高校の教師になる
作家志望の同僚教師
私が就職したのは、東京の下町にある中学・高校併設の私立学園であった。レッドパージが吹き荒れている時代に、学生運動に参加していた私のような人間が東京の学校に就職できたのは僥倖といってよかった。
就職口がきまると、それ迄下宿していた松戸市の知人宅を引き払って、そこから程近い東京のはずれの田舎に移った。同じクラスの友人が世話をしてくれたのである。私が引越したのは、田んぼの中にある精米屋の物置であった。米俵や諸道具の置いてある階下から、ハシゴで二階にのぼると、梁がむき出しになった屋根裏があり、ここへ古畳を四枚ばかり敷いてねぐらにしたのである。真っ直ぐに立てるのは中央の部分だけで、壁際では背をかがめないと頭が屋根につかえるという大変なところであった。
精米屋の主人は、勘定高い男だという近隣の批評に反して、この物置の二階をただで私に借してくれた。気がむいた時に、その家の子供の勉強を見てくれたら、それでいいという条件であった。
勤務先の学校は、教職員三十名内外、生徒は男子だけで数百名という小規模校だった。社会科の研究室には、新卒で赴任して来た若い教師がもう一人いて、私はこのYという青年と毎日、机を並べて暮すことになった。Yは作家志望であった。空き時間には、まるで皆に見せつけるように机上に原稿用紙をひろげ、せっせとペンを走らせていた。
「目覚し時計で頭を殴りつけたらどうなるかな」
と私に話しかけてくることがある。私が訳を聞くと、
「今、女が男に抵抗するところを書いているんだ。目覚し時計で殴ったら、男は参っちまうかな」とたずねるのである。
私は約一年間、Yの生活を隣りの席からつぶさに眺め、作家をこころざす人間の表裏を知った。それは物悲しいものであった。早く世に出たいという野心、書くべきものを持たない不安、それを隠蔽するための虚勢、文学的才能という実体の不明瞭な観念に呪縛されて身を誤って行く青年の夢と現実がそこにあった。Yはハッタリの多い男だったが、自分の生き方に当然つきまとう周囲からの反感や侮蔑を、じっと凌いで来たしたたかな強さがあり、そこが常人にない彼の魅力になっていた。学生時代の最後の一年間を、ほとんど小説を読まずに過した私は、Yに刺激されて文学書を手にするようになった。
私の生活はすっかり変ってしまっていた。政治運動から一切手をひき、左翼的文書はもちろん、普通の新聞・雑誌の購読さえやめてしまったのだ。ラジオを持たず、学校へ行っても新聞に手を出さないでいる私は、自分で自分を社会から切り離してしまったも同然であった。政治活動をやった反動で私はすっかり人間嫌いになっていた。貝が貝殻の外に出していた触手を引っこめて蓋をとざしてしまうように、私も自分の内側に閉じこもったのだ。私は自分の生活を古本屋から買って来た文学書とベルクソンを読むことだけに限定してしまった。
私立高校も一種の「ノアの箱舟」であった。公立高校と違って、ここには他校との人事交流はない。一度ここへ流れついて荷をおろした人間は、再びそこを出て別の舟に乗り移る訳にはいかないのだ。みんな外社会から隔離された閉鎖的な空間の中で、退職するまで仲良くやって行くしかない。そのせいか、三十代、四十代の教師は不思議な位親密であった。彼らは互いに柔らかな微笑をかわし合いながら、他面では同僚を凌ごうと熾烈な競争を演じていた。
生徒達もおとなしくて世馴れていた。大多数の生徒は、気に入らない教師がいても、それに反抗したり、イヤがらせを試みたりすることがなかった。教師から注意されても、ニャニヤ笑って聞き流し、放課後になるとさっきと下校して、仲間の家に集ってマージャンなどに興じる。生徒指導に関する職員会の主要議題は、どうしたらもっと学校生活に関心を持たせることができるかということだった。生徒達は、時折、話のわかりそうな教師を誘ってマージャンの仲間に加え、教員の噂を聞き出した。だが、それを聞いてどうしようという訳でもない。ちょっと気分を変えてみるだけなのだ。彼らは感情的にも既に大人であり、私などより、ずっと世間を知っていた。こういう生徒達に今更何を教えることがあろうか。彼らは十分に満足しており、この世を楽しむすべを知っているではないか。
一カ月もして学校に慣れてくると、隣席のYは辛辣な口調で同僚のだれかれを批評しはじめた。彼は小説を書いている人間だけが持っ観察力で、そして、そういう人間だけが持っている相手の面皮を剥ぐような痛烈な表現で、同僚を片っ端しからやっつけて行くのだ。彼への風当りは私に対するよりも強く、それだけに腹に据えかねるようなことが色々とあるらしかった。こういうYに接していると、私の方はいよいよ醍めた表情をおもてに出すことになるのであった。
「教員稼業を世に出るまでの腰掛け仕事といった顔をされたら、みんな腹を立てるのは当然だよ」
と言って私は彼をなだめた。
同僚と対立し、生徒と喧嘩をし、やたらに浪費を重ね、傑作を書く書くと言ってちっとも書けないでいるYを目の前にしているお蔭で、私はそれを裏返しにした沈着な生活態度を保つことができた。私は授業が終ると、さっさと学校を後にした。途中で本屋に寄り、それから電車に乗って、家路につくのだ。電車を降りて、下宿に着くまでに野菜畑が打続く田舎道をニキロ歩かねばならない。
キャベツ畑にモンシロ蝶が粉雪を散らしたように群がっている。菜の花が、こんなに鮮やかな黄色をしているとは知らなかった。ふと、道を変えて歩いているうちに、大きな貯水池に出ることもある。堤の上にのぼっ
てみると、青い空が広い水面に映って合わせ鏡を見るようだった。下宿に着くと夕方まで本を読み、食事を済ますと又続きを読んだ。屋根裏は静かだった。実際、静かな部屋で、天井には数匹のコウモリが棲みついている位だった。コウモリ達は、昼夜開け放しにしてある窓から、夕方餌を求めてとび立って行くのだ。
私は少し前に文壇に登場した大岡界平の作品を愛読していた。その頃、大岡が文芸雑誌に発表していたのは、動員を受け、兵営に入り、輸送船でフイリッピンに赴き、捕虜になり、収容所に入れられ、帰国し、小説を書きはじめるまでの彼自身の生活記録であった。彼はほとんど潤色をまじえないで自分の体験を語っていた。彼の手法は、事実を正確に叙述し、これに対して判断を直角にぶつけ、それを交互に繰り返して全体を構成して行くスダンダール風のものだった。実に明晰な作品であった。
大岡の作品を読んでいて私の一番気に入ったところは、「海上にて」という作品の中で作者が自らの過去を追想する場面だった。大岡昇平は、フィリピンに向かう輸送船上にあった。彼は前途に死が待ち受けていることを知っている。彼は自分の過去を時期別に区分し、その一つ一つをゆっくり時間をかけ、丹念に検討して行くのである。全部の検討をおえた後、彼は要するに自分の人生は大したものではなか
ったと断定し、これから犬死をしに戦場に赴く自分を許容するのだ。それはまるで、役者が舞台の上で、鮮やかにミエを切るところを見るようであった。確かに、そこには文学的な気取りやポーズがあり、坊っちゃんヤクザか仁義を切るような軽薄さもなくはなかったが、とにかく彼は自分自身の主人であろうとするエピクテートスの弟子であった。彼は自分を完全に掌中におさめ、いさぎよく服すべきものに服し、宇宙的善と呼んだらよいようなものの実現をめざして行動している。大岡昇平は、大きな善を実現するために、小さな自己を何時でも引き渡す覚悟を持っているのだ。彼の作品の魅力は、そういう彼の道義的公正さに起因しているのである。
冬休みが過ぎた頃から、Yは経済的に窮地に立ったらしく、無理な借金を方々からしはじめた。Yが窮迫するのはある意味で当然で、東京に実家があるのに彼は下宿しており、しかもその下宿を頻繁に変えるのである。彼は旅行に出たり、女を買いに出かけたり、私などには想像もできないような生活をしていた。
彼は作品を書こうとあせり、むやみに野心ばかり先行させているが、実は書くべきことがまるでないのだ。そこで彼は自分の体験をふくらませることを無意識に求めて、ああした「愚行」を重ねているのである。だが、女を買ったり、借金したりすることが、小説を書く何かの足しになるのだろうか。私は彼に一番必要なことは、原稿用紙をすっかりかたずけて、実家に帰って孝行息子になることだと思った。そして弁当を持って毎日キチンと学校に通ってくれば、書くことも自然に浮んでくるだろうと思った。
私の貰っている月給はYと同額だった。私は給料を貰うと、袋から出して机の引出しに入れておき、必要に応じて上から金を一枚ずつ出して使っていた。翌月の給与もその上に重ねて行くうちに、残額に残額が重なって、引出しの中の金額は何時の間にか予想外のものになっていた。こうなったのは、私が金を惜しんだからではない。家賃がただだった上に、私には格別ほしいと思うものがなかったからだ。
私は学生時代から、腕時計というものを持たなかった。教師になってからも、教室で手前に座っている生徒に残り時間をたずねなから授業をしている癖に、腕時計を購入しようという才覚はついに起らなかった。その他、万年筆やライター、櫛やポマード、若い男が持っていそうなものは私の身辺に皆無であった。だが、それらがないから不便だと思ったことは一度もない。
あの頃の私は所持品に限らず、食べるもの着るものに対して完璧に近いまでに無関心だった。「未来」についても、何も望むところはなかった。私はいずれ私立高校をやめて別の学校に移る積もりではいた。しかし、それは遠い将来のことであった。私はあの時期に外に対して求める気持が皆無だったから、あんなにも幸福だったのである。無欲だったから、向こうから幸福がやって来て私をつつみこんだのだ。実際、あの頃は病気をしていても幸福だった。
一時、小康状態にあった病気は、その年の後半から再び動きはじめていた。私はよく原因不明の熱を出し数日間学校を休まねばならなかった。後で考えてみると、これは「シューブ」という現象で、肺の内部に伏在する結核菌の病巣か拡大転移していたのだった。だが、私はそれを、単なる風邪としか考えていなかったから、薬を飲むこともなく、熱がひくまで物置の二階で寝ていた。
屋根裏にたった一つ眼窩のように開いている窓には木の庇がつき、その外側に柿の梢がかぶさっている。一日中寝ていると、なぜか太陽が中空を移動して行く半円形の軌跡がはっきりと感じ取れた。屋根裏の中から太陽は見えない。だから、東の空から出て西に沈んで行く太陽の日周連動がかえって明瞭に脳裏に意識されるのだった。
自分の呼吸音のほかは物音がしない。部屋の中は、まるで水の底のように静かであった。高い熱は続いているが、格別苦しくはない。頭がへんに軽くなったような気がするだけだった。私は何も考えず、経過して行く時間と一体になっていた。そのうちに、水の底に沈んでいるという感じが、今、自分は宇宙の底にあるという感じと入れ換わるようになった。一日中、じっと寝ている私の前後左右に、何処まで続く宇宙空間があった。宇宙が無限遠の深さでひろがっているという寂寥感、宇宙の底に一人ぽっちで横たわっているという孤絶感が胸に迫る。
しかし、不安な感じはなかった。
全身で宇宙を受けとめ、全身で宇宙の実在を感じ、そのことで私はすっかり充たされている。
Yに紹介されて、彼の文学友達に会ったのはその頃だった。「文学青年」にも、こういうタイプの人間がいるのかと認識を改めたという意味で記憶に残っている。Yの友人にしては珍らしく端正な感じのする青年であった。目に沈んだ光があり、浮華なものが全く感じられない。Yもこういう友人を持っていることが自慢らしく、折りあるごとにこの青年を方々に見せて廻っているらしかった。今何か書いているかと質間すると、青年は否定した。そして、自分は特に作家をこころざす者ではないが、死ぬ迄に納得のいく小説を一っくらいは書きたいと思っていると答えた。
私は一人になってから、青年の言葉が、私自身の意識下にある志向を正確に言い当てていることに感動した。絵描きになりたいという子供の頃からの夢と同様、作家たろうと志ざすことは大それた志望として私が自ら禁じているところであった。
しかし、内なる希求は完全に葬り去るべきではない。ろうそくの焔を守って行くように、希望は希望として胸の底にともし続けるべきなのだ。
Yが例の気負った口調で、しかし事もなげに「おれ、今度、アパートに引越してなあ、女と一緒に離すことになったよ」と私に告げたのは学校にストーブの入った頃だった。
彼はその女と旅行先の駅頭で知りあった。女は見知らぬ男にだまされて家から連れ出され、何日か遊ばれた後に、その駅に放り出されてぼんやりしていたのである。相手に話しかけて事情を知った彼は、女を伴って東京へ戻って来ると、直ぐさま知り合いの医院へ女を連れて行った。
「悪い病気を持っていると困るからな、医者に頼んで、ペニシリンをうんと打って貰ったよ」
そのあとでYは女を銭湯に連れて行き、入浴させてから同棲した。その女に関する彼の解説はといえば、「とにかく馬鹿な女だよ。女というだけの女だ」というのであった。私はYが、その魯鈍で人の好い女を、まるで、家畜でも扱うようにあちらこちら引き廻す様子を想像して、笑いをこらえるのに苦労した。
隠遁生活の終り
当時はあまり高く買っていなかったYから、私が大きな影機を受けていたことに気がついたのは、それからずっと後であった。
Yの特徴を一言でいえば、「現実蔑視」ということに尽きるのであった。もろもろの社会的義務を無視し、平穏無事な市民生活を頭から拒否したあとに、彼の「文学的生活」が展開する。実際問題として私は、彼がその放胆な行動によって周囲からの反発・非難を一身に引き受けてくれるお陰で、勤務先で自分に矢玉が当らないことを知っていた。しかし、問題はそれと重なってその背後にあった。私が現実を無視してのうのうと精米屋の物置に隠棲することができたのは、Yの強烈な現実蔑視の姿勢を心理的な支柱にしていたからだった。学校という俗悪な社会を、腹の底から侮蔑し切っている男が身近にいるのを見て、私も安心して自分の中に閉じこもることができたのである。
Yは私に代って私の反俗感情を生きてくれ、無頼な日常を実験してくれた。そこで私も、自分の中にある完全自閉という対極を生きることができ
たのだ。Yの方でも、社会から何も受けないし社会に対して何も与えないロカンタンのような私の生活を目のあたりに見ることで、それとは違う放埒な日々を展開できたのかもしれなかった。気質も性格も相反する青年が親しくなる秘密は、こんなところにもあるのだ。
Yは一年と持たずに学校をやめて行った。彼はいくら金に困っても、私に借金を申込んだことがない。学校をやめて行く時も、その理由を私に話さなかった。後に知ったところでは、彼は生徒から教材費として集めた金をつかいこんでしまったのだった。Yが「石もて追われる」ようにして学校を去って行った頃、私の「幸福な隠遁生活」も終りに近ずいていた。
土曜日の午后、学生時代から使っている鞄に古本屋で仕入れた二・三冊の本を納め、ニキロの田舎道を冬日を浴びながら下宿に帰って行く私は、幸福感で溢れんばかりだった。後年、私はこの時の自分の後姿を頭の中に思い浮べ、自分には帰るべき場所として静謐な屋根裏が確保されていたからあれほど幸福だったのだと考えた。だが、私が帰って行ったのは、屋根裏だったのではない。私はパンを噛りながら読みふける本の中に帰って行ったのだ。本を読む時に立ちあらわれる、光の粒子か靄のようにたちこめた心の玄室に帰って行ったのだ。
本を読んでいると、私の心に燈籠のように輝く「壷中の天地」が現成した。私は内なる「壷中の天地」めざして歩いて行き、土曜の帰途のよろこびはそこのところに成立していたのである。
ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」は、内なる「壷中の天地」を支える型枠のような役割を果していた。この本の中で、ベルクソンは「閉じられた世界」と「開かれた世界」という二つの次元を提出する。「閉じられた世界」は集団意志によって動かされる世界である。社会は自己保存のために、その構成員に道徳的であることを求める。子供達は、親・教師によって様々な徳目の習得を強いられる時に、そう強制しているのはそれら大人達の背後にある巨大な社会だと感じている。
道徳は、生き続けようとする社会の生存意志なのである。だから、それは殺人・盗み・裏切りを無条件で禁止しておきながら、戦争がはじまれば、大量殺人者を英雄として讃美し、敵国から情報を盗んで来たスパイに勲章を与えるのだ。
「閉じられた世界」に生きる人間は、こういう利己的・排他的な集団意志を客観化して眺めることができない。彼らは自分が、集団意志という磁石によって動かされる砂鉄の粉末に過ぎないことを知らないのである。
「開かれた世界」は、対立する民族・国家を超えた人類普遍の世界だ。この世界は私たちに特定の道徳を強制することはない。「開かれた世界」は呼び声としてのみ存在し、人はただ、これに自発的な同意を与えるだけだ。同意を与えた人間だけに、宇宙の呼び声が聞こえてくる。呼びかけに対して、いかに応えて行くかは各人の自由である。開かれた世界に住む人間の行動に、定式はないのである。
私がベルクソンに同感したのは、就職してから育てはじめていた世界対世間という思考枠をベルクソンが拡張してくれたように思われたからだった。戦争中、私が頭の中に置いていた思考の枠組は、世界対国家というものだった。戦争が終るとこの枠組が崩れ、私の内部に反世間感情だけが残った。私は世間がいやでたまらなかった。人々の中にあると、食人種にかこまれているような気かした。自分を取りかこむ気味の思い世間に対し、どういう視座を採用すれば息がつけるか、一生懸命探し歩くことで戦後の学生生活は終ったといってよかった。私は中野重治や中江兆民を読み、「社会的不適応の持続」という処世上のの方針を作り上げて、ようやく楽になったのだった。
学校を出て、私は嫌悪する世間の中で暮すようになった。そしたら、なぜだか知らないか敗戦以来見失っていた「世界」が又姿を現して来たのだ。ベルクソンを読んで、「開かれた世界」という観念に接するに及んで、「世界」の存在はくっきりした形で再び意識に記銘されるようになった。と同時に、「閉ざされた世界」という、言葉を援用することによって、世間に対する私の見方も豊かになり、これに柔軟な概念規定を行なう余裕も出て来た。世間に包囲されていると感じている時には、当の世間を対象化できなかったけれど、世界か再浮上して来て、世間がこれに包まれるようになると、私は世間というものを冷静な目で見ることができるようになったのだ。
世間とは、世界の内部に線で画してこしらえた小さな閉鎖系なのだ。世間的感情も世界を小さく区画する行為に伴って生じる閉鎖的感情にほかならない。たくさんの点の散らばった紙上に私達が円を描きこめば、それまで相互に対等だった点はそれ以後、円に対して特定の座位を持つことになる。位置とかランクとか序列というものは、系を閉じることによって発生する二次的なものでしかない。
私達は円の内部に入ることによって、円を基体として物を見るようににり、円を持続・発展させる人間を高く評価するようになる。円の立場に身を置いて円にとって有用な人物を賞讃し、有害と思われる人間を異化し排除しはじめるのだ。中江兆民は円によって異化され、「奇人」にされてしまったのである。
世界を小さくかこいこまず、ありのままに受容すれば、すべての人がこの世界内で平等になる。私達は世界の全方向から呼びかけられるものになり、全存在と無媒介にまじわる存在になる。山村暮鳥に「或る時」と
いう詩がある。穀物の種子はいふ
どこにでもいい
どこにでもいい
まいてください
はやく
はやく
蒔いてください
地べたの中にうめてください
この「はやく、はやく」という種子の声が、「開かれた世界」からの呼びかけなのである。
世間的人間には、自分の位置しか見えない。位置感情さえ取り除けば、世界の発する声なき声も耳に入り、私達の応答する声も対象に届くのに。屋根裏で本を読む行為も、世界からの呼び声に耳を傾ける行為なのである。
就職して二年目、私は通勤電車の中で、(これではあまり見つともないか)とふと自分をかえり見るような気分になった。私は就職した時に、親がこしらえてくれた背広一着で満足して一年間を過していたのだ。そして、新しい背広を作ろうと思い立った。背広を作ってみると、新しいネクタイもほしくなる。あとは雪崩現象だった。Yシャツを定期的にクリーニング屋に出すようになり、腕時計、ラジオなどを買い揃え、曲がりなりに私立高校の若手教員という格好を付けるようになったのである。
私の幸福な生活が、音を立てて崩壊したのは新しい背広を作ろうと思い立った、その瞬間だった。そう思った瞬間に、私は「世界」を失って、狭苦しい「世間」の中に転がり落ちたのだ。