愛国有罪

10年ばかり前、翻訳小説を読んでいたら、「朝鮮人、日本人、中国人は、互いに憎み合っている」という一節が目に入って来た。今では、その小説の題名も覚えていないし、この言葉がどのような文脈の下に出てきたか思い出すことも出来ないけれども、日本・中国・朝鮮の人間が互いに憎み合っているとする外人作家の言葉は記憶に残った。

もし東アジアの三つの国が、相互に憎み合っているとしたら、それはこの三国がそれぞれに優越感を抱き合っているからだろう。戦前の日本は、自国を「大日本帝国」と呼び、中国は「中華民国」と呼んでいた。戦後独立した韓国は「大韓民国」と自称している。こうした名前の付け方にも、それぞれの国のお国自慢的な優越感情があらわれている。

なかでも中国人の優越感は飛び抜けていて、昔から中国は世界の中心に位置する指導的な国家だと自認していた。中国周辺に散在する国の人民は「化外の民」(まだ教化されていない野蛮な民)だから、中国文化の恩恵を施してやらなければならないと考えていたのである。

その中国から見れば、日本は遠い田舎にあるちっぽけな村落国家だったのである。魏志倭人伝以来、中国人は、日本を「倭国」という蔑称で呼んできたし、近代になって日清戦争で敗れてからも、日本に対する軽蔑の感情は消えなかった。日中戦争の前に来日した周恩来は、その日記に「中国人は口を開けば日本を<襤褸(ぼろ)の邦>と蔑んでいるが、そうした評価を改めなければならない」と書いているという。

戦後、中国人は戦勝国民として、敗北した日本を上から見下ろすようになった。反日デモの群衆が、口々に「小日本」と叫んで街を練り歩いているのを見れば、現代中国人の胸に、日本を「倭国」と呼んで軽視する意識が今もなお残っているように見える。

江戸時代まで日本の方でも中国を師父の国と仰いでいた。
日本の支配階級は政治哲学として、また個人的な処世哲学として儒教を指針にして生きて来たし、庶民が信仰する仏教も中国を経由して伝来した「中国化された仏教」だった。明治に入ってからも、事情は変わらなかった。わが国の生徒たちは学校で「論語」を学ぶにあたって、「子曰く」を「子のたまわく」と読んでいたのである。

文化面で日本に対する優越感を持っているという点は朝鮮人も同様で、戦後、日韓の歴史学者が集まって共同研究をはじめたら、韓国の歴史家が自国の文化的優越性をあまりに強調するので日本側の学者は皆辟易して共同研究は自然消滅したという話がある。

日本の古代文化は、すべて朝鮮からの渡来人の指導下に形成されたというのが、あちら側の言い分なのである。戦後の教育現場で「渡来人」という言葉が使われるようになったのも、韓国側が「帰化人」と言い習わしてきた日本に抗議したためだ。韓国の国定歴史教科書も、だいたいこの線で編集されているという。

在日の朝鮮人が、なかなか日本に帰化しようとしないのも祖国に対する誇りを抱いているからだろう。日本の保守的な政治家や学者は、すぐれた「歴史と伝統」を持つ国は日本だけだというような言い方をしているが、歴史的には日本は中国・朝鮮に教えを乞うてきた新参者なのである。

中国人・朝鮮人の反日感情には、貧弱な「歴史と伝統」しか持たず、従って文化面で劣る日本が自分たちを出し抜いて近代化に成功し、軍事強国になって自国を侵略したことに対する怒りがあるのだ。台湾の民衆が戦後になっても日本に親近感を持ちつづけているのは、彼らが日本を凌駕する文化を持っていなかったからだ。そのため彼らは、日本に対する優越感情を、言葉をかえれば日本を蔑視する感情を、持っていなかったのである。

私は別に自国の文化に対して誇りを持つことを否定しているのではない。
それらが、愛国心を燃え立たせ、加速させる素材になっているから困るといっているのである。自分が生まれ育った郷里や国を愛するのは、自然発生的な感情なのだ。改めて学校で教育する必要はない。

自分の国が他国の植民地になったり、侵略されたりしたら、人は武器を取って立ち上がるだろうし、いかなる平和主義者も、こうした愛国的な行動を否定することは出来ない。だが、今はそんな時代ではないのである。平和の到来した現代の東アジアにおいて、意図的に愛国心を煽る人間は、為にすることのある獅子身中の虫なのだ。

その点で、反日教育を強化した中国の江沢民や、国旗国歌を強制する東京都教育委員会は厳しく糾弾されなければならない。ナチス・ドイツも、日本も、そうした愛国キャンペーンを繰り広げた結果として、自国に敗戦の憂き目をもたらしたのである。

20世紀以降、世界各国は複雑な利害関係で結ばれるようになり、昨日の敵は今日の友、今日の味方は明日の敵になる状況にある。こういう時代には、政府は広角の視野をもって外交案件を処理し、常に外交上のフリーハンドを確保しておかなければならない。

一時的な利害関係に目を奪われて、特定の国を仮想敵にして民衆の愛国熱を煽れば、短期的な状況にすぎなかったものを固定化することになり、フリーハンドの手を自ら縛って選択肢を狭めてしまう。戦前、ナチス・ドイツと同盟を結んでソ連を敵にした日本は、同盟国のドイツがソ連と不可侵条約を結んだために途方に暮れ、時の平沼騏一郎内閣は「世界情勢は複雑怪奇」という声明を出して総辞職に追い込まれている。

本当に聡明な政治家は、国民の愛国心を煽るかわりに、これを人類愛の方向に導いて行く。成熟した国家とは、狭い愛国主義から抜け出して、国政の基軸をヒューマニズムに置く国なのだ。

江戸時代の庶民は、愛国心というようなものを全くと言っていいほど持っていなかった。彼らはただ家内安全と商売繁盛しか考えていなかったのだ。日本人が愛国心に目覚めるようになったのは、明治維新を経て後進国から中進国に発展してからであり、国民教育が普及してはじめて国益なるものを意識するようになってからだ。人々は、家内安全・商売繁盛を国に結びつけて考え、自国を強大にすれば個人の生活も豊かになると考えるようになったのである。

かくて日本人は富国強兵政策を支持することになったが、やがてこの方針の落とし穴に気づくようになる。政府は軍備を増強し、ほとんど10年おきに対外出兵を繰り返し、国民の経済的負担が耐え難いほど大きくなったのだ。

そうやって国民に犠牲を強いて朝鮮を植民地にしたり、中国の権益を侵したりしたが、経済的な見返りは乏しかった。朝鮮経営などは結局日本側の持ち出しに終わり、得たのは日本に対する朝鮮民族の憎悪だけという収支決算に終わった。

多くの先進国は同種の苦い体験から、帝国主義や富国強兵策を放棄している。そして第一次世界大戦後、諸国は相前後して国際協調主義に転じ、政府が愛国心を鼓吹するような愚かなことをしなくなったのだ。第二次世界大戦が終わると、さらに進んで人類全体への連帯感を抱くようになり、祖国愛を売り物にするデマゴーグは完全に活動の場を失った。

集団への愛は、人類全体、生きとし生けるもの全体にまで及んで初めて安定する。祖国への愛は行き止まりの愛で、ともすればわれわれを反生命的な行為に導くのだ。

TVに映し出される韓国の反日運動を見ていると、カッターナイフで自分の胸から腹にかけて×印の傷をつけた若者が出てきたりする。傷は浅くてバラの棘でひっかいた程度のものでしかないが、彼らは上半身裸になってこの傷跡を誇示しながら声高にスローガンを叫ぶのである。こんな光景を目にすると、理屈抜きでイヤな気持ちになる。

今回の竹島問題では、日本に抗議するために小指を切断する「愛国者」が出ているという。伊藤博文を暗殺した安重根は、同志と共に薬指を切断して誓いを固めたと聞いているから、こうした自傷行為は韓国の伝統になっているかもしれない。しかし、これもあまり気持ちのいい話ではない。

人間には、利己的意識と人道的意識という二層の意識がある。郷土愛や祖国愛は、つまりは利己的意識に他ならない。われわれは、本能的な自国愛のほかにエゴを超えた人道意識を持っているから、他国の人間の行き過ぎた「愛国的行為」を見ると不快に思うのである。この不快感の出所は、こちらの側に対抗的な愛国心があるからではない。自らの人道意識に背を向けて、愛国の名において陰惨な自傷行為を快とすることへの不快感なのだ。

久しぶりにTVタックルという番組にチャンネルを回したら、民主党の西村という代議士が、「日本人は、みんな朝鮮人が嫌いなんだ」と断定しておいて、竹島に韓国人が上陸しようとしたら、そんな船は自衛艦で撃沈してしまえと放言していた。この番組は、西村代議士だけでなくこうした暴言を吐くゲストを意図的に集めている。番組製作者は、彼らを客寄せパンダとして利用しているのである。

こんな番組が人気を集めているのだから、日本はとても成熟した国家とは言えない。精神的に幼い点で、日本はまだ中進国の段階にとどまっているのだ。

放言を得意にするのは西村代議士ばかりではない。中川経産大臣や中山文部科学大臣、石原東京都知事など、公職にある政治家も競って過激な発言を繰り返している。

日本人は、中国や韓国に対して「われわれは、公式に謝罪しているではないか。何度謝ればいいんだ」と反発している。だが、在野の人間ならいざ知らず、公職にある有力政治家が保守票を目当てに無反省な暴言を重ねているのだから、中国人、韓国人が怒るのは当たり前である。「日本国総理大臣によるあの公的な謝罪は一体何だったのか」ということになるのだ。

中国・韓国で反日運動が燃えさかっているのは、首相の靖国参拝、教科書検定問題、閣僚らの失言、憲法改正運動など政府与党の動向と、これを支持しているかに見えるマスコミや一部国民世論に対する反発からでだ。つまり彼らは右傾化する日本に反発しているのである。

この右傾化する日本が、無反省にも国連安保理の常任理事国になろうとする「身の程知らずの野心」を起こしたのだから、彼らの怒りは頂点に達した。そして、彼らの怒りを背後から支えているのが先に述べた自国文化への優越感情であり、その裏返しとしての対日蔑視感情なのだ。

こうした感情は中国・韓国だけでなく、シンガポールをはじめ東南アジアの各国にも共通していることを日本人は知らなければならぬ。東南アジア諸国の人々は、日本への恨みの感情を今も持ち続けている。彼らは、アメリカが日本に原爆を落としたことを肯定しているし、日本が中国の反日デモに抗議しても冷淡に黙殺している。欧米の諸国が日本に同調して中国を非難するのとは、全く逆の態度を取っているのだ。

過去の歴史に対する日本の反省が足らないと思っているのは、中国・韓国ばかりではないのである。

新聞を見ていたら、不思議な広告が目についた。「週刊新潮」が、中国の反日デモを暴走させた犯人は誰かという特集記事の広告を載せていたのだ。見出しは、「<朝日>が立派に育てた中国<反日暴徒>」となっている。

新潮社系の雑誌は「新潮45」から「週刊新潮」にいたるまで、そろって中国非難の右寄り記事を掲載して来ている。リベラル嫌いの右派出版社というのが、新潮社に対する世間の見方なのである。従って、常識的には中国の「反日暴徒」を育てた戦犯は、「新潮45」や「週刊新潮」ということになる。

その「週刊新潮」が、日中友好を説いてきた朝日新聞を戦犯に指名したのだから呆れる。これは放火犯が自分のやったことに口をぬぐって、火を付けたのは消防署のおじさんだとふれまわるようなものである。

この週刊誌はイラクで3人の邦人が人質になったときにも、やれ自己責任だ、救出費用を払えと騒ぎ立てた前歴を持っている。その厚顔無恥ぶりが今回のように自らの非を他になすりつけるところまで来ると、開いた口がふさがらないのである。

私は朝日新聞が、あちこちに気を遣って微温的な口の利き方しかしないことを物足りなく思っていた。だが、悪意に満ちた攻撃記事を売り物にする週刊誌が朝日新聞を標的にして悪口雑言を浴びせているいるの見ると、この新聞を積極的に擁護しなければならないと考えるのだ。

世界が一体化し、各国が国際協調主義を取っている時代に、為政者が民族的優越感や愛国心を鼓舞することは百害あって一利もない。すべての国は、自制して愛国教育を止めなければならない。現代は「愛国有罪」の時代なのである。

日・中・韓のうちで、日本は一歩先んじて経済的に「先進国」になったのだから、利己心に根ざす祖国愛のようなものを早く精算して、人類愛に向けて舵を切る必要がある。繰り返すけれども、日本は心理的には未だ「中進国」の段階にあるのだ。

右傾化する日本の次期総理候補に、小泉首相よりさらに右寄りの安部晋三の名前があがっている。安部晋三は、反北朝鮮、反中国のキャンペーンを続ければ国民の支持を得ることが出来ると考えている。だが、彼がいかに頑張っても、戦後の日本に根付いたヒューマニズムや平和主義を完全になくしてしまうことは不可能なのだ。

人類愛の世界に浮揚した人間が、最早、愛国主義のレベルに立ち戻ることはあり得ないからだ。

韓国が独善的な愛国主義に走る危険性はあまり多くない。問題は言論統制を敷いている中国なのである。

中国では、新聞もTVも政府の厳重な監視下にあって、国民は自らの意志を表明する場を失っている。だから、中国人はインターネットに殺到する。中国人の心に巨大なマグマのような反日感情がある限り、インターネット上の反日サイトが消えることはないのだ。

今回の反日デモの背後には、全国組織があるのではないか、学生らはその指示に従って行動しているのではないかという疑念がある。しかし、消息通はいずれもこうした推測を否定している。

インターネット上に無数に生まれる反日サイトが、「勝手連」式に横に連合して実行したのが今度のデモなのだ。アナーキストは、共産党の権力集中方式に反対して、運動の基本を自由連合方式に置いている。中国の反日勢力は、インターネット上に自然発生的に生まれた小組織を横に連ね、アメーバ風の運動体を作って活動している点で、アナーキズムの自由連合を思わせる。

反日勢力は、統一組織を形成していないから力が弱い。だが、それ故にいくら弾圧されても反日を目指すアメーバ組織は直ぐに復活する。中国人の反日感情が解消しない限り、日本を敵視する運動の終わることはないのである。

中国の反日運動にいきり立って、日本側が対抗手段を講じたら日中の対立は泥沼化してしまう。ここは一歩退いて日本が、度量を示すべきところである。

日中の対立を収束させる唯一の方法は、日中双方が学校教育の場で、愛国心ではなく人道精神を教えることである。方法はこれしかないのだ。

追記

小学生だった頃に、学校で偉人や勇士の話をいろいろ聞かされて、子供なりに感動したことがあった。それらの話には、敵の鉄条網を破壊するために爆薬を抱えて突入した日本兵に関する話(爆弾三勇士)や、赤十字を始めたナイチンゲールの話があった。

今考えてみると、日本のために戦死した勇敢な兵士の話には興奮を伴う強い感動を覚え、ナイチンゲールの話にはそれとは異なるもっと静かな感動を覚えたような気がする。愛国説話を受け入れる受容層と人類愛を受け入れる層が子供の頃から、別々に存在したような気がするのである。

次に引用するのは、幸徳秋水の同志だった石川三四郎の「小学教師に告ぐ」というアピールである。東京都教育委員会の皆さんに読んで頂きたいと思う。

諸君の事業は人民の教育にあり、而して国家は国家の為めに其人民を教育せんとするも、人類として之を教育せんと欲せず、一国の民を造らんことを欲する也、

世界の子を造らんことを欲せず、小なる××道徳を教えしめて大なる博愛道徳を斥く、

而して前の小なる教育を棄てて彼の大なる教育を施さんとするものあれば、直ちに国賊の名を以て放逐せらる、諸君の職務は実に斯の如きものなり、諸君の職務は人類を完全ならしめんが為にあらずして、之を不具ならしめんが為に存する也

追加(2)

この小論をHPにアップしたら、反論のメールが寄せられた。メールを寄せてくれた方は、私が自分でも言い足りないなと思い、もう少し補足しなければと考えていたところを的確に指摘した上で、ご自分の意見を披瀝されている。ここに問題のメールをそのまま紹介して、私の補足意見を追記することにした。

初めまして
つねホームページを愛読している××と申します。

日本人が日本にナショナリズムを超えた人道主義を
教えることは可能でしょう。
そしたら
日本人の立場で
中国や韓国の国民に
そういうナショナリズムを超えた人道主義を
主体的に中国や韓国に伝える方法論がありますか?

私は詰まらんナショナリズムも持って利巧も馬鹿もいて人類、
知性も愚昧も一つの球の光が当たった面、影の面
全部ひっくるめて全体
という思想を持っています。

自分の主体的な(自分の都合による)努力で
他人を賢くしようというのは
実はとても不遜な態度ではないか、と考える人間です。

馬鹿同士だから、馬鹿同士の付き合い方を模索する。
それは
相手の馬鹿を教育しよう、とする態度そのものが
ある意味
”不遜な越権行為”という認識を持っているからです。
理念を口にするのは簡単です。
しかし、かなり具体的な改善への方法論がないなら、
治療法が存在しないのに「あなたの病気は癌です。
あとは死ぬだけです」と言うだけ言って
責任を取らない医者と同じものに感じられるのです。

異論反論いただけるなら。


××さん

私の敬愛する友人が、朝日新聞の購読を止めると言い出したので、その理由を尋ねたことがあります。すると「投書欄が気に入らないからだ」という返事でした。

投書欄に掲載される読者の意見が、良識に富んだご立派なものばかりだから腹が立つというのですね。人間には光の部分と影の部分があり、公正な面もあれば利己的な面もある。ところが、朝日の投書家たちは、まるで自分には影の部分も利己的な面もないかのように、模範的な意見ばかり述べたてる。彼らのいい気なご高説を聞いていると寒気がしてくるというのです。

この友人は、自分の善意を疑わない「良心的な人間」を嫌悪しています。××さんも、これと同じような感覚を持っているのではないでしょうか。あなたは、「他人を賢くしようというのは、実はとても不遜な態度ではないか」と書いておられます。

人間は皆、間違いばかりを犯している愚かな存在です。そうした馬鹿な人間が、たがいにぶつかりあい、むつみ合って生みだした世論の方が、エリートの立派な名論卓説より事理にかない、まっとうな内容を備えているというのも確かな事実でしょう。

実は、私もそうした考え方の所有者で、ヘーゲルとともに「現実的なものは、理性的なものだ」と考えている人間です。自然に放置しておいたときに生まれる世論こそ、真なるものと考えるけれども、その自然発生的な世論の中には、朝日新聞投書欄式の意見も含まれています。私の友人が嫌悪する自称良識家の意見も、まっとうな世論の構成要素のひとつなのです。

われわれは利口ぶったインテリの理想論より、人間の愚かしさを温かく見守り、自らの失敗をユーモラスに語る苦労人の話に耳を傾けます。

しかし、皆が目障りな名論卓説を排除して、現世肯定的な意見だけに耳を傾けていたら、世の中おかしくなっていきますよ。日常的な世界とは別の世界から降ってくる閃光のような意見がないと、かのローマ帝国のように社会全体が腐敗して崩れてしまう。別次元から降ってくる閃光のような意見とは、例えば隣人愛を説くイエス基督の教説であり、欲望の放棄を説く仏陀の言葉です。こうした言葉が人々を震撼させる時に、はじめてダルな世の中が覚醒する──。

朝日新聞の投書欄には、良識派のイヤミな発言が多いかも知れない。でも、そうした発言によって守られ維持されて来たもの(ヒューマンな部分)がありはしないか。××さんは、一切合切をこき混ぜた総体としての社会を受け入れるという立場を取っておられる。私も同意見ですが、昭和初期のエログロ全盛時代が軍部の台頭を招いたことなどを考えると、朝日新聞投書欄式の良識を排除した自然放任主義は危険だと思いますよ。社会全体が右傾化しつつある今こそ、こうした意見を大事にすべきではないでしょうか。

××さんが一番言いたいのは、中国や韓国に愛国主義教育を止めさせることが必要だとして、日本にそんな力があるかということですね。私は日本にそうした力があるとは思っていないし、そのようなことを書いてもいません。

日本や韓国には、とことん愛国主義に転落する以前に自律的に反転する能力があると思います。韓国の大統領は「人類普遍の道義に反している」という立場から、日本の反省を促しています。「人類普遍の道」とはヒューマニズムのことであり、人類愛のことですね。小泉首相の発言より、韓国大統領の声明の方がずっと調子が高いですよ。

中国に自律的な反転能力があるかと言えば、これはあまり期待できません。しかし、一国主義的独善的な政策を推し進めて行けば、いつかは世界全体と対立して手痛いバッシングを受けることになります。世界という坩堝は、非人間的なものを焼き滅ぼして人類を平和共存の方向に導いて行きます。人類の歴史は、このことを明白に示していると思うのですが、いかがでしょう。

世界には、成熟した国もあれば、そうでない国もあります。北欧諸国やオランダなどは世界の先頭を行く成熟した国家です。こうした國が生まれたのは、世論が学校教育の内容をヒューマンなものに変えたからです。すると、その教育が愛国主義的偏向を許さない世論をつくる。学校と世論が相乗効果を保てば、成熟社会はさらに進歩していきます。

私は放っておいても世界はいい方向に動いていくと考えるものです。中国の江沢民路線は、そう長くつづかないでしょう。日本の右傾化もいずれストップすると思います。日本と中国が不毛の対立をやめるには、双方の世論が変わらなければなりません。そして、その好転した世論を持続させるには、どうしても教育の力が必要です。

真理は、力に頼ることなく自己を実現して行きます。その真理を教えるのが学校です。蒙昧が何時までも続くことはありません。


××さんの再反論

「真理は、力に頼ることなく自己を実現して行きます。その真理を教えるのが学校です。蒙昧が何時までも続くことはありません」

本当にそうなのでしょうか?

私は真理が自己を実現する過程で新たな蒙昧が生まれる

常にそれは更新され、光は闇を探し続け、また闇も光が過ぎ去った

あとにひっそりと出現し続ける。

真理も蒙昧も更新され続けるものではないか、と考えています。

思想信条はホームページに縷縷書き綴っておりますので

http://www2s.sni.ne.jp/mococo/index.htm


××さん

「蒙昧がいつまでも続くことはない」とした私の説は、言葉足らずでしたね。あなたの「真理が自己を実現する過程で新たな蒙昧が生まれる」というご意見の方が正論ですね。

戦争中の日本は愚昧が満ちあふれていて、その馬鹿馬鹿しさは今の北朝鮮の比ではありませんでした。戦後になって大佛次郎は「帰郷」という小説に、「戦争中はくだらない人間が威張っていて不愉快だった」と書いています。戦争中は、くだらない人間が、馬鹿なことをいえばいうほど国民の人気を博するといった妙な時代でした。

最近の日本も、何だか戦争中に似てきました。ハマコーのような人物がTVに出て居丈高な態度で暴言を吐けば、同席した代議士たちが競って「先生、先生」とたてまつり、視聴者も面白がって拍手するという時代になりました。

戦争が終わって、進駐軍の手で日本は民主化されたけれども、日本の民主化には「真理の自己実現」という要素があったと思います。その証拠に、進駐軍が去って、右派勢力が復活し反転攻勢をかけて来ても、日本人はあくまで戦後民主主義を守り通しましたから。

だが、戦後民主主義が徹底される過程で、これに反対する新しい蒙昧があらわれて来ました。三島由紀夫をその事例として持ち出すと反撥をかうかもしれません。けれど、彼などは、あまりに輝かしい真理の光に反撥して、反真理の闇を作り出そうとした人間の一人だったことは間違いないと思います。

この点についてもっと大きな事例をさがせば、キリスト教教団や仏教教団の成立ということがあげられます。イエスも釈迦も教団の世俗化に反対し、既成教団を相手に激しく戦いました。既成教団が民衆の愚昧を利用して俗信を増殖させていたからです。

イエスと釈迦は、既成宗教とは異質の新しい真理を述べ伝えたのに、その弟子たちは教団組織という闇を再び作り出した。祖師が死を賭してたたかった悪を、平然と再構築したのです。

初期の仏教は、髪の美醜を論じないために剃髪し、衣服の美を求めないようにするために墨染めの衣など単色の僧衣を身にまといました。そして、葬祭儀礼などに関わるまいと自戒して、ひたすら修行に励んだのです。だが、今や仏教は葬式仏教になり、僧侶は金襴の衣装を着込んで檀家を訪れるようになりました。

真理は、新たな蒙昧を生みます。
でも、その蒙昧は真理出現以前の蒙昧とは少し違っているのではないでしょうか。

三島由紀夫の後継者たちは、三島に倣って現代日本人の堕落を非難するが、三島のように天皇を神格化することもないし、自衛隊を利用してクーデターを起こそうともしません。彼らは民主主義がもたらす人間精神の衰弱を批判して、新時代の「国士」たらんとしているだけです。

キリスト教、仏教の教団組織も、教祖が戦った既成教団組織よりも合理化されています。現代の教団が民衆の愚昧に寄生している点はかわりないとしても、教団内において純粋な求道者を保護しているし、聖典の保管所という役割も果たしています。

つまり、教会や寺院、そしてそれを統括する教団組織は、胡桃の殻みたいなものですね。それらは、迷信と俗習、偏見と蒙昧でこりかたまって硬化しているものの、その殻の中には祖師以来の教説と精神がひっそりと保存されているのです。

民主主義は反民主主義思想を生み、人間救済理論は教団組織という闇を生み出します。こうしたことは過去に何度となく繰り返されてきたし、未来においても永遠に繰り返されるでしょう。埴谷雄高のいう「永久革命論」というのはこれですね。でも、その闇や愚昧は、過去にあったものの単純な再現ではないと思いますよ。

ゲーテは「ファウスト」の中で、悪は善を生み出す触媒だという意味のことを言っています。人間の愚かしさも、人を真理に導く触媒の役割を果たしています。そして真理がひとつ明らかになれば、次に生まれる蒙昧は前よりも高次な愚かしさ(?)になる。こうして人間は愚かしさを先導役にして、少しずつ賢明になって行くと思うのですがいかがでしょう。

あなたは、人間の愚かしさには更新されつづけるものがあると考えておられるようです。例えば「情痴」というような本能に根ざす愚かしさは不変だと考えているかも知れない。だが、権力者が多くの女性を独占していた古代社会と現代では、情痴の形が変わってきています。現代では権力で女性を我がものにしようとすればセクハラとして指弾されるため、愛情などで欲望を偽装しなければなならなくなった。同じ情痴でも昔より知能犯的になり、愚かしさの程度が以前よりレベルアップしています。

愚かしさには、どうにもならない極端なものと、比較的程度の軽いものがあり、後者は真実に向かう契機をうちに含んでいます。

愛情なき性的関係が否定されるようになったのは進歩であり、真理が自己実現して行くケースの一つと言えるでしょう。だが、あまりこの点を固執しすぎると新しい形の蒙昧に落ち込む危険性があります。ゲイ・タリーズという評論家は、「汝の隣人の妻」という本で、セックスをコミュニケーションの一種と考える解放された社会を描いています。次世代では、こうした一切の禁忌から解放されたフリーセックスが主流になるかもしれません。

今日では制御不能と考えられているところの本能に起因する情動も、その不合理な部分や愚かしい部分を少しずつ解消しつつあります。そしてなお残る不可変部分も、フロイト風にいえば昇華作用によって変形して原形をとどめなくなる可能性があります。それには何万年という時間が必要かも知れないけれど、人類はそうした方向に向かって確実に歩んでいると思うのです。

・・・・話は変わりますが、あなたのHPを面白く拝見しました。
画廊の絵を眺めていたら「弥勒」と題する作品があり、それが卵の顔をした背広姿の男になっているので、アレと思いました。

(この卵頭は何だろう)と思って、さかのぼって前の作品を見て行ったら卵の一部が壊れて内部を覗かせている絵がありました。

卵のなかには宇宙が描かれています。卵は「宇宙卵」であり、すべての人間は宇宙卵を蔵しているという比喩だったのですね。

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