1990年4月、
『東方』第6号、東方学院発行、p211。



中村 元博士の論文


「極楽浄土にいつ生まれるのか?」


       ───『岩波仏教辞典』に対する西本願寺派からの

                  訂正申し入れをめぐっての論争 ─── 

                                 
中村 元



 
去る平成二年七月二十一日の毎日新聞紙上に次のような記事が掲載された。

  『岩波仏教辞典』に訂正を申し入れ 浄土真宗本願寺派
 
浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺=京都市下京区)は、

岩波書店が昨年十二月に出版した

「岩波仏教辞典』(編集、中村 元・東大名誉教授ら四氏)の記述に不適当な点がある、

として二日、同社に訂正を申し入れた。

とあるが、親鸞は「命終わって浄土に往生して直ちに成仏する」と説いているのであり、

現世でいのちあるうちに成仏する、というのは明らかな誤り

▽「親鸞」の項目で「他力(阿弥陀仏の力)信心による現世

での往生を説き」とあるが、「現世での往生を認めていない」とする学者が多く、

一方の説のみ を記述するのは不適当という。」

  他の諸新聞の関西版にもほぼ同様の趣旨の記事が出たという。

さらに中外日報(七月二十六日) にもいくらか詳しい記事が出た。

 ・・・・・・(略・中外の記事、)・・・・・・

 右の記事が出てから、岩波書店編集部へ幾つも電話がかかって来たが、

それらの大方は次の二 つの特徴があった。

 (Ⅰ)本願寺派からの申し入れに屈してはならぬ。

    辞典の記事を書き改めてはならぬ、というのである。
 
(Ⅱ)電話をかけて来られた人々は、殆んどすべて浄土真宗大谷派(東本願寺)に

    属する方々であった。

  ここに二つの正反対の意見に直面することになったわけである。

 もし教団からの申し入れに耳を傾けるとするならば、

親鸞を開祖と仰ぐ主要な教団すべての意見を聞かねばならぬ。

そうでなければ不公平になる。
 
・・・・・・(略・高田派の意見を聞き、答えとして

【親鸞】の項→他力による現世での往生決定を説き。

【教行信証】→この世での往生決定を説いた、に変えればいいとのコメント)・・・・・・

  以上はどこまでも参考意見である。

結局、決める人は執筆者でなければならない。

そこで執筆者に連絡したところが、次のような手きびしい返事がきた。

「岩波仏教辞典」の場合には個人の項目

  の執筆者の名は公表しない約束になっている。〕
 
『前略
 
 ・・・・・・(略)
 
 私としては文献によっているので、撤回できません。・・・・・・(略)

よろしくおねがいします。

  本願寺派では文献に即して研究しているのでしょうか。

尤もこうした本願寺派の解釈はこれまでの伝統的解釈でしたが。(以下略)』

 この問題について、その後、世間でもいろいろの反響があった。

   ・・・・・・略・朝日新聞への投稿・「信心があれば往生成り立つ」

豊中市 村田善明氏、五六才〔弁護士〕。 

西本願寺総局、「現世往生の見解にひと言」辞典への否定説、中山知見氏。

 『仏教タイムス』本願寺派への批判説。

 『中外日報』投稿、本願寺派への批判説、鳥取県 都田天橋氏。
 
岩波書店の両者の意見を並列して記載するの返答。
 
本願寺派の主張、同派総局公室長 明山孝文氏名の原稿。

本願寺派発行『宗報』記載、内藤知康氏の「未完」の論文。

 曽我量深師の獲信の往生説(『大法輪』昭和三十七/二号。『講義集』岡崎教行)。

 上田義文博士の現生往生説(『親鸞教学』十三、大谷大学真宗学会発行)。

 松野純孝博士の「この世で心が成仏する」説が親鸞の究極の

趣意であったと論証している(『浄土教の研究』永田文章堂)。

雑誌『南御堂』に本願寺派批判説の色々のかたの原稿が記載された。

 本多恵師の本願寺派批判説。

 延塚知道師(大谷大学助教授)「信の一念の現在に〝往生を得る〟」と本願寺派批判説。
 
大谷派の乗永寺住職・松永公英師の本願寺派批判説。

 「浄土真宗親鸞会」の情報部長・浅倉 保氏の本願寺派批判説『中外日報』の記事。

 岐阜教育大学・山田行雄教授を講師としての学習会で本願寺説肯定。・・・・・・



    記

 
「極楽浄土にいつ生まれるのか?」

『岩波仏教辞典』に対する西願寺派からの

     訂正申し入れをめぐっての論争


              
中村 元

 
去る平成二年七月二十一日の毎日新聞紙上に次のような記事が掲載された。

  『岩波仏教辞典』に訂正を申し入れ 浄土真宗本願寺派

 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺=京都市下京区)は、岩波書店が昨年十二

月に出版した「岩波仏教辞典』(編集、中村 元・東大名誉教授ら四氏)の記述

に不適当な点がある、として二日、同社に訂正を申し入れた。
 
 同派の指摘によると、「教行信証」の項目で「この世での往生成仏を説いた」

とあるが、親鸞 は「命終わって浄土に往生して直ちに成仏する」と説いている

のであり、現世でいのちあるうちに成仏する、というのは明らかな誤り
です。
▽「親鸞」の項目で「他力(阿弥陀仏の力)信心による現世での往生を説き」と

あるが、「現世での往生を認めていない」とする学者が多く、一方の説のみを記

述するのは不適当という。」

 他の諸新聞の関西版にもほぼ同様の趣旨の記事が出たという。さらに中外日報

(七月二十六日)にもいくらか詳しい記事が出た。・・・・・・(略・中外の記事、)

・・・・・・

 右の記事が出てから、岩波書店編集部へ幾つも電話がかかって来たが、それら

の大方は次の二つの特徴があった。

 (Ⅰ)本願寺派からの申し入れに屈してはならぬ。辞典の記事を書き改めては

ならぬ、というのである。

 (Ⅱ)電話をかけて来られた人々は、殆んどすべて浄土真宗大谷派(東本願寺

)に属する方々であった。

 ここに二つの正反対の意見に直面することになったわけである。もし教団から

の申し入れに耳を傾けるとするならば、親鸞を開祖と仰ぐ主要な教団すべての意

見を聞かねばならぬ。そうでなければ不公平になる。

 ・・・・・・(略・高田派の意見を聞き、答えとして【親鸞】の項→他力による現世

での往生決定を説き。【教行信証】→この世での往生決定を説いた、に変えれば

いいとのコメント)・・・・・・


  以上はどこまでも参考意見である。結局、決める人は執筆者でなければなら

ない。そこで執筆 者に連絡したところが、次のような手きびしい返事がきた。

〔「岩波仏教辞典」の場合には個人の項目の執筆者の名は公表しない約束になっ

ている。〕

 『前略

  ・・・・・・(略)

  私としては文献によっているので、撤回できません。・・・・・・(略)よろしく

おねがいします。

  本願寺派では文献に即して研究しているのでしょうか。尤もこうした本願寺

派の解釈はこれまで の伝統的解釈でしたが。(以下略)』

 この問題について、その後、世間でもいろいろの反響があった。

 ・・・・・・略・朝日新聞への投稿・「信心があれば往生成り立つ」豊中市村田善明

氏、五六才〔弁護士〕。 西本願寺総局、「現世往生の見解にひと言」辞典への

否定説、中山知見氏。 『仏教タイムス』本願寺  派への批判説。 『中外日

報』投稿、本願寺派への批判説、鳥取県 都田天橋氏。 岩波書店の両者の意見

を並列して記載するの返答。 本願寺派の主張、同派総局公室長 明山孝文氏名

の原稿。 本願寺派発行『宗報』記載、内藤知康氏の「未完」の論文。 曽我量

深師の獲信の往生説(『大法輪』昭和三十七/二号。『講義集』岡崎教務所発行

)。 上田義文博士の現生往生説(『親鸞教学』十三、      大谷大学真

宗学会発行)。 松野純孝博士の「この世で心が成仏する」説が親鸞の究極の趣

意であったと論証している(『浄土教の研究』永田文章堂)。 雑誌『南御堂』

に本願寺派批判説の色々のかたの原稿が記載された。 本多恵師の本願寺派批判

説。 延塚知道師(大谷大学助教授)「信の一念の現在に〝往生を得る〟」と本

願寺派批判説。 大谷派の乗永寺住職・松永公英師の本願寺派批判説。 「浄土

真宗親鸞会」の情報部長・浅倉 保氏の本願寺派批判説『中外日報』の

記事。 岐阜教育大学・山田行雄教授を講師としての学習会で本願

寺説肯定。・・・・・・

 また一読者である入井善樹師より岩波書店あてに次の書簡が来た。

『前略

先般、貴社発行の「仏教辞典」に、西本願寺から改訂の申込の新聞記事に就き、

関心を持って見守っていましたところ、本願寺発行の「宗報」(平成2・八・九

月号)にて貴社への本願寺の主張を知りました。本願寺の主張は全く肉体のわが

身の往生に固執した、親鸞の教示に添わないことを論証して、貴社の訂正は「親

鸞は、信心の心が現生で往生成仏することを説いた」とすべきことを要望します。


    記


 本願寺は「現世において往生が定まるのであって、決して現世において浄土に往

生するのではない」と主張されているが、この主張は信心の事例において間違い

だ。信心は間違いなく、〝現世〟において、往生成仏しているとしなければなら

ない文証を多々捜し出すことができる。

 まず、正定聚(必ず成仏するに定まった位と、浄土からこの世へ帰ってきて迷

いの者を救うという一生補処の菩薩のことである。)は浄土に生まれていなけれ

ば入れないことを、「大経」の第十一・十八・願成就文と第二十二願文(還相の

願)によって学べる。

 ①それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す
                           
(第十一願成就文)

 ②あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心

  回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転

  (正定聚・一生補処の意味と同じ)に住す。
(十八願成就文)

 ③他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究極して必ず一生補処

に至らん。(還相の利他行が誓われた第二十二願)

 このように「正定聚」は浄土の中での利益であり、親鸞が「現生正定聚」と主

張されたことは有名である。そして、親鸞に「命終」に関して二文ある。

①本願を信受するは、前念命終なり。  「即入正定之数」「即時入必定」

 即得往生は、後念即生なり。     「又名必成菩薩也」

               
(『愚禿鈔』、聖全2の四六〇。本派五〇九。大派四三〇頁)

 ②「命欲終時」というは、いのちおわらんとせんときという。・・・・・・金剛心(

  信心)を得たる人は正定聚に住するゆえに、臨終の時にあらず、かねて尋常

  のときよりつねに摂護してすてたまわざれば、摂得往生ともうすなり。  

                (『尊号真像銘文』本、聖全2の五八九。大派五二二。本派五〇九頁)


 ここに「本願を信受する」を「命終」といっている。つまり「即入正定之数」

の中で、「命終」を主張するということは、肉体以外の「現生」に浄土往生が存

在することになろう。しかも親鸞の主眼は、「即往生」とつねに主張されること

から、肉体以外の「命終」に向けられていたということになる。

 『一多文意』や『唯信鈔文意』には、なんどか「即得往生」の「即」の解釈が

されて、今の瞬時と教える。

 ①「即得往生」というは、即はすなわちという。ときをへず、日をもへだてぬ

   なり。
(『一念多念文意』、聖全2の六〇五。大派五三五。本派六七八頁)  
 
②「即」はすなわちという。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらいにさ

  だまるを即生というなり。「生」は、うまるという。これを「念即生」とも

  うすなり。(『一多文意』、聖全2の六一七。本派六九二。大派五四四頁)
                       
 ③「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すいう

  は、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくら

  いにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即得往生」とはもうすなり。

  「即」は、すなわちという。すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬ

  をいうなり。
(『唯信鈔文意』、聖全2の六二五。大派五五〇。本派七〇三頁)

「即」は現生の今である。そして、「即往生」は浄土往生であることを

 ①一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とは、すなわちこれ胎生辺地

  ・双樹林下の往生なり。即往生とは、すなわち報土化生なり・・・・・・この界に

  して入聖得果するを聖道門と名づく、・・・・・・安楽浄刹にして入聖証果するを

  浄土門と名づく。
(『化巻』、聖全2の一五四。大派三三九。本派二九二頁)

 ②また即往生とは、これすなわち難思議往生、真の報土なり。便往生とは、す

  なわちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界・双樹林下往

  生なり。また難思往生なりと、知るべしと。

       (『愚禿鈔』、聖全2の四七八  。大派四五八。本派五四二頁)

 「即往生とは」、「報土化生」「真の報土」とあるから「浄土往生」のことで

、浄土往生した者は「正定聚」に入ったとするのが願文の意であるから、「現生

正定聚」と主張されたのだ。

 ところで、即往生は「現生」とすべきであって、「現世」としては間違いなの

だ。現世、つまり「この界(穢土)」ではなく、浄土において肉体の死後でない

強調が「現生」という、現世という言葉の使い分けではなかったかと推察できる。

 ここで看過してはならないことは、「即得往生」と「横超」が同義語であるこ

とだ。『愚禿鈔』上の「二超」の説明に

  二には横超  選択本願、真実報土、即得往生なり。

      (『愚禿鈔』上、聖全2の四五五。大派四二五。本派五〇二頁)

  「横超」は「即得往生なり」とあるから同義語となり、「即横超」も「即往

生」と同義語として見てゆかねばならないのだ。『尊号真像銘文』に『正信偈』の

「即横超截五悪趣」を説明して

  「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきる

  なりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人はとき

  をへず日をへだてずして正定聚の位にさだまるを即というなり、横はよこさ

  まという、如来の願力なり、他力を申すなり、超はこえてという、生死の大

  海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。             

    
(『尊号真像銘文』本、聖全2の六〇二。大派五三二。本派六七三頁)

 「即横超」とは、「生死の大海をやすくよこさまに超えて、無上大涅槃のさと

りをひらくなり」とあるから、「仏果」を「即」の「ときをへず、日をへだてず

して」得ているとすべきなのだ。そのことは『正信偈』に「已能雖破無明闇」と

あるから、「すでに無明が破られた」と主張することと一致するのである。ここ

で「横超」に関する文を拾ってみよう。

 ①必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪

  趣自然に閉じる。
(『大経』下、聖全1の三一、聖全2の七四。大派五七と二四三。本派五三と二五四頁)

 ②超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截り

  て、自然に閉塞す。
(『大阿弥陀経』聖全1の一六六と聖全2の七四。大派二四三。本派二五   五頁)

 ③一心はすなわち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・

  八難の道を越え、必ず現生に十種の益を獲。

  
         (『信巻』下の「獲信の利益釈」、聖全2の七二。大派二四〇。本派二五一頁)

 ④大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上

  正真道を超証す、かるがゆえに「横超」と曰うなり。

         
(『信巻』下の「横超断四流釈、聖全2の七三。大派二四三。本派二五四頁)

 ⑤「必得超絶去、往生安養国」というは、必はかならずという。かならずとい

  うはさだまりぬというこころなり。また自然というこころなり。得はえたり

  という。超はこえてという。絶はたちすてはなる、という。去はすつという

  、ゆくという、さるというなり。娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえは

  なれてゆきさるというなり。安養浄土に往生をうべしとなり。安養というは

  弥陀をほめたてまつるみこととみえたり。すなわち安楽浄土なり。「横截五

  悪趣悪趣自然閉」というは、横はよこさまという。よこさまというは、如来

  の願力を信ずるゆえに行者のはからいにあらず。五悪趣を自然にたちすて、

  四生をはなるるを横という。他力ともうすなり。これを横超というなり。横

  は竪に対することばなり。超は迂に対することばなり。竪はたたさま、迂は

  めぐるとなり。竪と迂とは自力聖道門のこころなり。横超はすなわち他力真

  宗の本意なり。截というは、きるという。五悪趣のきずなをよこさまにきる

  なり。
(『尊号真像銘文』、聖全2の五七九。大派五一四。本派六四五頁)

 ⑥この一心は横超の信心なり。横はよこさまという、超はこえてという、よろ  

  ずの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆえに超

  と申すなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は摂取のゆ

  えに金剛心となれり。これは本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は

  、願作仏心とのたまえり。この信楽は仏にならんとねがうと申すこころなり

  。この願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなわち

  衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃

  にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。こ

の信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり。                       

    
(『唯信鈔文意』、聖全2の六三二。大派五五五。本派七一一頁

 ①と②から、「五悪趣」は浄土に往生して「超える」と学べる。③からは「一

心」は浄土そのものの「真因」(たね)という。④からは「横超」は獲得の瞬間

に浄土において「無上正道を超証」しているという。⑤から「娑婆世界をたちす

てて、流転生死をこえはなれてゆきさるというなり」と学び、⑥から、信心が「

横超」して「仏果」を得終わったから、信心は「度衆生心」であり、「信楽」は

「衆生をして無上涅槃にいたらしむ心」というから、還相の心ということになる

。つまり「正定聚」とは、「一生補処」の「利他教化地」の還相の菩薩の位をも

含んでいるということになるから、「如来にひとし」「諸仏にひとし」というこ

とになる。ここを『信巻』に『華厳経』を引用して

  この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無上道を成らん、

もろもろの如来と等し、となり。


(『信巻』「信楽釈」の説明文、聖全2の六三。大派二三〇。本派二三七頁)


 「疑いなき者は、速やかに無上道を成る」と言明されているのである。

 「即往生」の主体はなにか。

 現生において、浄土往生成仏していると学んできた。では、わが肉体の生存す

るまま、往生成仏したという主体は何であろうか。
  
 ①慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
 
               (
『化巻』、聖全2の二〇三。大派四〇。本四七三派〇頁)

 ②信はよくかならず如来地に到る。

    
(『信巻』「信楽釈」の『華厳経』賢首品の文。聖全2の六四。大派二三〇。本二三八派頁)

 ③浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心は

  すでに如来とひとしければ、如来ともうすことあるべしとしらせ給え。弥勒

  すでに無上覚にその心さだまりて、あかつきにならせ給うによりて、三会の

  あかつきと申すなり。浄土真実の人もこのこころを心うべきなり。光明寺の

  和尚の『般舟讃』には、「信心のひとはその心すでに浄土に居す」と釈し給

  えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというここ

  ろなり。これは弥勒とおなじくということを申すなり。これは等正覚を弥勒

  とおなじと申すによりて、信心の人は如来とひとしと申すこころなり。    
       

  (『御消息集』、『末燈鈔』3,聖全2の六六一。大派五九一。本七五八派頁)


 これらの文から、浄土に「樹ち」「到る」「いたり」の主体が信心の心と理解

できる。つまり、「信心」のこころが浄土に「即往生」「即横超」したと考察で

きた。つまり、「横超の信心」「横超の金剛心」「浄土の大菩提心」という言葉

があるから、信心が浄土に往生したと考えて間違いないのである。

 そして、③によって「浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころ

なり。これは弥勒とおなじ」「これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信

心の人は如来とひとしと申す」とあるから、「横超の信心」のある者が「弥勒と

おなじ」ということになる。

  
真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に

  無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一

  念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり


               
(『信巻』下、聖全2の七九。大派二五〇。本派二六四頁)

 「横超の金剛心を窮む」者、つまり信心の心が往生した者を「便同弥勒」とい

い、肉体の臨終によって「大涅槃を超証す」るという。

 『正信偈』に「蓮華蔵世界にいたることを得れば、すなわち真如法性の身を証

せしむと。煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえ

り。」とあり、また他の文証からも「往生即成仏」して、還相することになるか

ら、信心の心の還相がまた「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣、八難の道を超

え、必ず現生に十種の益を獲。」というから、「十種の益」とは還相の利益であ

ったとも考えられよう。


 ここで、信心は成仏していることの文を捜し出してみよう。

 1,「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。

  
(『信巻』下の『論註』の引用文、聖全2の七三。大派二四二。本派二五三頁)

 2,この心作仏す、この心これ仏なり、この心の外に異仏ましまさず。


          (『信巻』下の『定善義』の引用文、聖全2の七三。大派二四二。本派二五三頁)


 3,金剛というは、すなわちこれ無漏の体なり。

           
(『信巻』の「三心結釈」、聖全2の六八。大派二三五。本派二四五頁)

 4,専心と云えるは、すなわちこれ一心なり。しかれば、願成就の一念は、す

  なわちこれ専心なり。専心はすなわち深心なり。深心すなわちこれ深信なり

  。・・・・・・決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり

  。・・・・・・憶念すなわち真実一心なり。真実一心はすなわち大慶喜心なり。大

  慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛

  心すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心すなわちこれ度衆生心なり。度衆生

  心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわ

  ちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。

            
(『信巻』「一念転釈」、聖全2の七二。大派二四一。本派二五二頁)

 5,大菩提心はすなわち真実の信心なり、真実の信心はすなわちこれ願作仏心

   なり。願作仏心はすなわち度衆生心なり、度衆生心はすなわちこれ衆生を

  摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわち畢竟平等心なり、こ

  の心すなわち大悲心なり、この心作仏す、この心これ仏なり。これを「如実

  修行相応」と名づくるなり。
(『略文類』、聖全2の四五三。大派四〇七。本派四九四頁)


①②⑤に、「この心作仏す」とあるから、信心が成仏するのである。④の「金剛

心」は③から「無漏の体」というから、金剛心である信心は仏体ということにな

る。

 ④の「無上上心」とは、『諸経和讃』に「無上上は真解脱/真解脱は如来なり

」とあるから、信心は「如来」と論及できる。親鸞はこれを『涅槃経』から学ん

でいる。

  真解脱は不生不滅なり。このゆえに解脱すなわち如来なり。・・  ・・・・また

解脱は無上上と名づく。

 無上上はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわち如来なり。・  ・・・・・乃至

・・・・・・もし阿耨多羅三貘三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無

疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。


                   (『真仏土巻』、聖全2の一二四。大派三〇三。本派三四二頁)


 信心を「無上上」というから、間違いなく信心は「仏心」なのだ。その信心を

「大信心」や「真実信心」と呼称されている。また信心を「大慈大悲心」や「畢

竟平等心」と仏心で表現されているから、信心は「現生」の内に成仏していると

論及できるのだ。

 このように導き至ると、当然、信心は還相して帰ってきた心とも理解できるの

である。


 以上の論証から、西本願寺は肉体の往生のみに固執した者であって、親鸞聖人

は明らかに「現生」において往生し、わが身も「正定聚の位」(還相の菩薩も含

む)に定まったと主張されたとするのが正論となる。

 そして西本願寺は、「欲生」の解釈を親鸞聖人の文献にない「決定要期の心」

として、まったく親鸞聖人にそぐわない解釈をつけている。これは明らかに「係

念定生の願」と同じ意味となって、自力と退けた異解に陥っている。

 親鸞聖人は「横超」を「品位階次を云わず、一念須臾のあいだに、速やかに疾

く無上正真道を超証す」とあるから、時間・空間を越えた如来の側の証りをいい

当てようとしているのであるが、肉体が往生を願う(親鸞聖人にはその願いの解

釈はない。歎異抄九)と、時間に遅刻が出て、「歴劫迂回」の「堅超・堅出」の

自力教となり、親鸞聖人の主張する「円融満足・極速無碍・絶対不二」の教とは

ならなくなるのである。


 但し、貴社のいう「現世に往生成仏する」と云えば、浄土が必要なくなるので

、あくまで親鸞聖人の文面通り、また「浄土真宗」の宗名を犯すことなく、「現

生」とすべきではないだろうか。死後ではない強調として、しかも「この界」の

内でもないことの主張として、親鸞聖人は「現生」と云う言葉を選ばれたと推察

できる。                          合 掌

                     浄土真宗光教寺住職 入井善樹

岩波書店 殿

注 引用文のかっこ、(聖全)は西本願寺系・真宗聖教全集編纂所(昭和33年

発行)のページ。(大派)とは、東本願寺出版発行「真宗聖典」(昭和53年)

のこと。(本派)とは、西本願寺出版部発行「浄土真宗聖典」(註釈版、昭和六

三年初版)。

・・・・・(略、月刊『住職』、岩波書店の「心外」と本願寺体質の批判の記事。)

 ・・・・・・(略、中村博士のコメント、サンスクリット原典が考慮されていない批

判と本願寺の「生活信条」賛嘆。)

                         (なかむら・はじめ)

                      

                   
             1999.12/10 文責 入井善樹