三月中旬のことてあった。時刻は午前五時頃、早朝の目覚め際である。夢から覚めたが、まだすっかり目覚めるには至っていないという中間段階はいやな気分のするもので、中村光夫はこういう時に考えるのはろくでもないことはかりだとにがにがしげに書いている。

昼間のうち、意識の下に押しかくしていた理由のない疑いや恐れが、変ななまなましさでよみがえって来て、半醒状態にあって自由のきかない意識の内面を支配してしまうのだ。子供たちの行末を案じたり、まわりの人間の向背を気にしたり、あれやこれやの取越し苦労をしたり、生あるものにつきものの実存的な不安が鋭く頭をもたげてくる。

 その明け方も私は暗い想いで心を一杯にして半醒状態で寝ていた。私はその時、救いは何処にもないことを全身で感じた。脆弱な心身を持って、束の間を生きる人間に本当の安心などあるはずはないのだ。生きている限り、身も細るような不安は影のように足下に忍ひ寄ってくるのだ。

 この時、私は暗澹たるものでみたされた心の外廓を、愛と覚醒がひっそりと包んていることを感じた。気がついたら、孤独な星を宇宙空間が包み守るように、愛と覚醒が心を包んでいたのだ。霊性の輝きを内に宿した覚醒が、「私」を隙間もなく包み守っている。半醒の意識では、遠くまで見通すことはできない。たが、「私」を出ればそこには愛と覚醒しかないことがハッキリと感じ取れた。

 「私」という岬を霊の海が包み、その海は無限遠の大洋に続いているという風にも思われた。救われない「私」と対比してみると、愛と覚醒の海洋は救いであった。覚醒は絶対的な救済者に変って「私」を包み、「私」は既に癒やされているのである。

 人間の徹底的な救いの無さにおいて、徹底的な救済が成立しており、人間の根源的な暗さにおいて、非人間的な霊光がまばゆく輝やいている。覚醒は、ただ単に黙視するだけのものではなかった。私自身の暗さと逆対応する光をはらみ、個の悲嘆を癒してあまりある量の慰藉を含んでいる。

 私は起き出して隣りの勉強部屋に行き、机の前の椅子に坐った。夜はすっかり明けて、庭に小鳥の声が溢れている。私の心に驚きはなかった。見知らぬ町に夜到着し、朝になって思いもよらぬ方角から太陽が昇ってくるのを見た時のような感じであった。予想しないところから日は昇って来たが、朝日の出現することは前からわかっていたというような気持だった。

 私は椅子に坐ったまま、半醒の意識を包摂した覚醒の光が慈悲の輝きを宿していたことを思い出した。疲れ傷ついた意識は、覚醒の中に治癒の甘さを感じたのだ。覚醒に包まれているうちに、それ迄心を充たしていた絶望的な感情がそっくり安心に変った。事前の絶望の量と、事後のよろこびの量は等しかった。私の不安は、その一番基底のところから反対のものに転化して、人間は救い難い存在たからこそ救われるのたと確信していた。奇妙なことであった。そして事柄は不思議にみちているが、私はそれを少しも不思議と思っていない。

 半醒状態の下で、私達の感じ取る人間の本来的暗さには、誇張もなけれは修飾もない。私達はこの時、人類の歴史と起源を等しくするような深い歎きの中にあるのだ。そしてこの歎きに応えて、覚醒が「超自然的」な救済を与えるのである。

 私は、あちこちの家で人が起きて動きはじめたことを感じながら、影は光の現存を示していると思った。地獄しか知らない者は、血の池・針の山を苦痛と感じるどころか、そこを泳いだり登ったりすることを無上の愉しみとするかもしれない。地獄を暗いと思うのは、地獄ならぬ世界を既に知っているからだ。私達が自然的・人間的な生を暗いと感じる理由は、最初からそれらを超えた次元を持っているためなのである。

私達は確かに奪われた存在であるけれども、それは大きく与えられるためであり、既に与えられている事実に気づくためだ。私達が病んでいるのは癒やされるためであり、既に快癒していることに気づくためなのである。

 その年に、私は転勤の希望を出した。生徒数800余,教職員数50の大きな高校の中にあって、私は図書館の一隅を棲み家とするヤドカリのような暮しをして来た。そして、それが私に非の打ちどころのない平安な十五年間を保証してくれた。それを私が自ら棄てたのは「極相」に達した生活から抜け出して、もう一度「遷移」の第一段階からやり直そうと考えたからだった。思い残すことはなかった。

 昭和五十三年三月末、いよいよ永年勤めた高校を引き払うことになった。私は登校して個室の中の私物をダンボール箱に詰めた。「庵室」を出る前に、室内へ最後の一瞥を投げる。この学校に在職している間、私のよろこびと悲しみは、この個室と共にあったのである。惜別の情が胸を走った。

 私は図書館の鍵を事務室に返し、ついでに電話でハイヤーを頼んでから、正門前の道路に出た。ハイヤーを待つ間、道路に立って、白樺をめぐらした古い木造校舎を眺める。休暇中で無人の校舎に早春の日が当っている。教室の窓に引かれているカーテンが白い。

 私は校舎を眺めながら、自分の背後に「恒常の空」のあることを感じていた。私は何時となく頭上に「覚醒者」の存在を感じながら生きるようになっていたのだ。それは常に晴れ渡った空を思わせるので、東洋の賢者にならって「太虚」と呼んでもよかった。私の背後にある「覚醒者」も、やはり私の目前の光景を黙視している。

私の在職した十五年間に無数の生徒が卒業して行った。数多くの同僚が来ては去って行った。この古びた校舎の中で、数限りない哀切なドラマが展開したのだ。しかし、それらの痕跡は今どこにもなかった。葉を落した木々と、古びた建物と、晴れ渡った空があるばかりだ。

 人間のすることは、ガラスの上に水で絵をかくようなものたと私は思った。すべてはあとかたなく消え去って行くのだ。私は瞬間、言いようのない悲しみに襲われた。この時であった。私の背後にあった「恒常の空」が、その碧空のような透徹した深さを保ったままで、ぐらりと傾むいたのだ。私の悲しみに呼応するように動いたのである。「大悲」の中で、私は個の悲しみを追っていた。私を包んで、私よりもっと深く悲泣しているものがあるのだ。私は言葉もなく、その場に立ちつくしていた。

戻る