坂口安吾礼賛 1 私は若い頃から坂口安吾が好きで、人にも安吾作品を読むことを勧めてきたが、当の私自身まだ彼の作品を半分も読んでいない。数年前から時間的に余裕が出来て、好きな作家の全集を買って読むようになったが、ついぞ安吾の全集を買う気にはならなかったためだ。
何故かというと、安吾の作品で読むに値するものは中期に集中しており、初期のものや晩年のものは、それこそ箸にも棒にもかからぬ駄作が多いからだった。全集を購入して「吹雪物語」のような退屈な作品を読まされるのかと思うと、手を出す気がしなくなるのである。
しかし、中期、つまり全盛期の彼の作品には、実に良いものが揃っている。世俗に帰属することを拒み、世間の枠外で生きた点で、安吾は大杉栄に似ている。大杉も安吾も世間的常識に縛られることなく生きた。それ故に、彼らは日本社会のゆがみを浄玻璃にかけたように明晰にとらえることができた。死後になっても大杉・安吾の二人に多くのファンが群がり、彼らは今後も多くの読者を持ち続けるだろうと推測されるのもこのためなのだ。
安吾は20代で新進作家として認められたが、その後、十数年も忘れられていた。それが、昭和21年「堕落論」を雑誌に載せたことで一躍脚光を浴びることになる。彼は、夫を戦場で失った「靖国の妻」が別の男を愛し始め、特攻隊の生き残りが闇屋になったりすることを、堕落ではなくて人間の本来相に戻ったのだと弁護する。戦争中、仮面をかぶって生きていた国民は、今、堕落することによって人間本来の姿を取り戻したのだ。日本人よ、堕落せよ、そして本来の人間に戻れ、これが「堕落論」で安吾が強調したことだった。
「日本文化私感」も、古美術・古建築を礼賛する日本主義者の通説を、片手で払いのけるように論破している。形あるものは必ず滅びる。いずれは消えうせる法隆寺や東大寺に恋々とするよりは、次々に新しく生み出される現代の美に注目すべし。銀色にかがやくガスタンクや小菅刑務所、ドライアイス製造工場、みなそれぞれに美しいではないか。
安吾は政治的な発言もしている。彼は左翼でも、マルクス主義者でもなかったが、守旧派右翼の心胆をさむからしめるような発言をしているのである。
マッカーサー元帥に関する安吾の談話。
<彼(マッカーサー)は果敢な実験者であった。・・・・・共産党も公認したし、農地も解放した。憲法も改めた。農地解放は実質上の無血大革命のようなものだが、日本の農民も、農民の指導者たる政党も、その受けとり方がテンヤワンヤで、稀有な大改革を全然無意味なものにしてしまった。
・・・・ 妙な話だが、日本の政治家が日本のためにはかるよりも、彼が日本のためにはかる方が概ね公正無私で、日本人に利益をもたらすものであったことは一考の必要がある>
占領初期に行われたマッカーサーの政策が、天皇制絶対主義の害悪を一掃するのに役立ったことは、日本人のすべてが認めざるをえないところなのだ。岸信介やその孫の安倍晋三は、新憲法をアメリカのお仕着せ憲法だといって非難する。だが、もし当時の日本政府が明治憲法に代わるものとして起草した新憲法原案が国会を通過していたら、農村には悪名高い地主制度が残り、日本の民主化は形だけのものに終わったのである。
目下、論争の的になっている「歴史認識」についても、安吾はハッキリと自分の見解を述べている。
<自分で国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。
・・・・人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのは全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ>長い占領が終わり、日本が講和条約を結んで平和国家として発足すると、それを待っていたように右翼が頭をもたげ、自主憲法の制定やら、再軍備の必要を宣伝し始めた。安吾はこれに我慢できなかったのだ。彼は、日本社会の深層に、岸信介=安倍晋三的反動を再生産し続けるガンのような病根があることを感じ取っていたのである。
さて、ここまで書いてきて、私は坂口安吾全集を注文しようかと考え始めた。私の好みには、中野重治・大岡昇平という系列と、大杉栄・坂口安吾という系列があり、後者の系列に触れると必ず元気回復の笑いが生まれてくるのだ。安倍晋三的反動が吹き荒れている現在、私には元気回復の笑いが必要らしいのである。
2 坂口安吾という作家に興味を感じたのは、上掲の写真を雑誌か何かで見たときだった。今でこそ、TVで「片づけられない女」の実話が紹介されているけれども、この写真が公になった頃には、家の中をこんなに乱雑に散らかしている人間がいるとは信じられなかったから、各方面から一斉に驚きの声が上がった。
これが手始めだったかも知れない。安吾の破天荒な実生活がいろいろと伝わってくるようになった。そして彼が薬物中毒になり、新聞に「安吾乱心」「安吾狂乱」というような文字が躍るようになると、良識派の市民は、すっかり彼を見放してしまった。
しかし、同じ無頼派の作家でも、彼には太宰治や織田作之助とは少し違った感じがあった。だから、安吾が留置場に何度放り込まれても、読者の多くは彼を見捨てなかった。坂口安吾には、何かしら剛毅な印象、絶対善を求める求道者の面影があったのである。だから、バカなことをすればするほど、安吾ファンの間での彼の人気は高くなったのだ。
いや、そういってしまっては間違いになる。安吾の人気は、やはり「堕落論」や「日本文化私感」に示された卓抜な見識に由来すると言わなければならない。彼は世間の通説に惑わされることなく、事実唯真の目で現実を直視し人生の実相をはばかることなく表現したから人々の敬愛を集めたのである。
子供の頃から、安吾は自分の好きなことしかやらなかった。
中学生時代の彼はスポーツに熱中した。学校に欠席届を出しておいて、運動部の練習が始まる放課後に登校し、教師の目を盗んで柔道場やグランドで汗を流した。彼は全国中学校競技大会(インター・ミドル)に出場して、走り高跳びで優勝している。新潟の中学校を二度落第して放校処分を受けそうになったので、東京の私立中学校に転校し、卒業後は小学校の代用教員になっている。
ここで一転して、安吾は自堕落な生活を棄て、悟りをめざして禁欲的な生活に入るのである。その頃の気持ちを彼は、こう書いている。
「……何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた」
彼は求道生活に徹するために東洋大学印度哲学科に入学し、睡眠時間4時間という猛勉強を開始する。食事と入浴の時間を除いて、あとは一日中本を読んでいたのだ。当時の友人達の話によると、この頃の安吾は精神的な威厳に溢れ、同級生のすべてにこの世ならぬ高貴な人間という印象を与えたという。
安吾はヨガ行者のような猛烈な修行をつづける傍ら、アテネ・フランセに通ってフランス語をマスターし、そこで知り合った仲間と同人雑誌を出して、創作に手を染める。そして、牧野信一に認められて、新進作家としてデビューするのである。
「堕落論」「白痴」によって復活した安吾は、あれよあれよという間に人気絶頂の流行作家になった。湯水のように流れ込んでくる原稿料・印税を、彼は右から左にぱっぱと費消している。そのくせ、生活は簡素だった。有名人として世俗にまみれて暮らしながら、その生き方の底に悟りを目指して修行した頃の純潔な心根が一筋流れていたのである。
安吾が何より警戒したのは、安穏な家庭を営んで、その中で自分の作品が腐ってしまうことだった。
「食器に対する私の嫌悪は本能的なものであった。蛇を憎むと同じように食器を憎んだ。又私は家具というものも好まなかった。本すらも、私は読んでしまうと、特別必要なもの以外は売るようにした。着物も、ドテラとユカタ以外は持たなかった。持たないように『つとめた』のである。中途半端な所有慾は悲しく、みすぼらしいものだ。私はすべてを所有しなければ充ち足りぬ人間だった」
だが、彼は自らパンパンと呼ぶ女をめとり、男の子をもうける。この頃から、安吾の崩壊が始まるのである。
3 坂口安吾は青春期に悟りを求めて苦心惨憺したというのだが、悟りは果たして得られただろうか。
この問いへの回答と思われるものが、小林秀雄と対談した折りの安吾の発言のなかに見られる。安吾は、小林秀雄が規矩にとらわれた息苦しい生き方をしていると批判した後で、こう言っているのだ。
「人生とは、つくるもの、つくらねばならぬものだ。小林さんは、その手前に止まったんじゃないかな」
「五十年しか生きられない人生というものは、僕は決して規矩に近づくためのものでも真実を発見するためのものでもなくて、何か作るところのあるものだと思うんだよ。文学も人生と同じものだと思うんだよ」
「恋愛でも何でも、人生が作らなくちゃならないものなんだ。自分勝手にさ。自分の一番いいように作ってゆかなくちゃならないものだ」
人は子供の頃に「かく生きるべし」とまわりから刷り込まれた人生を生きて行く。そして規矩に従ってお仕着せの生涯を送り、満足して死んでいく。安吾は、こうした世間並の人生を唾棄して、自分が納得できる新たな人生を作り出そうとしたのである。
作家としても既成の文学を超えた、斬新なスタイルと内容を持った文学作品を生みだそうとした。常に新しいもの、本当なものを創造しつつ生きること──これが安吾の到達した「悟り」ではなかったかと思われる。
では、彼が生み出そうとした文学作品とは何だろうか。「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」を描いた作品だった。「白痴」も「桜の森の満開の下」も、人間の絶対的な孤独を描いた作品である。
だが、安吾の名声が高くなるとともに、独自の人生を創造することも、ユニークな作品を創作することも次第に困難になっていった。有名になるにつれて、現実との接触面が増え、それに応じて世俗と衝突する頻度が高くなる。税務署と喧嘩し、競輪の不正を暴き、出版社といざこざを起こすなど、彼は多数のトラブルを抱え込むようになった。
殺到する原稿依頼に応じているうちに、作品の方も荒れ始める。安吾の文章から力感が失われ、ちょっと難しい漢語でも文字を思い出すのが面倒なので、カタカナで代用するようになる。作品の荒れ始めた原因を睡眠不足のせいにした安吾は、睡眠薬を常用するようになり、服用量を次第に増やして行った。
アドルムをジンで飲めばぐっすり眠られる。しかし、目覚めると、頭がぼんやりしてペンを取る気になれない。そこで次には眠気を振り払うために覚醒剤を服用する。こんなことを繰り返しているうちに、アドルムの服用量は急増して日に50錠にもなった。
壇一雄は当時の安吾について、こう記している。
<ひっきりなしに鼻水を垂らしてちり紙で拭っては捨てる。ジンとアドルムを交互に飲んで、その陰欝な声はブルブルと周りにふるえるのである。
足の裏に巨大な灸をすえていて、その灸が半分化膿しかかっていたことも覚えている。
「こいつは効くね。檀君、天元の灸だよ」
安吾はそんなことを言って笑っていたが、その空漠な笑い声は、まるで陰惨な天地の悪霊を呼び寄せるように感じられたものである。そう言えば、太宰治にも、同じような、沈欝にのめり込むような時間があった。しかし、太宰の場合は、女々しく泣く。それに体力が雄健でないから、あばれると言ってもたいしたことではない。安吾の場合、並はずれた腎力だから、ハタで押えようがないのである>
壇一雄は、おなじ回想記に安吾が妻に命じてカレーライス百人分を注文させ、自分のまわりにずらりと並ばせたことも語っている。
坂口安吾は、世俗の中にあって世俗に毒されない独自の人生を創造しようとした。水の中に入っても濡れない自分を実証しようとしたのだった。だが、彼は刀折れ矢尽きて破滅した。
安吾を愛する読者にとって、彼は世俗との戦いに敗れた戦死者なのである。だから彼のために流す涙は、死せる英雄に捧げる涙なのだ。
4
久しぶりに坂口安吾全集を取り出して、少しずつ読み進めているところだ。今回読了したのは、次の三作品だった。
「精神病覚え書」
「わが精神の周囲」
「小さな山羊の記録」坂口安吾は、昭和23、24年頃、年齢で言えば42、3歳頃に精神に異常を来して東大病院の精神科に入院している。だが、安吾が鬱病に取り付かれ、狂気を思わせる行動に出たのは、この時が最初なのではない。夏目漱石は生涯に三度、重篤な鬱状態になったとされるけれども、安吾も死ぬまでに三度の鬱状態に陥っているのである。
安吾自身の語るところによれば、最初の鬱症状は21歳の頃、神経衰弱という形で出現したという。この時に彼は耳が聞こえなくなり、筋肉が弛緩して野球のボールを10メートルとは投げられなくなった。彼は苦心惨憺、自力で鬱から脱出したと語っている。
<この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。自動車にはねられて、頭にヒビができたような出来事もあったが、さのみ神経にも病まなかった。
・・・神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語、サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。
・・・この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。
二十一の経験によって、神経衰弱の原因は睡眠不足にありと自ら断定して以来、もっ
ぱら熟睡につとめ、午睡をむさぼることを日課としたから、自然に病気を封じることが出来たのかも知れなかった(「わが精神の周囲})>彼は、実際一日に4時間しか眠らず、食事と入浴の時間を除いて、あとは一日中本を読んでいた。当時の友人たちの談話によれば、その頃の安吾は精神的な威厳に溢れ、仲間のすべてに高貴な求道者という印象を与えていたという。
安吾はヨガ行者のような猛烈な修行をつづける傍ら、アテネ・フランセに通ってフランス語をマスターし、そこで知り合った仲間と同人雑誌を出して、創作に手を染め始める。そして、牧野信一に認められて、新進作家としてデビューすることになるのだ。
彼は最初の精神的危機をたっぷり睡眠をとることによって克服したことをもって、以後の指針とするようになる。三度目の鬱状態に陥った42才の時にも、彼はこの方法で鬱を乗り切ろうとして睡眠薬を使用するようになった。当時、彼は「火」という三千枚の大作に取りかかった頃で、これを仕上げるためにも十分に睡眠をとり、頭をクリアにしておく必要があったのだった。
安吾が使用したアドルムという睡眠薬は極めて強力で、十錠が致死量とされていた。だから、一錠飲めば眠ることが出来たが、彼は次第にこれを乱用するようになった。アドルム一錠で確かに眠ることが出来るが、しばらくすると目が覚めてしまうので、さらに一錠を追加する。こうしたことを続けているうちに薬に対する耐性が出来て、彼は致死量のアドルムをを服用しても平気になった。
だが、大量の睡眠薬を服用すれば、目覚めた後に薬による酩酊状態が残り、思うように頭が働かない。そこで、今度は覚醒剤のヒロポンを飲むようになった。ヒロポンで自身を覚醒させて原稿を書き、その後で眠ろうとしても寝付けない。そこで、睡眠薬の量を増やすことになり、こうして安吾は3時間ほど眠るためにアドルム20錠を常用するようになった。そしてついには日に4、50錠ものアドルムを服用するようになるのである。
こうなれば、幻聴や幻像が頻繁に現れて正気を保つことが出来なくなる。安吾の妻、坂口三千代は、著書「クラクラ日記」に安吾狂乱の実情を精細に書いている。三千代によると、当局の取り締まりが厳しくなり、ヒロポンが手に入りにくくなると、安吾はセドリンを代わりに飲むようになったという。
<代りに用いていたものは、喘息の薬のセドリソと云う覚醒剤であった。朝から少量ずつ飲んで昼も少量飲み、それが蓄積されてやっと夕刻頃効いてくると云う薬だった。疲れて休息したい神経をむりやりたたきおこす薬で、二日でも三日でも徹夜に耐えうる神経にするための薬だ。そう云う薬で無理無態に仕事をしようとしていた。
・・・睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた(「クラクラ日記」)>
「クラクラ日記」から、安吾の狂態を引用してみる。
<もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。>
<読まれない新聞が、彼の枕元にうず高くつまれ、ふと気がついて、彼がその新聞をとりあげ、片目をつぶり、日付を見て、こんなはずはないと云い出す。誰々が来て、それから三十分ほどねむっただけなのに、あれからもう一週間もたっていると云う法はないと云い出すのだった。新聞の日付迄、私や女中が按配すると思い込んだりした。>
<彼はいかり狂ってあばれまわり始めると、必ずマッパダカになった。寒中の寒、二月の寒空にけっして寒いとも思わぬらしかった。皮膚も知覚を失ってしまうものらしい。それで恥しいとも思わぬらしいのだが、私は恥しかった。女中さんの手前もあるし、私は褌(ふんどし)を持って追いかけていく。重心のとれないフラフラと揺れる体に褌をつけさせるのは容易ではなかった。
身につける一切のものはまぎらわしく汚らわしくうるさいと思うらしかった。折角骨をおってつけさせてもすぐにまた取りさって一糸纏わぬ全裸で仁王さまのように突っ立ち、何かわめきながら階段の上から家財道具をたたきおとす。階段の半分位、家財道具でうずまる。>
いつか酒に酔って深夜の公園で全裸になったタレントがいたけれども、睡眠剤を大量に摂取するとアルコールで酩酊したときと同じ状態になり、やたらに裸になりたがるらしいのだ。
当時、坂口安吾夫妻は二階に間借りして、階下に家主夫妻が暮らしていたのだが、安吾は何時ものように全裸になり、階下に降りていって、いきなり風呂場の戸を開けたことがあった。たまたま入浴中だった家主の奥さんはびっくり仰天して、裸のまま庭に逃げ出すという事件を起こしている。
坂口安吾に限らず、作家には睡眠薬に依存するケースが多い。芥川龍之介は薬を常用していたし、最も悲惨な例は有馬頼義だった。彼は社会派推理作家として松本清張と並ぶ存在だったが、睡眠薬の使用量が日を追って増えるため心配した家族が有馬の現れそうな薬局に出向いて睡眠薬を売ってくれるなと頼んで歩いたという。有馬はガス自殺を企て、最後に脳溢血で亡くなっている。睡眠薬を常用している作家に、自殺者の多いことは注目されてよい。
さて、坂口安吾の薬物依存とファルス創作には関係があるのだろうか。
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「風と光と二十の私と」
数ある安吾の傑作の中で、一番好感の持てる作品は「風と光と二十の私と」ではなかろうか。これは題名の通り、20才の彼自身を中心にした自伝的な作品である。
安吾は旧制中学校時代に二回落第しているため、仲間よりも二年遅れ20才になってようやく中学校を卒業している。中学を卒業した彼は直ぐに大学には進まず、世田ヶ谷の下北沢にある小学校の教師になった。戦前は、中等学校を卒業すれば、「代用教員」という資格で教壇に立つことが出来たのである。従って、この作品は安吾の代用教員時代を扱った自伝小説ということになる。
そのころ、下北沢は狸や狐が出てきそうな辺鄙なところだった。安吾の勤務した学校は教室が三つしかない分校で、彼はここで五年生七十名の生徒を教えることになった。七十名のうち二十人はカタカナで自分の名前が書けるだけで、ほかには何も出来ない劣等生だった。授業中に軍歌を歌いながら兵隊が通過すると、子供たちはそれを見物するために教室の窓から飛び降りて外に出て行くのだ。安吾はそうした生徒たちを、笑って見ていた。
<本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。私はそういう主義で、彼等が仮名も書けないことは意にしなかった(「風と光と二十の私と」)>
安吾は分校に通うために、学校の近くの下宿屋に移った。下宿の娘は二十四五才の二十貫もありそうな大女で、これが猛烈に安吾に惚れ込み、彼の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて呂律が廻らなくなり、顔の造作がくずれて目尻がとろけるようになる。そして、そわそわして、落付なく喋るかと思うと、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったりする。彼女は、彼の部屋にだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持って来た。
安吾は這々の体で下宿屋を逃げ出して、分校主任の家の二階に引っ越すのである。
分校主任は六十ぐらいだったが、精力絶倫の男だった。四尺六寸という畸形的な背の低さにもかかわらず、横にひろがった隆々たる筋骨を持ち、鼻髭で隠しているがミックチであった。非常な癇癪もちで、やたらにまわりの者に当りちらす。小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年生受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。腹が立つと女房をブン殴ったり蹴とばしたりして暴れ回る。
当時の安吾は全くの超然居士で、悲喜哀歓を超越して、行雲流水のごとく生きようとしていたから、分校主任が何と言おうと平然としていた。平然としているといえば、一年生担当の老教師も同じだった。彼は娘を世田ヶ谷市内の小学校の教師にしていた。娘は結婚したがっている。だが、老教師はもう少し稼いで家に金を入れてからでないとダメだと言って、結婚を許してやらない。親娘はこの問題で始終もめ続けているから、彼は学校に来ても毎日その話しをするのだ。
「イヤハヤ、色気づいてウズウズしておりますよ」といって、老人はアッハッハと笑うのである。
生徒たちも、問題を抱え込んでいた。「風と光と二十の私と」という作品は、個々の生徒について語るときに最も精彩を放ち、彼らの問題の本質を解き明かすときに最も明敏な冴えを見せる。
牛乳屋の息子の田中という生徒は、朝晩自分で乳を搾って配達していた。
彼は一年落第したそうで、年は外の子供より一つ多い。腕っぶしが強く外の子供をいじめるというので、安吾は着任早々、分教場の主任から特にその子供のことを注意されている。だが、田中は非常にいい子供だった。安吾が乳をしぼるところを見せてくれと云って遊びに行ったら、彼は躍りあがるように喜んで安吾を歓迎した。田中は、確かに時々人をいじめたが、ドブ掃除だの物の運搬だの力仕事というと自分で引受けて、黙々と一人でやりとげてしまう。「先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね」
と可愛いいことを云う。こんな可愛いい子がどうして札つきの悪童だと言われるのだろう。第一、字が書けないということは咎むべきにとではないのである。要は魂の問題だ。落第させるなどとは論外だと安吾は思った。
男の子の問題より、女生徒の抱えている問題はもっと深刻だった。たとえば、鈴木という女生徒がいた。
彼女の姉は実の父と夫婦の関係を結んでいるという隠れもない話であった。そういう家自体の罪悪の暗さは、この子の性格の上にも陰鬱な影を落しており、友達と話をしていることすらめったになく、浮々と遊んでいることなどは全くない。いつも片隅にしょんぼりしており、話しかけるとかすかに笑うだけなのである。この子からは肉体が感じられなかった。
石津という娘と、山田という娘がいた。安吾はこの二人は生理的にもう女ではないのだろうかと時々疑ったものだが、石津の方は色っぽくて私に話しかける時などは媚びるような色気があった。が、そのくせ他の女生徒にくらべると、嫉妬心だの意地の悪さなどは一番すくなく、やがて弄ばれることになるふくよかな肉体を持っているだけの少女だった。これも余り友達などはない方で、女の子にありがちな、親友と徒党的な垣をつくるようなことが性格的に稀薄なようだった。そのくせ明るくて、いつも笑ってポカンと口をあけて何かを眺めているような顔になる。
山田の方は豆腐屋の子で、然し豆腐屋の実子ではなく、女房の連れ子なのであった。妹と弟が豆腐屋の実子なのだ。この娘はカナで名前だけしか書けないという劣等生の一人で、女の子の中で最も腕力が強い。男の子と対等で喧嘩をして、これに勝つ男の子はすくなかった。彼女は身体も大きかったが、いつも口をキッと結んで、顔付はむしろ利巧そうに見えた。
彼女には、明るさがなく、友達もなかった。野性に満ちているが、色気がない。今は、早熟のごとくだが、大人になれば仲間の女たちに追い抜かれ、一人取り残されて同性に敗北するのではないかと思われた。
坂口安吾は、石津を眺めているうちに彼女を妻にしようかと考えることがあった。
<私は先生をやめるとき、この娘を女中に譲り受けて連れて行こうかと思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙に惹かれるのだが、これがその現実に於けるはじまりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである(「風と光と二十の私と」)>
安吾は代用教員一年ののちに、仏教系の大学に入るために教職を辞めている。教員をしている一年間を、彼は太陽と光と風を感じ続けていたのである。
<私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。
・・・・あの頃の私はまったく自然というものの感触におぼれ、太陽の賛歌のようなものが常に魂から唄われ流れ出ていた(「風と光と二十の私と」)>
太宰治をはじめとして、後年作家となる同時代の若者たちと比較して、安吾の青春がこんなにも明るく健康だったとは全くの話、驚くべきことなのである。
彼は卑俗な教員社会に籍を置き、問題を抱えた教え子たちと接しながらも、人間に絶望していない。同時代の作家志望者たちが、世俗を嫌悪し人間の愚かしさに絶望しているとき、安吾は現実の人間を信頼し、その健全な常識性に脱帽していたのだ。彼の前で太陽は輝き、畑を渡る風は光と香気を運んで来たのである。
しかし彼はまわりの常識人たちと同じ人生を歩む積もりは毛頭なかった。彼は自分に向かって絶えず、「満足してはいけない、苦しまなければならぬ。人間の尊さは自分を苦しめるところにある」と囁き続けていた。安吾には、木や丘や自然も彼に、「不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから」と語りかけているように思われた。
そういう安吾の前には、必ずマドンナが現れるのである。
安吾が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、分校まで彼を案内してくれた女教師がいた。これが驚くべき美しい女性だったのである。こんな美しい女の人はそのときまで彼は見たことがなかったので、「目がさめる」という美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてに聞いていたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人だった。安吾は、その後数年間、この人の面影を高貴なものとして心の底でだきしめ続けるのだ。
「白痴」
安吾の作品で最初に読んだのは、「白痴」だった。とにかく、その読後感は圧倒的で、他の作家が発表している作品など、かすんで見えるほどだった。この作品の印象は、誰にとっても強烈だったらしく、当時の花形文芸評論家だった平野謙も、「白痴」を「戦後第一等の文学作品たることに疑いない」と評している。
しかし、後になって「白痴」を読み返してみると、作品は驚くほど単純に出来ているのである。―――主人公伊沢は大学卒業後新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家になった27才の青年で、これが世間の常識もモラルも存在しない猥雑を極めた陋巷に家を借りて、映画会社に通うことになる。
隣りはキチガイの家だった。
<気違いは三十前後で、母親があり、二十五、六の女房があった。母親だけは正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、強度のヒステリイで、配給に不服があるとハダシで町会へ乗込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった(「白痴」)>
ある幸多き年のこと、気違い男が白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、そのとき四国のどこかで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房をつれて戻ってきたのだった。
気違いは風采堂々たる好男子であり、度の強い近眼鏡をかけ、常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしていた。白痴の女房はこれも名門の娘のような気品を備え、稀に見るほど美しい容貌をしている。だから、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養深遠な好一対にしか見えない。
伊沢が隣家の三人を興味をもって眺めているうちに、奇妙な事件が起きるのである。
冬の寒い夜、伊沢が会社から遅くに帰宅してみると、家の中の様子が何となくおかしい。そこで彼が押し入れの戸を開けたら、積み重ねた布団の横に白痴の女が隠れていたのだ。女のたどたどしい説明を聞いてみると、彼女は姑から叱られて家を逃げ出し、伊沢の借家に窓から入り込んだのであった。
伊沢は、さしあたり今夜は女をここに寝かすことにして布団を敷いてやったが、ものの一、二分もすると女は布団を抜け出して部屋の片隅にうずくまり、寒さのためにぶるぶる震えている。
「どうしたの、何もしないから安心して眠りなさい」
と言ってやると直ぐ布団に入る。が、しばらくするとまた布団から抜け出て部屋の隅で震えているのだ。三度目になると、女は押入れにはいり、中から戸を閉めてしまった。伊沢は、自分のことをそれほど信用しないのかと、いささか感情を害していると、女は意外なことを言い出したのである。
女は、「私は帰りたい、ここに来なければよかった」とぶつぶつ呟いてから、「私はあなたに嫌われていますもの」と言ったのだ。事態は伊沢の考えていたのとは逆だった。女は伊沢に襲われることを心配していたのではなく、伊沢の愛情を期待して忍んできたのに彼が自分に手を出そうとしないので失望していたのだった。
伊沢は女を布団に寝かせてから、相手の頭を撫でながら、人間の愛情は肉体関係によって表現されるだけではないと、言い聞かせる。すると、女は伊沢の言葉を何も理解しないまま、幼児のようにじっとしている。
伊沢は次の日から女を借家の押入れに隠して、出勤するようになった。
女は伊沢と関係が出来てからは、ただ伊沢を待ち設けているだけの存在に変わっていた。二人の間に、会話は全く成立せず、性交渉をしているときにだけ、ようやく人間としての繋がりが生じるのである。
そんな日々を過ごしているうちに、四月十五日の東京大空襲の夜がやってくるのだ。
借家の周辺に焼夷弾が雨霰と落ちてくるのを見て、伊沢はこれが最後の夜になるかもしれないと覚悟をきめ借家を捨てて脱出する。彼が女の肩を抱き、水に浸した布団をかぶって逃げ始めた頃には、まわりはすっかり火の海になっていた。
伊沢が、「死ぬときは二人一緒だよ。俺から離れるな」と命じると、女はごくんと頷いた。
<その領きは稚拙であったが、伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、ただ一度の答えであった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。二人は猛火をくぐって走った(「白痴」)>
伊沢と女は、地獄の劫火を思わせる火の海のなかを走って、雑木林にたどり着き、そこで二人の道行きはおわるのである。伊沢は、疲労のあまりその場で寝てしまった女を眺め、夜が明けたら女を起こして本格的なねぐらを探さなければならないなと考える。「白痴」はそこで終わっているのである。
──話は実に簡単に出来ていて、白痴の女が主人公の家に転がり込んで来たこと、その女を連れて主人公が空襲の劫火を逃れて雑木林にたどり着いたこと、この二つのエピソードで構成されているだけである。伊沢が女と結ばれるポルノ的な場面も完全に省略されているから、小説としての面白みは皆無に近い。
にもかかわらず、この作品は読者に圧倒的な衝撃をもたらすのだ。その理由は、白痴の美女を押入れに隠して暮らす独身男というシチュエーションの異常さによるかもしれないし、女を連れて火の海の中を逃げ惑う場面描写の卓抜さによるかもしれなかったが、やはり彼の人間を見る目の確かさによるのである。
次に読んだ安吾の作品は、「堕落論」と「日本文化私観」で、この二つから受けた感銘は、「白痴」の場合よりもずっと大きかった。「堕落論」では、特攻隊員が戦後闇屋になったり、夫を戦場で失った「靖国の妻」が新たに恋人を持ったりするすることが堕落だというならば、大いに堕落すべきだと安吾は強調していた。そして「日本文化私観」では、法隆寺などの文化遺産の保存に血道を上げる代わりに、新時代の美に注目すべきだと説いる。
彼は、愛国者・貞婦というような虚名にたぶらかされて、人間本来の喜びや欲求を放棄することの愚かしさをズバリと指摘する。そして法隆寺や古美術品など実用に適しないものに恋々とする美意識を捨てて、現代の工業製品の中に宿る美への目を開けと勧告する。
坂口安吾は、作家には珍しい徹底した合理主義者であり、機能主義者であり、実質主義者だった。人間を見る場合にも、社会通念に縛られることなく、その内実を、実質を見るのである。この姿勢は現代人に対してだけでなく、歴史上の人物を見る場合にも適用される。安吾史談がユニークで痛快なのは、彼が通説に依らず、徹底した合理主義者の目で歴史上の人物を見るところから生まれている。
こういう安吾がどうして薬物依存に落ち込んだのだろうか。そして、どうしてファルスと銘打つ悪ふざけの駄作を延々と書き続けたのだろうか。
安吾の謎は、そればかりではない。彼は、なぜ女流作家矢田津世子との不毛の恋愛にあれほど身を焦がしたのだろうか。
坂口安吾全集を読んでいると、次々に疑問が浮かんでくるのである。
6
坂口安吾が、生涯に何人かのマドンナに恵まれたという表現は当たらないかもしれない。「恵まれた」のではなく、マドンナを必要としていた安吾がマドンナ的な女人を自ら創り出していたといった方が正しい。彼にとって、最初にマドンナは腹違いの義姉であった。
安吾は、大地主の家に生まれている。父親は県会議長から衆議院議員に転身した新潟県でも指折りの政治家で、同時に新潟米穀株式取引所理事長・新潟新聞社長を兼ねる事業家でもあった。安吾は自分の家について、「私の家は大金満家であったようだ。徳川時代は田地のほかに銀山だの銅山を持ち阿賀野川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果たして私が物心ついたときはひどい貧乏であった」と書いている。
借金で首が回らなくなったのに、坂口家の広大な邸内には書生や食客がごろごろしており、たくさんの女中・下男がいたから、主婦の苦労は並大抵ではなかった。おまけに安吾の母は、先妻の子供三人のほかに、自身で生んだ九人の子供と夫が他所の女に生ませた女児一人を引き取って、併せて13人の子供を育てていたから、ひどいヒステリーになっていた。安吾によれば、母の怒りと憎しみは十二番目の子供である安吾一人に集中していたという。安吾が早熟な腕白小僧だったからである。
事実、安吾は早熟な子供だった。
<私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熟読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。
・・・・私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。
・・・・夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。(「石の思い」)>
母と憎み合いながら、実は安吾は母を深く愛していた。彼は、「私ほど母を愛していた子供はなかった」と自伝の中で自信を持って言い切っている。
安吾は、母がハマグリを食べたいと言ったのを耳にして、その日は暴風だったにもかかわらず、荒れ狂う海に出かけてハマグリを取って来たのだった。だが、母は安吾が命がけで取ってきたハマグリを見向きもしなかった。安吾は母を睨みつけ、痩せ我慢の肩をそびやかせて自室に閉じこもった。すると、この一部始終を脇から見ていた義姉が、そっと彼の部屋に忍んできて、安吾を抱きしめて一緒に泣いてくれたのである。
この義姉は、先妻が遺していった三人の娘の一人で、姉二人が義母を憎んで毒殺の相談をしている時に、彼女だけは義母に憎まれながらも義母を慕っていたのだ。
安吾は「石の思い」の中にこう書いている──「私は母の違うこの姉が誰よりも好きだったので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかった」
安吾が、子供の頃からマドンナを必要としたのは、彼が幼い頃から屈折した内面を持っていたからだった。坂口安吾は太宰治、田中英光などと並んで破滅型の作家に数えられている。だが、彼には青空や太陽、正義と愛を目指す剛直な向日性があって、その意味で彼は極めて男性的な作家だった。戦後に、彼が「堕落論」や「白痴」をひっさげて登場し、人々に強い衝撃を与えたのも、このギラギラするような向日性のためだった。
しかし、安吾は、行動的な世界を描きながら、行為の後の悲哀や、事果てた後の空しさに触れずにはいられない作家だった。彼は中学時代にテストの際、白紙答案を出して意気揚々と教室を出て行く自分を描写する。だが、そのあとでこう書くのである。
「私は英雄のような気取った様子でアバヨと外へ出て行くが、私の胸は切なさで破れないのが不思議であった」
安吾は、明るいもの健康なものを目指して直進する「陽」の世界と、それとは 裏腹な行動に伴う自虐と悲哀の世界を表現する。そして、彼は自分の文学が自虐と悲哀の世界を基軸に構築されていると説くのだ。
彼は周囲の人間を評価する時にも、悲しみを知るかどうかを基準にしていた。相手がどんな著名人でも、人の子の悲しみを知らない場合には本能的に反発してしまう。その点で、安吾の父は、まったく人の悲しみをしらない人間だった。安吾は父親を、「幼い心を失っている」哀れな人間だと語っている。そして、「私は先ず第一に父のスケールの小ささを泣きたいほど切なく胸に焼き付けているのだ。父は表面豪放であったが、実はうんざりするほど小さな律儀者であり、律儀者でありながら、実は小さな悪党であったと思う」と断罪し、父を自分とは関係のない「うるさい奴」「威張りくさった奴」と突き放してしまうのだ。
表向き活発に見えながら、裏に回れば悲しさと切なさでいっぱいになっている少年には、自分を支えてくれる母性的なマドンナが必要だったのだ。安吾にとって、義姉は彼を静かに見守っている、優しくて高貴な存在だった。彼がそういう義姉を思慕すると、そのことで彼の生命が高みに方向付けられ、矛盾する様々な欲求や感情がその形のままで鎮められるような気がした。
義姉の死後に、安吾と母の関係が変化している。彼と母は、家族の中で最も親しい関係になったのである。安吾は母と同居し、母の最後を看取っている。安吾は、母の死後も母のことを折あるごとに思い返していた。安吾の妻が書いた「クラクラ日記」には、次のような記事が見える。
<十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。
「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(「クラクラ日記」)>
この日記を読むと、禁断症状の苦しみの中で、安吾は母親のイメージに取りすがっている。何時しか安吾の内部で母のイメージが変化し、マドンナ近いものになっていたのである。
安吾と矢田津世子の恋愛が不毛なものに終わったのも、安吾が津世子をマドンナ視して動きが取れなくなったからではなかろうか。
7
これまでに述べようとしてきたのは、坂口安吾という作家の二面性についてだった。
安吾はおのれの信じるところを率直に語る男性的な作家だとされて来た。確かに、彼は大河が一気に流れ下るような力強い調子で、エッセーや小説を書いているけれども、箸にも棒にもかからない悪作も多く、この秀作と悪作の対比が彼の二面性を反映しているように思われるのである。安吾に限らず、すべての作家に失敗作はある。が、彼ほど多くの失敗作を量産している者はいない。たとえば、「吹雪物語」である。安吾ファンを自称する読者でも、この長編小説を最後まで読み通したものは僅かしかいないのではなかろうか。
奥野健男は、「吹雪物語」が読みにくい理由を安吾が時間の流れや因果律を無視した書き方をしているからだと説明している。安吾作品のうちで一度読み始めたら止まらなくなるものは、彼が合理主義者として因果関係と論理をしっかり押さえた書き方をしている作品なのだ。ところが、「吹雪物語」をはじめとする多くの悪作は、物語が時間軸に沿って進行せず、登場人物が原因・結果の法則を無視した奇怪な動き方をするから、読者はついて行けなくなるのである。
雑誌編集者として多くの作家とふれあった古山高麗雄は、安吾の人間的印象について、「安吾は他の作家にはない、強烈な独特な雰囲気を感じさせる作家であった」と書いている。それは安吾作品を読んだときに感じる強烈な迫力を、そのまま生身の人間に移して視覚化したように思わせるものだったという。
接するものに男性的な精気を感じさせる安吾の性格には、ひ弱な下部構造があり、そこにおびただしい感情や情念が未整理のままに温存されていて、これが作品に露頂すると見るも無惨な悪作になる。安吾が「切なさ」とか「悲しみ」というような言葉を頻繁に使用するのも、自身の感情を整理されていないからだ。
こういう混沌状態にある内面に方向性を与えてくれるのが、(「聖母」という意味での)マドンナなのである。安吾が子供だった頃の義姉、成長してからの母、代用教員時代の女教師、新進作家時代の矢田津世子などは、彼が憧憬の目を向けたマドンナだった。安吾が作品の中で彼女らへの賛歌を歌いあげると、不思議に作品に安定感がうまれ、まとまりが出てくる。雑然とした安吾の感情がマドンナ思慕という上位感情の下方に位置づけられ、それぞれにところを得たような印象を与えるからだ。
自伝的な作品を含むすべての安吾作品に見られるのは、女性に対する激しい侮蔑の念であり、「白痴」に登場するヒロインは、彼が抱いている女性像を象徴するものだった。安吾は、女性には自己愛と淫欲があるだけで、世の中についても人間についても白痴に近いほど無関心だと見ている。だから、聖性を感じさせる女性に出会うと無条件で引きこまれ、そのイメージを抱きしめていると、安吾は自分が高められたような気になったのだ。
安吾が初めて矢田津世子に会ったのは、ウインザーという酒場だった。安吾はその出会いについて、「私と英倫(注:安吾の友人の加藤英倫)とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった」と書いてる。
安吾は、一目見て矢田津世子に恋した。
矢田津世子は色白で背が高く、男顔をした美女だったといわれる。彼女の兄は、第一高等学校から東大に進んだ秀才で、津世子も兄に似て聡明な才媛だった。初めて安吾の家を訪れた津世子は、フランスの小説本を忘れていった。これを見て安吾は、彼女が彼との関係を深めるためにわざと忘れていったのではないかと、思い悩むことになる。
二、三日後、安吾のところに矢田津世子から、「遊びに来てほしい」という誘いの手紙が来る。喜び勇んで津世子宅を訪問すると、津世子の母親も出てきて歓待してくれる。話をしているうちに、矢田家の親戚が安吾の実家の近くに住んでいること、そして、その親戚と安吾の父が親しいことも分かってきた。
安吾は書いている──「私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされてくつろいでいた」
津世子と親しくなった安吾は、彼女に誘われて同人雑誌「桜」に加入し、その面でもつきあいを重ねるようになる。この時点では、安吾が新進作家として注目されているのに対して、津世子は新聞や雑誌に短文を書いている程度で、まだ作家としては認められていなかった。従って津世子には、世に出るために安吾の力を借りたいという気持もあったと思われる。その点では、津世子には前科があるのである。
安吾は知らなかったが、矢田津世子は「時事新報」の社会部長和田日出吉の愛人になり、日曜ごとに既婚者の和田と密会していたのだ。その上、彼女は女流作家の大谷藤子と同性愛に近い関係を持っていた。
だが、津世子は和田との関係も、大谷との関係も、深刻なものにならないように配慮していた。和田は津世子と結婚するために妻との離婚を考えていたが、津世子はそうした和田に同意しなかったといわれるし、津世子に惚れ込んだ大谷がレズビアンとして肉体関係を望んだが津世子は拒否したといわれる。
こうした風評を耳にした大岡昇平は、矢田津世子を「札付きの女流作家」と呼び、彼女は東京で有名な文壇ゴロと情事を持ち、作家として売り出そうとしているため「トイフェル(悪魔)」と仇名されていると書いている(以上は「評伝 坂口安吾」七北数人著による)。
「評伝 坂口安吾」の著者七北数人は、津世子と親しかった作家たちが一致して彼女は非常にストイックで生真面目な性格だったと証言していることを記した後で、次のように述べている。
<安吾はすべてを捨てても惜しくないほど惚れていたようだが、矢田のほうは「作家」坂口安吾を尊敬し、互いを高め合う関係を求めていたように感じられる。常に物静かで宴会でも全く羽目をはずすことがなかったと伝えられる矢田には、溺れるような恋愛はできなかったのかもしれない。>
津世子が、「互いを高め合う関係を求めていた」というのは疑問がある。安吾によれば、宿泊を伴う旅行を求めてきたのは津世子の方であって、その提案に応えることを安吾は回避しているからだ。「互いを高め合う」ことを望んでいたのは安吾の方だった。津世子宛に書かれた安吾の手紙に色恋のにおいはほとんどなく、「お互いに励まし合いましょう。勇気と光を失わないように、力をつけ合って、うんと勉強しましょう」というような文面ばかり並んでいる。
安吾と津世子がプラトニックな関係を続けているうちに、文壇における二人の立場が逆転し始めるのだ。安吾が停滞している間に、津世子への評価が高くなり、芥川賞の候補になったり、作品集がベストセラーになったりし始めたのである。
8安吾が矢田津世子と出会ったとき、安吾26才、津世子25才だった。そして、二人が別れたのは安吾30才、津世子29才の時だから、交際期間は4年ということになる。しかし二人の交際には、3年に及ぶ長い中断期間があるので、交際期間は実質1年しかなかった。
安吾は当初、矢田津世子を「弥勒菩薩」のような女と考えており、彼女が時事新報の和田部長の愛人だと分かってからも、まだ相手を「聖なる娼婦」と「聖」づけで呼んでいた。こんな具合に彼が津世子をマドンナ扱いしている段階では、二人の関係はプラトニックな関係を超えたものになる可能性はなかった。
津世子に手を出せなかった彼は、もっと気安くつきあえる女性を求めて遍歴を重ねている。吉原のバーで知り合った女給や坂本睦子、そしてお安と呼ばれる女たちである。バーで知り合った女は、安吾の表現によると、「お人好しで、明るくて、頭が悪くて、くったくのない女」だった。女は、素っ裸になって体操するかと思うと、突然安吾に抱きついてゲラゲラ笑ったりした。
彼女は女給になる以前、バスの車掌をしていた。メーデーか何かの折りに、女子労働者が赤旗をかついで練り回るのが羨ましくて車掌になったけれども、おつりの出し入れをするのが面倒くさくなって辞めてしまったという女だった。彼女は、矢田津世子とは正反対の女で、安吾はそうした相手のバカバカしいほど明るいところに惹かれたのである。
坂本睦子は、小林秀雄や河上徹太郎に求婚されたという文壇で有名なバーのホステスであり、大岡昇平の「花影」のヒロインである。彼女が自殺したときには通夜に多くの作家たちが集まり、その席上で大岡昇平は人目をはばからず大泣きをしている。安吾も、この女と関係を持っていたのだ。
お安はバーのマダムで、別れた夫との間に娘をもうけていたが、当時まだ離婚していなかった。そんな女と安吾が同棲したのも、矢田津世子を忘れたい一心からだった。安吾がこれらの女たちと関係を持っていた期間、安吾は津世子と一度も会うことなく過ぎている。
安吾が津世子と再会するのは、彼がお安と同棲していたアパートを引き払って母の住む蒲田の家に戻ってからだった。彼が帰宅して数日後に、津世子が訪ねてきたのである。
<すると、その三日目か四日目ぐらいに、あの人が訪ねてきたのだ。四年ぶりのことである。母の家へ戻ったことを、遠方から透視していたようであった。常に見まもり、そして帰宅を待ちかねて、やってきたのだ。別れたばかりの女のことも知りぬいていた。
・・・・あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。
あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。テーブルをはさんで椅子にかけて、二人は睨みあっていた。
私は私のヒゲヅラが気にかかっていたのを忘れない。その私にくらべれば、矢田さんは一っのことしか思いこんでいなかったようだ。やがて私をハッキリと、ひときわ睨みすくめて、言った。「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」(「三十才」坂口安吾)>
安吾は気圧されながら答える。
「僕もあなたを愛していました。四年前、キチガイのように、思いつづけていたのです」
すると津世子は、「四年前に、四年前に」と変にだるそうな口調で繰り返した、「なぜ四年前に、それを仰って下さらなかったのです」──こうして二人は再び往来するようになったが、彼らの交渉は一ヶ月しか続かなかった。二人の立場は逆転し、安吾は忘れられた作家になっていたのに反し、矢田津世子は盛名をはせる人気作家になっていたからだ。
四年前には、安吾の母も津世子の母も、二人が結婚するものと予想し、そうなることを望んでいた。だが、安吾と再会した津世子には、もうその気がなくなっていた。彼女は久し振りに再会した安吾と顔を合わせるたびに、あなたは才能があるのだから、とか天才なんだからとかいって励ますのだが、安吾には相手が彼の将来性に疑問を持ち、そして彼の貧しさを嫌悪していることを知っていた。
<三十の矢田津世子は武装していた。二人で旅行したいなどとは言わなかった。私も言わなかった。二十七の私たちは、愛情の告白はできなかったが、向いあっているだけで安らかであり、甘い夢があった。三十の私たちは、のッぴきならぬ愛情を告白しあい、武装して、睨み合っているだけで、身動きすらもできない有様であった。
あの人も、大人になっていたのだ(「三十才」坂口安吾)>二人は、ものの30分も対座していると、10年も睨みあっていたようにへとへとになった。別れるときの津世子の顔は老婆のように疲れ、やつれていた。安吾は、津世子をタクシーに乗せて送り出すとき、彼女が鉛色の目を彼に向け、もう我慢が出来ないというようにその目を閉じてしまうのをハッキリと見た。
この日まで、安吾は矢田津世子の存在によって生かされていたのだった。彼女を生命の火として生きていたのである。だが、安吾が夢に描き、恋い焦がれていた矢田津世子は、最早どこにもいなかった。
彼は津世子をこの世で最も不潔な魂を持った女だと考えようとした。その不潔な女をさらに辱めようとして、津世子とは逆の高貴な魂を持った聖女を思い浮かべようとすると、いつの間にかその聖なる女が矢田津世子になっているのだ。
再会して一ヶ月ほどしたある日、津世子から安吾宛の速達が届いた。ご馳走したいから、帝大前のフランス料理店に来てくれという内容だった。それを読んだ瞬間に安吾は、二人の関係に決着をつけるために暴力を振るってでも津世子を自分のものにしようと思った。
だが、指定されたレストランに行って食事をしているうちに、安吾は自分の下心が津世子に読まれてしまっていることに気がつく。それでも彼は、敢えて引っ越したばかりの菊富士ホテル屋根裏の塔のような部屋に津世子を招き入れた。部屋は狭いので、二人はベットに並んで座るしかなかった。そこで彼らは生涯で一度だけの接吻を交わすのである。
この接吻について、安吾は、「 彼女の顔は死のように蒼ざめており、私たちの間には、冬よりも冷たいものが立ちはだかって(いた)」と述べている。相手が接吻されながら 死人のように何の反応も示さなかったことで、安吾は二人の関係が完全に終わったことを知ったのである。
すべては終わり、なにもかも元に戻らないのだ。安吾は、津世子が帰った後で、絶交の手紙を書いた──ということになっている(実際には、絶縁の手紙が津世子の方から来たので、安吾はもう一度だけ会ってほしいと懇願し、それが容れられなかったために、彼からも絶交の手紙を送ったらしい)。
近藤富枝の「花影の人」によると、この時期に津世子は次のようなメモを書き残しているという。
「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。
そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」
安吾と津世子が別れたのは、昭和11年のことで(津世子はその8年後の昭和19年に結核のため死去している)、安吾が津世子との恋愛をテーマにした「二十七才」を書いたのは、彼女との別離から11年後の昭和22年のことだ。そして「二十七才」の続編「三十才」を書き終えた昭和23年頃から、安吾のアドルムとヒロポンの服用が深刻化し始めるのである。
安吾が矢田津世子について書いたことと、彼の薬物依存が始まったことの間に関連があると言えば、牽強付会の説になる。しかし、私はそんな風な想像をして見たいのである。
坂口安吾は常識の所有者だったので、薬物依存が何をもたらすかを十分承知していた。だから、20代の初めに神経衰弱などの症状に陥ったときにも、薬によることなく意志の力で乗り切ったのである。そういう彼が、10錠が致死量だというアドルムの服用量を増やしていった背景には、死んでもかまわないというような投げやりな心情が生まれていたように思われる。
そして、「死んでもかまわないという心情」が生まれたのには、矢田津世子の思い出が深くかかわっているように思われるのだ。
(追記)
坂口安吾は、天皇をどう見ていただろか。安吾は既成概念や常識にとらわれることなく、すべてを白紙の立場で眺める作家だった。世間が堕落だと糾弾するような行為を、いや、それは人間本来の姿に戻ったに過ぎないと弁護する(「堕落論」)。わが国が誇りとする法隆寺などの文化遺産についても、いずれは滅びる古いものに執着するよりも、次々と生まれてくる新時代の建築美に目を向けたらどうかと勧告する(「日本文化私観」)。
こんな具合に彼は、われわれの周囲に張り巡らされた習慣的な物の見方や偏見を取り払い、事態をありのままに、「事実唯真」の目で見て行く。天皇制についても、彼は「戦争論」というエッセーのなかで、こう説明するのである。「政府は国民を統治する方便として天皇を担ぎ出したに過ぎないのに、民間では天皇を狂信の対象にして、軍国暗黒の時代に走ってしまった」と。
先日、安吾の全集を読んでいたら、「天皇陛下にささぐる言葉」というエッセーが見つかった。この評論は、敗戦後暫く表に出なかった天皇が国内各地を巡遊して国民の熱狂的な歓迎を受けるようになった昭和23年に発表されたもので、「天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない」と書き出すところから始まっている。
当時は、まだ天皇を神聖視する見方が色濃く残っていたから、天皇を迎える各地の狂奔ぶりは常軌を逸していた。天皇が通過する道筋は、塵一つ無いまでに徹底的に掃き清められ、東北の某県では天皇が宿泊することになった旅館の従業員全員の検便まで行っている。この検便の仕方がまた物凄いもので、排出された便ではなく、肛門内に匙を差し込んで直接に直腸内から便を採取して調べるというものだった。
こうした騒ぎを皮肉って、雑誌「真相」は、顔の部分を箒にした天皇の写真を掲載した。そして「天皇はホウキである」という見出しを付けたから、保守層は不敬罪だ何だと大騒ぎをした。この頃には、偶像破壊運動も盛んで、皇居前で開催されたメーデーには、「朕ハタラフク食ッテイル。汝臣民飢エテ死ネ」というプラカードが出現したりしていたのだ。
こんな時代相を背景に、安吾は、「人間の値打ちというものは、実質的なものだ」という主張を打ち出すのである。天皇という虚名によって尊敬を集めようとしても、無理な相談というものだ。にもかかわらず、「宮内省」は天皇服をこしらえて天皇に着せたり、天皇に「朕」という一人称をしゃべらせたりして架空の威厳を作り出し、天皇を一般の人間よりも格上げしようと腐心している。
安吾はズバリと言うのである。
──「実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはただ、架空の威厳によって愚弄され、風刺され、復讐を受けるばかりである」
天皇も天皇なら、これに熱狂する国民も国民だと、彼は天皇を迎えて沿道にひれ伏す国民にも苦言を呈する。
──「地にぬかずくのは気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがいどもの人気を博し、歓呼の嵐を受けている。・・・・・天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである」
安吾は、「人間関係というものには、それぞれの個人の有する実質によって決まるノーマルなものと、権力が介入して虚構された人間的実質によらないアブノーマルなものがある」と考えていた。天皇と国民の関係は、人工的に作為された不自然なものだから、国民は狂信的に天皇を仰ぐか、逆に不当に天皇を侮蔑するか、いずれかになる。
こういう不自然な状況をあらためるには、天皇と国民の関係を普通なもの、ノーマルなものに切り替えるしかない。安吾は、次のように提言する。
「 天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ」
坂口安吾は無頼派の作家と言われ、異端の言説で名をはせたと思われている。しかし、彼は常に当たり前なこと、ノーマルなことしか言っていないのである。現在、マスコミを賑わせている皇太子妃の問題も、安吾が提言するように皇室と国民の関係を普通の関係に戻せば自然に解決する筈なのだ。
最後に、安吾は次のような未来図を描いている。
「陛下は当分、宮城にとじこもって、お好きな生物学にでも熱中されるがよろしい。そして、そのうち、国民から忘れられ、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう、そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう」